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「内向の世代」の作品をこれからも読むだろうという話


戦後文学が私にとって受容しやすいのは、現代社会が1945年以降のシステムの延長だからだろうと思う。
戦時中に成人以上の年齢の者は、徴兵による従軍体験をはじめ、太平洋戦争との関わりなしにその青春や人生を語ることは困難だ。
1925年生まれの三島由紀夫は、その境界に立つ作家として象徴的存在だ。
文学史上では彼を「第二次戦後派」として扱うが、その後現れた「第三の新人」まで、青春と戦争が密接に結びついていた。

そして1930年代に生まれ、少年期に敗戦を経験した人々は、石原慎太郎や大江健三郎などの例外を除けば、戦後に大学を卒業し、その後大学や一般企業に就職し、サラリーマンをしながら純文学ジャンルでの創作を発表した。

小田切秀雄により「内向の世代」と名付けられた黒井千次、後藤明生、阿部昭、高井有一、古井由吉、小川国夫などがその代表的作家だ。
彼らは文芸誌「文体」での同人活動も行った。

彼らの描く作品は私小説の手法を取ることが多い。そして60年代以降の都市生活における家族の実相を、リアリズムや幻想など、それぞれの作風で描く。
これは日本が高度経済成長期に差し掛かった時期を巧みに写しとっていて、一定の普遍性がある。

例えば古井由吉「先導獣の話」では、東京の朝の通勤が、多数の客がいるにも関わらず静けさに満ちていて、その群衆の「整然たる」ことへの違和が描かれる。

私はここ1年ほどの間に彼らの作品を少々読んだ。なかでも黒井千次「石の話」や阿部昭「鵠沼西海岸」、古井由吉「妻隠」などが面白かった。「石の話」の石というのは、夫が妻に買ってやらなかった「結婚指輪の宝石」と、中年になった妻が欲しがっている「墓石」の双方を指している。
「鵠沼西海岸」は、青春小説だ。
そして「妻隠」は若い夫婦の生活を描いたものだが、構成が卓抜だと思う。老婆やヒロシ君などの脇役が、同じ屋根の下の夫婦が他者同士だということを暴くようにうまく作用している。「淫ら」「豊か」「女くささ」などのキーワード。一貫して男が女を観察する視点だ。

数年前から「内向の世代」と呼ばれている中で最も好きな作家は後藤明生で、「挾み撃ち」を始めとしたユーモアと実験的な構造が感覚的に好みである。

いずれにしても自分が社会人になってはじめて愛読するようになった。10代の頃は面白さが分からず、ページを繰っても最後まで読めなかった。
舞台が東京など関東圏ばかりなのは、東京中心主義的で辟易することもあるけれど、現代に通じるテーマを扱っていることもあり、今後もこの世代の作家を読み続けていくだろうと思う。

しかし60年代の内容が現代に通じてしまうのは、作品や人間の営みが普遍的だからなのか、日本社会が何の進歩もしていないからなのか…。女性の社会進出という点では、変わってきている部分も見られはするのだが。

もっとも当該の作家たちはこの括りを肯定的には捉えていないだろう。
例えば古井由吉は、近代以前の文学を伝統に基づいた形式として見てきて、明治以降の創作は多少の脚色をしたって全く新しいものは作れないと考えている。そしてその時代の土台となるものが文体なのであって、たかが個々の作家を比べて独自の文体など存在しないと言っている。
(YouTubeにあがってる西部邁とのお喋りのやつです)
これは川端康成が、「自分のような作家が日本文学の代表だと思われては困る」と言ったことと似ていると思う。
(YouTubeにあがってる三島由紀夫、伊藤整とのお喋りのやつです)

まずはこの国の古典を読まねば。受け継がれてきた伝統や、研ぎ澄まされた詩的な言葉の選択を味わわねば。
川端や古井に触れると自ずとそのような自戒がやってくる。

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