書籍紹介「ドリーム・ハラスメント」④「夢」ではなく、「没頭」がモチベーションを生む
(再掲)本シリーズの狙い
一昨日からは、「ドリーム・ハラスメント」(高部大問(2020).ドリーム・ハラスメント イースト新書)という書籍を紹介しながら、GAJYUMARUとして子どもたちが自分の人生を描き、デザインする上でどうサポートすべきかを考えます。
本シリーズの狙いは、
・「夢」という言葉、「夢を持つことが正しい」という発想が子どもにどんな影響を与えるのか?
・何より、子どもが自分の人生を描く上で、どんな言葉やサポート方法が望ましいのか?
です。
それでは、以下、引用します。ちなみに昨日までの記事はこちらです。
「せずにはいられない」衝動を妨害せず、援助する
※重要だと思った箇所を私にて太字としています
夢を持たせたいのであれば、若者たちが「せずにはいられないこと」を妨害しないこと、すなわち「非妨害」です。どんな「MUST」が「WILL」に化けるのか。これは本人を含めて誰も知り得ません。夢は「得体の知れないもの」です。掴まえ所が無く得体が知れないのに、それを生み出すための必要十分条件は割り出せません。私たちにできることは、若者たちの好奇心を妨害しないことくらいなのです。
「非妨害」なんて簡単だと思われるかもしれませんが、私たちは知らず識らずのうちに若者たちの「せずにはいられない」を妨害しています。
たとえば私が1年間の育児休業を取得した際、最も頻繁に耳にした単語は「ダメ」でした。公園でも、電車でも、ショッピングセンターでも、ママやパパは幼子に「ダメダメ攻撃」をしてしまいます。自宅でさえも、です。
妨害の被害者は幼子だけではありません。学校の授業で生徒たちが毎時間先生を質問攻めにしたら、文部科学省が定める教育課程は完了できません。生徒たちは、「君たちの興味・関心を重視する」と言われながら、実際には疑問や質問に蓋をするしか無いのです。
子どものための学校ではなく、学校のための子ども、というわけです。
大学生も同様です。就職活動を控えた学生に履歴書の代筆までしてあげる親切なキャリア・アドバイザーや民間業者も、単位で釣って講義や行事に出席させ満員御礼だと偽るインチキ大学教員も、折角のやる気や学ばうという気概を白けさせます。結果、単位は与えられても信用は失っているのです。
巨人の親切が小人を破滅させるわけですから、過度な援助は体のいい虐待です。良かれと思っての善意でも、発達の妨げになる援助は有難迷惑です。
(中略)
子どもの活動の原動力のほとんどは衝動です。整備された大人の世界では衝動的活動は歓迎されません。だから、「ダメダメ攻撃」が横行してしまいます。
このことに違和感を持った医師がいました。「子どもは心身の活動に対する本質的な熱望が妨害されており、いつも抑圧されているという苦悩を経験している」。彼女は子どもの衝動的活動を妨害しないために、大人が「ダメダメ攻撃」をしなくて済む時空間が必要だと考えました。そうして子どものために一から拵えられた生活環境が、医師マリア・モンテッソーリの「子どもの家」です(『モンテッソーリの教育』あすなろ書房)。
「子どもに手を洗うよう望むなら、彼の背丈にあったものを用意しなければなりません」というように、子どもが使う教具や遊具などの一切合切が大人用の使い回しではなく子ども専用であるそのわけは、彼らの衝動的活動を妨害しないことが基本方針だからです。
経営学者のピーター・ドラッカー氏に元アメリカ大統領のバラク・オバマ氏。Microsoft、Wikipedia、Google、Amazon、Facebookといった革新的企業を創業したファウンダーたち。そして、14歳でプロ将棋棋士となった藤井聡太氏。
モンテッソーリ教育を受けた彼らが、圧倒的な集中力でィマジネーション溢れる仕事を成し遂げるに至ったのは、衝動に対する「非妨害」の教育と無縁ではないでしょう。
彼らは「はみ出し者」だったかもしれません。しかしながら、彼らはルールを破ったわけではありません。ルールのなかで常識を打ち破っただけです。
「父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、(中略)人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与にするに若かざるなり」とは、モンテッソーリと同時代を生きた日本人・福沢諭吉の言葉です(『学間のすゝめ』岩波書店)。彼もまた、「非妨害」の重要性を説きました。妨害せずに保護するからこそ、保護者なのです。
