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今なぜ教育のアップデートが必要なのか?④まとめ~今、必要だと考えていること

(再掲)本シリーズの狙い

これまで、「今なぜ教育のアップデートが必要なのか?」と題し、①~③と主に引用文献をまとめる形で書いてきました。

それは、以下を明らかにする狙いがあったからです。

①日本の近代教育の目的を解明する⇒その目的は今に合致しているのか?
②近代教育以前の日本の教育について知る⇒その教育は、今に取り込むべき要素を持っているのか?
③では改めて今、重要だと思われることは?

その意味で、まとめ回である今回は上記①、②、③について考察します。

ちなみに、前回までの記事はこちら。

①日本の近代教育の目的を解明する⇒その目的は今に合致しているのか?

近代教育の目的は、これまでをまとめ、解釈すると以下の通りだと考えています。

・西洋の植民化に対抗するために、倒幕→明治政府が誕生
・富国強兵・殖産興業という絶対命題を成立させるには、人材育成の場=学校と、そこに強制的にでも通わせる必要があった
・育てたい人物像は優秀な軍人や労働者。すなわち、命令に一発で従う従順さや努力や忍耐を重んじる精神性を持ち、かつその命令を遂行できるスキルがある
・従って、「全員で同じことを、同じようにする」=規格化、同質化を目指した一斉授業スタイルとなった。これが現在まで基本的には引き継がれている

上記は、あくまで19世紀の世界の植民地化の流れに対抗するために「是が非でも必要だった」ということを踏まえなければなりません。

そして、そのシステムは非常に機能的でした。
日本がアジアの中で珍しく植民化を免れ強大な軍事力を持つに至ったことや、戦後奇跡的とも言える高度経済成長を工業力で成し遂げたことがその証左と言えます。

ただ、1990年以降、日本のこの「全員で同じことを、同じようにする」という武器は、時代の変化により諸刃の剣となって日本の足枷となります。

現代は、イノベーションの時代であり、「妄想力=妄想を形にできるか」とまで言われる時代です。
言い換えれば、「誰かが指示をしたことに従う」こと以上に、「自分自身がいかに自分の中にしかないものを形にできるか?」が価値を持ちます。そこで、「みんなと同じことを、同じように」では価値を生むことはできません。それが、日本の「失われた30年」の主因の1つだと考えています。

また、これは何も経済的成功だけの話ではありません。価値観の多様化を踏まえると、従来のある程度共有された「幸せ像」以上に「自身にとっての幸せのかたち」を見出せるかも非常に重要になってきています。

その意味で、「自己の確立」が問われる現代、そしてさらに求められると思われる今後においては、近代教育だけでは合致しづらいと捉えるべきだと考えています。「ベースを整える」というこのやり方の長所は活かしつつ、いかにその人の資質や才能、興味・関心を引き出す形を組み合わせるべきでしょう。

②近代教育以前の日本の教育について知る⇒その教育は、今に取り込むべき要素を持っているのか?


翻って、江戸期までの教育の特徴は寺子屋・手習い所です。

・現在の小学校の2倍の密度で寺子屋があった
・相手の職業や性別に合わせ、様々なテキストが存在した
・扱う内容は、農業や商売など実用的(と感じられる)な内容だった

ということになり、規格化や同質化というよりは、より「バラバラ」な、ある程度個別最適化された教育システムです。

当時の日本は、職業が身分や地域による固定度の高い社会でした。言い換えると世襲的です。だからこそ、寺子屋や手習い所は、上記を踏まえると通える範囲に多くの職業訓練学校があったようなものです。

これを身分の固定度が低くなった(そして、さらに低くなっていくと思われる)時代に置き換えると、オルタナティブスクールが地域に多く存在しているような社会のイメージが浮かんできました。オルタナティブ、とは「選択肢」を意味します。なりたい自分をサポートしてくれる教育機関の選択肢が多くある状況とすると、今の時代に望ましい形にも感じます。

また上記個別最適化されたされたシステムを考えると、教科書や目指すコンセプトがいい意味でバラバラになっていることが、それを選ぶご家庭や個人のニーズとマッチすることで自己の確立につながっていくのではないでしょうか?

