「ザナドゥおじさん②」
【1―2】
鵜羽根島の中央部に位置する場所にぽつんとある、「小山内」と書かれた一軒の家。そのリビングには家主である小山内保とその妻浩美、そしてホームヘルパーの関ゆかりがいた。
まだ陽は高いはずだが、薄暗い室内だった。
深めのソファーに腰掛け、どこか惚けた様な表情をしている家長の保に、ゆかりは少し屈み込み視線を合わせ「保さん、足、」と話しかけた。
「ん?」
「足、痛くありませんか?」
ゆかりが聞いても、何処かあらぬ方を見たままで応えようとしない。
「あなた、関さんがね、足、痛くないかって」
浩美もゆかりと同じ様に問う。
「固いから」
「え? 何が固いの?」
「シャワーヘッドだよ決まってるだろ」
60歳で役場の仕事を定年退職した後は趣味で菜園を始めたり島の観光化に向けて相談を受けたりして、日々それなりに忙しそうにしていた。が、それから6年が経った後、急に認知症の兆候が現れだした。些細な物忘れから始まり、徐々に人の顔や過去の記憶があやふやに。
現状は、辛うじて家族の顔だけは分かる状態になってしまっている。
「え、なにシャワーヘッドって。足は?」
「ん?」
「あーし」
「保さん、転んだとこ、痛くないですか?」
ゆかりも再び声を掛けた。
「いや痛くはないよ、そんな鍛え方はしてませんよ」
「ちょっと青くなってるけど」
これは浩美。
「何が?」
「だから足……参ったわねぇ」
そこに「ただいまぁ」と言いながら、娘の美和が研究所から帰宅してきた。
「大丈夫? どうしたの?」
「ああ美和ちゃん。大丈夫そう。ちょっとお父さん納屋で転んじゃって。自分のご飯を、納屋に運び込もうとしたみたいで」
「納屋に? なんで……?」
「それが……あの……納屋にねぇ、優作が、いるって言うのよ」
「え」
「優作、いるって言うのよ、お父さん。優作にお昼ご飯食べさせたかったんですって」
優作、というのは美和の弟の名だった。
なのだが……。
「怪我は無さそうです、打ち身はありますけど。納屋のお皿、片付けておきますね」
ゆかりは納屋へと消えていった。
「……あ、はい……」
美和は曖昧に答える。
「……お父さん、納屋にさ、」
「おん?」
「……優作、いるの……?」
「お~おるおる、隅で座っとるよ。さっきも皿うどんペロッと平らげてな。家入れって言ってるのに全然言う事きかん。あんなに頑固だったかなぁ優作は」
父は本当に居ると思っているのか、あの子の事を。この状態の父親にキチンと現実を伝えるべきなのか、美和は惑う。しかし嬉し気に話す顔に、美和は何も言い出す事が出来ずにいた。
「無いのよ、皿うどんのうどんが無いの。お父さん転んで床にぶちまけちゃった筈なのに、割れたお皿しか無いのよ、納屋の中。うどん、何処探しても無いの」
「空のお皿だけ持って入ったんじゃないの……?」
「優作、うーまいうーまい言ってなぁ。砂がついてても最高だって言ってハハハ」
保は嬉しそうに、納屋を見て笑っている。
「納屋に入る直前のお父さんをね、関さんが見てるんだけど。うどんちゃんと載ってたって」
「野犬か何かが食べたんじゃないかって思うんだけどねぇ……」
「島に野犬なんていないでしょ」
「あんたんとこのチンパンジーとかは?」
「あれは、もうそういう生き物じゃないから」
「何回もやってたみたい、納屋にご飯運び込むの」
ゆかりが、割れた皿を盆の上に乗せて戻って来た。
「割れたお皿、台所置いときます」
「誰、あれ?」
「やだ。ホームヘルパーの関さん」
ぽかんとした顔で聞く保に、浩美が答えた。
美和、納屋に1人入って行く。
納屋の中はしんと静まり返り、明かりは小さな小窓から入って来る薄明りのみで家の中よりも更に薄暗い。
