ワンカットドラマの話。

カメラは走った。
妹の結婚式の為でも無いのに−−。


その日、昼間に一本の連絡が入った。
テレビ東京の林ディレクターからだ。
要約すると「若手映像グランプリ」という、テレビ東京社内のコンテストに15分のショートドラマで参戦したいという事、そして納品を考えると撮影まで残り1週間程度しか時間が無いという事を告げられた。盆と正月がいっぺんに、とはよく言うが天国と地獄がいっぺんに来る事は珍しい。ドラマが書ける喜びと、あまりの時間の無さとが混ざりやけに冷静だった。
林くん、もっと早く言い給え、と。
でも林くん、ありがとう、と。

「タイムキーパーさんでドラマ作れないですかね」
これが、彼のくれた提案だった。
僕自身もあまり馴染みが無いのだが、タイムーキーパーさんとは、テレビの生放送における時間管理をするプロフェッショナルだ。この人が居るお陰で、時間通りに生放送は行われている。その事を頭では知っているが、失礼ながらそのお顔は浮かばなかった。が、逆にそのちょっとした縁の下感が、すぐにピンと来た。

映画やドラマの現場の場合には「記録さん」という役職がある。カット1つ1つの時間管理も然る事ながら、「そのコップの位置、さっきとずれてます!繋がりません」と言ったある種のセキュリティを担当しているスタッフさんだ。以前、その職人ぶりを見て圧巻された事もあった。テレビと映画の世界で微妙にその役職は異なるが、大まかな「守護神」という意味では同じに感じた。この2つを混ぜて、何か出来ないか。

とは言え、作品作りにかけられる時間はわずかだ。
撮影まで一週間。撮影が終わっても、編集を挟み納品するまでに3日程度しかない計算だ。15分のドラマとは言え、編集は途方も無く時間を奪う。折角撮ったのに間に合いませんでしたという訳にもいかない。そこでだ。

「ワンカットで撮るのはどうかな?」

本来、ドラマや映画は「カット」と呼ばれる単位で構成されている。カメラを回して、止めるまで。これが1カット。これを何百と繋いでいく事で映像作品は完成する。これを文字通りワンカット、つまりカメラを回し、止まると話が完結する作品を「ワンカット撮影」と呼ぶのだ。

古くはヒッチコックの映画『ロープ』、記憶に新しいのはサム・メンデスの映画『1917』。単館映画の星となった映画『カメラを止めるな』も、一部これに近い「長回し」を使っていた。

その先人たちの映画のどれもがメイキングで語っていたのは、その苦労話であった。例えば『ロープ』は、当時のフィルムの長さの限界が「8分」までであった。これでは映画にならない。そこでヒッチコックは、8分おきにカメラの前に人を通過させたり、ドアを開けたりする事で画面全体を一瞬覆い隠す。この瞬間、俳優たちはピタッ!と止まっている。そこでフィルムチェンジ。アクション。俳優たちが動き出す、という仕組みで撮影されている。想像しただけで恐ろしい苦労だ。

そんな苦労話の尽きないワンカット撮影だが、メリットが無い訳ではない。
編集が要らないのだ。
カットを繋いでいく細かい作業を省ける分、今回の状況にピッタリだと考えた。

更にそこに現状の「タイムキーパー案」が乗ってくる。
だとすると、これはただのワンカットでは飽き足りない。
「カウントダウンぴったりに動くワンカットドラマ」
これが今回やるべき事だ。

かくして打ち合わせが終わった瞬間から、ドラマの脚本を書き始めた。
僕の中でのポイントは2つ。
1つ、ワンカットとは思えない物にする事。
2つ、15分とは思えない物にする事。

1つ目は「如何に人を出すか」「如何に右往左往するか」で作れると考えた。結果的に15分のドラマなのに出演者8名、現場2往復する作品となった。
2つ目は「如何にトラブルを起こすか」だ。小さなトラブルから存続の危機まで。ありとあらゆるトラブルやその種を織り交ぜた。

かくしてその日、準備稿は完成した。
あとは一週間、撮影の準備に林くんが追われきっていた事だろう。
作家は描けるが、あとは待つしか無い。我が子の受験は、応援できても代わりに受けられない。出来る事なら代わってあげたい。いや、本当にそう思っているなら今頃ディレクターになっていた筈だ。林くん、すまん、がんばれ。