その意味で、江戸時代の寺子屋や手習い所のシステムには現代見直すべき価値があるように思います。

③では改めて今、重要だと思われることは?~近代教育システムを生かしながら補強する

それでは、上記の考察を踏まえた上で、今必要だと思われることは何なのでしょうか?

明治以降150年継続している教育システムは、「同じことを、同じように」規格化された能力の形成には長けています。
ただ、現状はその「同じことを、同じように」という水準を整えるまでにかけるコスト(時間・エネルギー)が高く、GAJYUMARUとして最も重視している「沖縄に生まれた子どもたちが1人ひとり自分の生きたい人生を描く」上ではブレーキになってしまう懸念があります。

また、その過程の中で
・素直で従順に指示に従う→自己決定の習慣が身に付きづらい
※「指示待ち人間」と呼ばれる現象において、自己決定の習慣がないことが問題だと考えています
・我慢や忍耐が重視される→自身の欲求にブレーキを掛けることが習慣となる
といった部分は、自己の確立において大きな障壁となると考えています。

その意味で、現状の「ここまではできるように」とボトムを揃えるスタイルの中でも、自己決定や子どもの内発的動機づけに基づいた学びを促進することの工夫はあった方が良いと考えています。
たとえば、内発的動機づけという意味で非常に有効なのは、福島哲也先生の『学び合い』でした。

福島先生は、Find!アクティブ・ラーナーという教師向けの授業研究プラットフォームで年間授業動画視聴数1位となっています。
塾講師時代に、福島先生と私とでお互いの授業に参加する機会を持たせていただきましたが、福島先生の『学び合い』は本当に衝撃的でした。


子どもたちの表情・活気が違います。大人たちが設定した外発的動機づけと違い、教科内容が「手段」となっています。
「友だちの言っていることを理解したい」「自分の伝えたいことをうまく伝えたい」「みんなで達成したい」などのコミュニケーションや集団形成が目的となった時、子どもたちのモチベーションが飛躍的に高まるのを目の当たりにしました。
※『学び合い』(「二十括弧の学び合い」と読みます)にご興味のある方は、提唱者の西川純教授の書籍が良いと思います。

今後もGAJYUMARUとして紹介したいものは紹介していきます。

③では改めて今、重要だと思われることは?~自己の確立を支援する仕組みづくり

江戸時代の教育システムに着目しているのは、明治維新という大転換期を担う人材を生み出したという点にも理由があります。
現代も「失われた30年」を取り戻す上で社会そのもののアップデートが求められています。江戸までの教育システムのどこにアップデートを可能にしたポイントがあるのでしょうか?

それは、「私塾」だったという点にあるのではないでしょうか?
吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾など、時代の激動期を支えた人材を生み出した一つの要因が私塾でした。

今でいうと、民間の教育機関というべきでしょうか。
次代に必要だと思われるものを、それぞれの教育者が様々な狙いや方法で試行錯誤する=良い意味で「バラバラ」な教育が、それに可能性を感じる子どもたちに提供されること。
それが、GAJYUMARUの目指すものと合致すると考えています。

そして、既に非常に可能性を持った教育者や「何か子どもたちの力になりたい」と思っている大人たちは多くいらっしゃいます。
むしろ、不足するのは「マッチングを作る」存在
「ない」ことが問題というより、「出会えない」ことが問題なのではないでしょうか?

だからこそ私たちは、そういった「マッチング屋さん」という仕組みになりたいと考えています。


まとめ

以上、これまでのシリーズで改めて私たちが取り組むべき方向性を探ってみました。
まだまだより広い視点で眺め直したいとも思っているので、是非コメントでご感想・ご指摘などをいただけるとありがたいです。
どうぞよろしくお願いいたします!

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9月は極力毎日noteを書いて、GAJYUMARUについて皆さんによくご理解いただけるようにしていきたいと考えています。
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