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「リトル・クイニー」をめぐる偶然

これまで全く知らなかったことを、近い期間で偶然2回知る、ということが往々にしてある。
チャック・ベリーの楽曲「リトル・クイニー」がまさにそうで、28年間の人生で耳にしなかったタイトルに、短期間で2度出会った。

中学生の頃に斉藤和義が世間的にヒットして、「ずっと好きだった」もずいぶん流行ったが、あの特徴的なイントロがチャック・ベリーのオマージュだというのがいわゆる「ロックンロールの創始者」を知ったきっかけだった。
それからブルーハーツや真島昌利のソロを聴き始めて、こちらもずいぶんチャック・ベリー調の曲がある。

またこの頃見た映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、ロックンロール誕生以前にタイムスリップする設定を生かし、若かりしチャック・ベリーにインスピレーションを与えるコミカルな場面がある。

映画でいえば、『パルプ・フィクション』の有名なダンスシーンに使われるBGMは「ユー・ネヴァー・キャン・テル」だ。

さて「リトル・クイニー」だが、YouTubeの「トミーのガラスのタマネギTV」というチャンネルで知った。これは洋ロックの大御所の対談やインタビューなどを関西弁で吹き替えたという画期的なチャンネルであり、著作権がどうなっているかはともあれアーティストの恰好良さにもロック史の理解にもうってつけのチャンネルである。

ここでポール・マッカートニーとロン・ウッドが話しているものをみた。
チャック・ベリーの「リトル・クイニー」は、ビートルズもストーンズもカバーしている。
ポールはチャックを「詩人」だと言っていた。また、ポール・サイモンがアメリカの詩人協会に彼の詩を入れようとしたなどと話していた。私は「詩人」という言葉に関心を持った。

クイニーというのは女性の固有名だが、私はフォークナーの『響きと怒り』に登場する馬を連想する。「はいしー、クイニー」とあの愛すべきラスターが鞭を打つコンプソン家の飼い馬。

いざ曲を聴いてみると、go go と連呼するあたり、これは真島昌利の「Go!Go!ヘドロマン!」の元ネタなのだと知り、複雑な思いにいたった。というのも、素晴らしい曲だと感心して思春期に聴いていたからだ。

素晴らしいメロディがあれば、誰が作ったかは聴き手にとっては重要でないという見方もある。しかし、権利が明確でない時代、それこそロックンロールの創世記である50年代には、多くの黒人アーティストが生み出した曲を白人アーティストが無遠慮にコピーしまくったという事実もある。

このように私は「リトル・クイニー」を知ったのだが、その数日後に、ボブ・ディランがツアーでこの曲をカバー演奏したことをYouTubeで知った。
どうも彼はバディ・ホリーしかり、最近はクラシック・ロックンロールのカバーをしているのだが、遅かれ早かれ私はリトル・クイニーにであっていたということだ。

ディランもまた、楽曲のパクリの常習犯として有名ではあるが、その声、そのメロディ、そのアレンジに惹きつけられ続けている私にとっては、チャック・ベリーをカバーしていること自体になにかしらのメッセージ性を感じもするのだ。
それは簡単にいえば、原点への回帰という視点だろう。

ところでチャック・ベリーはどのように詩人なのか?
そもそも詩人というのはどういう意味なのか。弱い立場の市民の見方をする感受性豊かな反戦者を詩人と呼ぶのか、言葉遊びが好きな道楽者を詩人と呼ぶのか。私は「詩人」という言葉の響きの素晴らしさを感じる点と比較し、詩人そのものの実態にはあまり好意を持っていないのかもしれない。
この点についてはこれからまた気が向いたら考えることになるだろう。

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