無音だ、何の音もない。
父の言う様に優作がいるような気配は、何も無い。
ただ暗くがらんとした納屋の中に、底知れぬ不安を美和は感じていた。
【1―3】
鵜羽根島唯一の寿司屋「魚吉」。
その店内にカウンターの中で寿司を握る店主、吉岡恭吉と客の中村芳雄がいる。
店内にはある種緊張感の様な物が漂っており、店主恭吉の表情は渋い。対して中村の顔は緊張感の欠片も無い。黒いジャージにクロックス姿の彼は店内をキョロキョロ探る様に見ていた。
「次は何を、」
「えっとじゃあ……そうだなぁ」
「今日は金目が良いの入ってるけど、」
「あ、じゃあ、カッパで。あの、大将、今日鬼子さんは?」
「今は留守で」
「そうなんだぁ、いつ頃戻るとか分かりますか?」
「さあ」
「え~参ったな~いるって言ってたんだけどな~」
「約束を?」
「まあそんな感じのを」
戸が開き、鬼太郎が現れると開口一番「あ」と中村を見て声を上げた。
対して中村も「あ~……」と鬼太郎を見ると声を上げる。こちらはあからさまに不機嫌な調子だ。
「大将、お勘定を……」
「400円ね」
中村は渋々と言った様子で金を払うと、鬼太郎の視線を避けつつ俯きながらそそくさと店を後にして行った。
「……あれ……前に鬼子に付き纏ってた人間です」
と鬼太郎。
「やっぱそうか、お前が言ってたのと似てんなと思ってな。咄嗟に鬼子ちゃん奥、隠れてもらった」
「近付くなって言ったのに、僕が検査でいない時狙ってたんですね」
「ああいうのは図太いんだ。適当にあしらっときゃ良い」
「スミマセンいつもご迷惑を」
地獄からやって来た鬼太郎は、この寿司屋で住み込みをしながら寿司の修行をしている。恭吉のもとで日々寿司の握り方を教わっているのだ。
今現在、鵜羽根島にいる鬼は鬼太郎とその妹鬼子の2人のみ。その2人とも頑固な事で有名な恭吉の営む寿司屋「魚吉」に居候をしているのだった。
「で、どうだった検査の方は?」
「相変わらずです。あ、あの人来ました研究所に、島興しの」
「依田か……? 何しに?」
「いつ観光再開できるのかとかそんな事を。大将、じゅう持ってるんですか?」
「依田か……」
「オリンピックとか、」
「昔な」
店の奥から「恭吉さん、」と女性の声が聞こえてくる。
「あ~ごめんごめん、帰ったよ」
恭吉がそう答えるとお店の奥からお腹が大きく前に張り出した身重姿の、鬼の鬼子が割烹着姿で現れた。
「有難うございます……」
身重だからかだろうか、鬼子はすぐに椅子に腰かける。
「なんのなんの。あれでもうちょい他の寿司も食ってくれりゃなあ。カッパばっかだから」
「あの、さっき漁港の方からお電話がありました」
「あ、あれそうか……。鬼太郎、ちょっと店頼む」
「へい。なんかあったんですか、」
「ん、まあ、魚がな」
そう言い残し、恭吉は店の奥へと消えていく。
鬼太郎は鬼子から何かを求める様に、顔を見る。
鬼子は鬼太郎に対しバツが悪いのか、俯き黙る。
口を開いたのは、兄の方だった。
「……人間界に居たいなら、次は検査行けよ。こっちに居られるかどうかはあの人達次第なんだから」
「うん……」
「適当に話し合わせておけば心配する様な事にはならないだろ。あの人達、お前の身体の事なんて何も知らないんだし」
「うん」
「……でも、その、兄ちゃんにはそろそろ教えてくれよ。誰なんだ、お前のお腹の中の……」
鬼子は俯いたまま何も喋ろうとはせず、鬼太郎もそれ以上聞いても仕方あるまいと思うに留まった。
続く。
老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。