更にワガママながら、一部キャストを指名させて頂いた。当て書き好きの僕としてはこんなに嬉しい事は無い。

本作で翻弄されるディレクター・那月には前川昂哉、事なかれ主義なプロデューサー・森には芳賀勇、ドライなフロアディレクター・下原には橋詰龍。
身内贔屓は照れ臭いが、この3人が居る安心感は強い。
まずはこの骨格だ。

広いスタジオを縦横無尽に駆け回るAD・千堂には、中野歩が浮かんだ。小柄で小動物のような彼女が走り回る姿は想像するだけで面白い。彼女と出会ったのは7,8年前だが、思えば僕の脚本に出演してもらった事が無い。こんな事で巡り合わせるとは。

大物司会者のマネージャー・坂本は、どこか幼くて弱い、言うに言えないキャラクターだ。だとするとと、上武京加が浮かんだ。彼女は申し訳なさそうな顔が似合うと僕はいつも思う。申し訳ないが、出てくれませんか。

そこに、林くんが以前番組で一緒になった清水みさとさんを主演で迎える事に。初めましてだったのだが、何とも素晴らしかった。弱くも強くもなく、そのままで生きていた人の意地が見えるあのトーンは中々出せない。大抵弱いか強いかになってしまうのだ。彼女に演じてもらえてとても嬉しかった。

今や閑古鳥となってしまった大御所司会者・小泉小吉役には志水政計さん。こちらも初めましてでしたが、そのアドリブ力に驚いた。何せドラマが始まってから、カメラがスタジオに降りてくるまでの台詞はほぼ志水さんのアドリブ。仮にカメラが早く来ても遅く来てもすっと本編に戻れるように喋るのは至難の業だ。勉強させて頂きました。

更にそんな司会者の話を苦笑いで聞くアナウンサーには、テレビ東京の角谷暁子アナが出演して下さった。彼女もまた、本作での時間配分をかなり担ってくれた立役者である。これがもし普通の俳優がアナウンサーを演じていたのでは出来ない「アナウンサー力」が発揮されていた。その上演技力もバッチリだ。世の中の俳優諸君、焦るべき事実である。

そんなメンバーによって生まれた「林組」は、わずか1日のスケジュールでリハーサル・撮影をこなす事になる。15分間の段取り、動き、台詞を覚える俳優さんも凄い。が、もっと凄い人がこの作品には隠れている。

カメラマンさんだ。

例えば俳優は極論、自分の段取りさえ覚えていれば良い事になる。
15分を8人なので、超単純計算8/15に分担出来る。
ところが、それら全てを追うのがカメラ。
カメラは15分全ての段取り、動き、台詞を頭に入れ、時には俳優を追い、時には目線の先にカメラを振り、時には息を切らせながら階段を駆け上がる必要があるのだ。

あぁ、なんて本を書いてしまったのだろう。
作家は一見なんでも魔法の様に自由に書けると思うだろう。
ところが、例えば僕がたった1行「空から無数の札束が降り注ぐ」と書くだけで、何人のスタッフが動く事になるか。
「プラモデルが木っ端微塵に砕ける」と書いたら、何人が徹夜でプラモデルを作るのか。魔法にはそれなりの代償があるのだ。
走り回るカメラマンさんを見て、正直少し申し訳なく思っていた。大変な苦労をかけてしまっているな、と。

撮影が終わった時、カメラマンさんに僕は冗談交じりに謝った。冗談を交えたのは照れ隠し、本当はごめんなさいが強かった。ところがだ。

「楽しかったです。すごく」

カメラマンさんは笑っていた。
何だか、それ自体がこのドラマのエピソードを象徴している様で、嬉しかった。
物作りはチームプレイだ。要らない人や、大した事ない人などどこにも居ない。出演者もスタッフも同等、だけど互いが互いをリスペクトする事で、より昇華されているのだ。どんな苦労でも、嫌な人の為にはしない。良い座組であると、苦労はどこかへ飛んでいってしまうのだ。
そんな事を改めて感じた。

そう言えば、メロスも走りきった後、皆で笑っていた気がする。

もしかしてただのランナーズハイ……?
少しだけ不安になってきた。


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テレビ東京 若手映像グランプリ2022
参加作品
『いつも通り。』
監督 林毅
脚本 ガクカワサキ
https://www.youtube.com/watch?v=cKTqcUiLRMM&t=4s

再生回数やテレ東ファン支局による投票などで、上位5組が決勝にいけるコンテストです。観て頂くだけで励みになります。15分だけお時間を下さい。よろしくお願いします。

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