次世代的「ひょんなこと」の話。

正月ムードがすっかり無くなり、寒さだけを残して忙しさが迫りきている。『毎週月曜日更新』のこのエッセイが、2022年初回にして火曜日更新になってしまっている事からも如実に解る事だろう。一度切ったエンジンは中々火を吹けない。何度もキーを回し、『ドゥルドゥル』からの『ブーーン』を待つ日々だ。言い訳だ。

このお正月に帰省できた人も多いのではないだろうか。かく言う僕も帰省をした。同じ都内にある実家に「帰省」というのも少し違和感を感じるが、久々に数日間をのんびり過ごせた。

久々の実家、久々の自室には学生時代の酸いも甘いも全てが内包され、複雑過多な味覚で舌がおかしくなりそうになる。あの頃の自分が今の自分を想像していただろうか。書ききれないほどの経験をしているはずなのに、変わったような変わってないような自分を感じる。最も、僕の実家は改装してしまったので、僕の部屋は一切残っていない。思い出達よ、何処へ。

実家に帰ると、不意に襲ってくる物がある。それが「ひょん」だ。

昨年末の舞台「ひょんひょん」でも語ったこの「ひょん」とは、「ひょんな事」の「ひょん」である。人生おいて、合理的な説明がしにくい、けれど確実に起因となった現象の事だ。このお正月にそんな「ひょん」と出会った人も多いハズだ。

例えば、本棚でひょんと見つけた懐かしい漫画。それを借りパクしていた事を思い出し凹んでみたり。また別の小説をひらくと、当時付き合っていた彼女からの手紙が出てくる。その手紙に込められた想いの「お」の字も残っていない現実に凹んでみたり。見つけた卒業アルバムを開き、当時のマドンナに思いを馳せ、SNS世界を逆手に取り調べてみると、すでに結婚し出産し幸せな母の顔をしている事に凹んだり。そんな事があったはずだ。

僕だって今までの人生で、実家に帰った事によって発生した「ひょん」は多い。ところがだ。今回遭遇した「ひょん」はその質が今までのそれと明らかに違った。一言で言えば「次世代のひょん」だったのだ。

一体どんな物だったのか。
遡るのは僕が高校生だった頃の話だ。
当時の僕は男子校にとって唯一の「出島」的イベント、文化祭に向けて少しでも女子陣の目に触れ、その可能性を増やす為に軽音楽に興じていた。
偉そうに書いたが、簡単に言えば「モテたくてバンドをやっていた」。

僕らの学校には軽音楽部が無かったにも関わらず、同級生には割とバンドマンが多かった。とはいえ披露の場は年に一度の文化祭か、有志が集まって行ったライブハウスでのライブ程度しか無かったのだ。これでは、モテたくて必死にやってきた軽音楽にが骨折り損だ。
そこで卒業を目前に控えた高校3年生の僕たちは、教室で『卒業ライブ』を刊行する事にしたのだ。

僕は「遊ぶなら賢く」が割とモットーである。その起源は確実に学生時代にやっていた日々のイタズラにあり、このライブもその1つだ。例えばアウトローなロックンロールを振りかざし、ゲリラライブをやるという遊びは、僕にとっては「馬鹿な遊び」なのだ。そうではない。しっかりと教師を説得し、或いは説得に足る理屈を並び揃え、許可を得て、完全合法にも関わらず、公的な教室という空間でライブをやり、暴言叱咤を含む歌詞を叫ぶほうが僕は楽しいと思うタイプだった。だからこのライブも当然、完全に許可を得た上でのイベントとなった。

流石に他校の友人を招待する事はできなかったが、10数名の同級生が観客となり、入れ代わり立ち代わり同級生バンドが出場する「対バン」「フェス」のような形式のイベントになった。内容も盛り上がり、すごく大きな思い出になった。中でも記憶深いのは、しっかりと許可をとったにも関わらず「流石に長過ぎる」という若干無理のある理屈で最後の1組だけが途中中止させられてしまった事だ。大人の理不尽さを一番感じたイベントにもなったのだ。

なぜそんな記憶を思い出したのか。
当時の写真を見つけた?チラシを見つけた?
違う。
思い出すに至る「ひょん」は、なんとYouTubeにあったのだ。

正に「ひょん」な事で自身のYouTubeアカウントを見る機会があった。
自分で動画を上げたりは、公式にはしていない。
「限定公開」で仕事用の動画を共有したり、演劇の稽古映像を記録したりとまぁそんな使い方しかしていなかった。そこでふと思ったのだ。
『一番古い動画って何だ?』

マウスカーソルを下ろして驚いた。

そう、一番古い動画は、高校時代の教室ライブの映像だったのだ。

当時、知り合いのお下がりという形で「MacBook」を手に入れたばかりだった僕は、動画編集が楽しくてしょうがなかった。
だからきっと、携帯で撮影したこのライブ映像を、超簡単ではあるが編集して、同級生と観る為に、ここに「限定公開」していたのだ。
しかしその映像は円盤に印刷される事もなく、その存在も完全に失念してしまっていた。

ところが恐ろしいインターネットと言うべきか。
削除しない限りこの動画は広い広いYouTubeの海の底で眠り続けていた。
約10年の時を経て、僕がたまたま見つけるまで、ひたすらに眠っていたのだ。

これは凄い。同時に、恐ろしい。

今年で30歳になる僕は「フラッシュ動画全盛期」「前略プロフ全盛期」「mixi全盛期」「ニコニコ動画全盛期」と変容した世代だ。かなり若い時点からインターネットと密接な関係があり、その恩恵を存分に味わう青春時代を過ごした。逆に言うと我々の青春景色は色あせた写真の中にあるのではない。インターネットの中に、その当時と同じ発色で残っているのだ。

今の僕でそうなのだから、今の僕以上に若い世代はよりその情報度が上がってくる。小学生からTwitterをやっている子は、30歳になった時、20年前の自分が何を「つぶやいたか」を探すことが出来る。大きなイベントに関わらない。「つぶやき」を思い出せるのだ。これはもう恐ろしいほどの「ひょん」に埋め尽くされる事になるのではないか。

頭はではぼんやりと理解していたが、ここまでインターネットを実感したのは初めてだった。YouTubeのお陰で高校時代の映像を観られた。けれどそこには感謝と恐怖が共存した感想が湧く。恐る恐る再生ボタンを押してみると、そういった複雑な感想を吹き飛ばしてある言葉が脳内に浮かんだ。

『俺、細いな……』

次世代的ひょんは、今の加齢をも実感させてくれるのだ。

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