若者たちの好奇心の火蓋にならないこと。彼らの「せずにはいられない」ことを見極め、それを妨害しないこと。これが、私たちにできる僅かな、けれども若者たちにとっては貴重な支援です。求められているのは、発達を援助するような手助けであって、発達を阻害するような手出しではありません。
自分の子どもや生徒や学生や部下に夢が無いと嘆く方は少なくないでしょう。しかし、「せずにはいられない」ことであれば、多くの個人が持ち合わせています。
「せずにはいられない」ということは、疹くということです。脇目も振らずひとつのことに集中する首尾一貫した生き方は窮屈で退屈そうなものですが、そんなことは関係無く脈打つ。ひとつのことに没頭するということは他のチャンスを見落とすことになりかねませんが、そんなことはお構い無しに衝動に駆られる。これが、疼くということです。
若者たちが何かに取り憑かれたように突き動かされていないか。自然と吸い寄せられることや無意識のうちに釘付けになっていることは無いか。心を奪われていることは無いか。指示したわけでもないのに、できない理由よりもできる方法をつい考えていることは無いか。他人の評価などお構い無しに人知れずやりがちなことは無いか。彼らが見て見りふりできないことは無いか。これらを観察してみてください。
気付けば熱狂的に没頭している何か。頼んでもいないのに熱中している何か。それが、「せずにはいられない」という「MUST」です。我を忘れ、時間も忘れるほどの没我状態。逆説的ですが、「自分の夢は何だろう」などと夢のことなど考える暇も無いくらい夢中になっていることに、夢の種が蒔かれているのです。
「没頭」の重要性
「没頭力」という言葉が注目され始めています。
講師時代も感じていましたが、やはり没頭力が高い子どもは勉強に限らずパフォーマンスが高いです。
没頭力の頂点にあるのは、赤ん坊だと考えています。赤ん坊は一心不乱に何かに没頭する天才です。だからこそ、乳幼児は私たちには考えつかないような天才的なアイディアを生み出します。多くの保護者が、「ウチのコ天才かも!」と感じてしまうのは、「親バカ」が原因ではなく、本当に天才性を発揮しているからではないでしょうか。
それが、上記のように様々な理由に妨害されることによって、没頭力を失っていくこととなります。翻って、没頭することを後押しするモンテッソーリ教育の出身者に藤井聡太3冠など驚異的な成果を上げる「天才」が多いのは必然と考えられます。
すなわち、大人たちが用意するのは彼らの「夢」や「夢を持たせること」ではなく、「没頭を妨げない」、あるいは「没頭したくなるものが溢れた」環境づくりなのではないでしょうか?
選択肢の可視化と、自己決定
このnoteではもう何度も触れていますが、その「環境づくり」に重要なのが「選択肢の可視化」と「自己決定」ではないかと考えています。
モンテッソーリもそうですが、子どもの周りには思わず夢中になりそうな様々な教具が配置されています。それは、言い換えると「選択肢」です。
1人ひとりの子どもが没頭するものは、当然それぞれ違います。また、タイミングによっても、没頭する先は移り変わります。
これを沖縄の社会と捉えてみると、沖縄の子どもたちの身の回りに、思わず 没頭してしまいそう、気になってしまう「何か」が目につく状態となっているかどうか。現状はまだまだ見えない状態かと思いますが、これを様々な手段により可視化できれば、もっと子どもの没頭を支援できるはずです。
そして、その選択肢から何を選ぶかを大人が促すのは、上記にある通り没頭を促すというより阻害要因となってしまう危険性があります。
初めは与えられたもので、やればやるほど没頭していく事例も習い事など多くあります。ただ、それも「『続ける』という自己決定」によって生まれるものと言えるのではないでしょうか。
また、他者が決めた道と、自分で選んだものとではどちらが没頭に入り込みやすいかは自明とも言えます。
自己決定も、没頭をつくりだす重要な要素だと考えています。
大人は『選択肢が可視化された環境』を用意し、その中で子どもの『自己決定』を尊重する。その2つがあってこそ、子どもの没頭を生み出し、「夢」を上回るモチベーション、が生まれていく。もしくはそれが「夢」を生み出していくのだろうと思います。
次回予告~今シリーズのまとめ
次回は、この3回の引用を受けて、子どもが「やりたい」モチベーションを持つために必要なことをまとめ、深めていきます。
どうぞお楽しみに!
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また、9月は毎日noteを書いています。GAJYUMARUについて皆さんによくご理解いただけるようにしていきたいです。
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