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森光子や黒柳徹子が所属していた昭和後期の一流芸能事務所・吉田名保美事務所

昭和後期に「吉田名保美事務所」という芸能事務所がありました。今日ではその名前を知る人は少ないと思われますが。「コトバンク」に社長の吉田名保美氏の項目がありますので全文引用致します。

吉田 名保美
ヨシダ ナオミ
昭和期の経営者 吉田名保美事務所社長。

生年:大正15(1926)年
没年:昭和62(1987)年8月3日
本名:日下好江(ヒノシタ ヨシエ)

経歴:女性マネジャーの草分けで、有島一郎、森光子のマネジャーを経て、昭和41年吉田名保美事務所を設立。マネジャー時代に培った人脈と企画力、さらに歌舞伎から商業演劇にまで幅広いアンテナを持ち、同事務所を一流の俳優プロダクションに仕上げた。全盛期には、森光子、黒柳徹子、佐久間良子、平幹二朗ら常時15人前後の有名俳優やタレントを抱え、大物女性マネジャーとして業界では有名だった。

日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

ウィキペディアの「森光子」の項目には以下の記述があります。

1966年(昭和41年)、東宝でマネージャーを務めていた吉田名保美が独立し「吉田名保美事務所」を設立。森も東宝から同事務所に移籍(ただし、これ以降も提携関係を継続)。

また、本多圭氏の文責による「桃井かおり、沢田亜矢子らを育て、守った男……急逝した名芸能マネジャーを偲ぶ」(『日刊サイゾー』2014/02/24 08:00)という記事に吉田名保美事務所について以下のことが書かれています。

 堀内氏とは、芸能界の名マネジャーだった堀内信秀氏。森光子さんのマネジャーを務めていた吉田名保美さん(いずれも故人)が立ち上げた「吉田名保美事務所」のマネジャーだった。所属女優は、森さん、黒柳徹子、佐久間良子、松原智恵子、和泉雅子、波乃久里子、沢田亜矢子、桃井かおりといった、そうそうたるメンツ。山口智子や天海祐希らが所属する「研音」以前に、“女優の宝庫”と称された、日本を代表する芸能事務所だった。

残間里江子氏の「竹下景子さんと39年ぶりにお話ししました。」(2021年8月3日)と題されたブログに以下のことが書かれています。

1981年のある日、吉田名保美さんという、素敵な女性が、私を訪ねていらっしゃいました。
吉田さんは私より24歳年上で、当時の芸能界で、森光子さん、黒柳徹子さん、佐久間良子さん、平幹二朗さんなど、多くの女優・男優を育てた、名マネージャーでした。
幅広い人脈と優れた企画力で、演劇界でもテレビ界でも、一目も二目も置かれていた方で、「マネージャー」というよりは、「プロデューサー」と言った方が、正確な感じがします。
ただ当時は、プロデューサーという仕事は、映画会社やテレビ局に帰属している人と、認識されていましたから、吉田さんはマネージャーという範疇で、仕事をしていらっしゃいました。


吉田さんは、ロングスカートに優美なブラウスを着て、車内がワインレッドの革で統一された、メルセデスベンツの、運転手さん付き自家用車で現れ、私にこうおっしゃったのです。
「昔、演劇プロデューサーで、後にマネージャー業にも進出した、吉田史子さんという人がいたの。
加賀まりこさんや石坂浩二さん、緒形拳さんなどを育てた人。
とてもセンスのいい人で、28歳の時に、歌舞伎役者の8代目幸四郎と、新劇の森雅之と、映画女優の新珠三千代で、「オセロ」を製作したことで名を馳せたの。
でも、残念なことに7年ほど前に、クモ膜下出血で急逝したの。
あなたはその史子さんに似ていると思うのよ。
そこで(ちょっと間があって)、私はあなたに白羽の矢を、立てることにしました。(宣言する感じで)
今、私が大切に育てている竹下景子の、初めてのコンサートを、プロデュースしていただきたいと、思っているの」と。

不遜にも、「自分から『白羽の矢を立てた』という、言い方ってあったかしら?」などと、思いながらも、吉田さんの優雅な物言いと、立ち居振る舞いに気圧されて、(同時に魅了されて)出来るかどうかの迷いはありましたが、竹下さんのコンサートのプロデューサーを、お引き受けしたのです。
吉田史子さんについては、お会いしたことはありませんでしたが、お仕事ぶりは何となく知っていて、カッコいい人だなと思っていましたので、似ているなんて言っていただいて、光栄だとも思ったのです。
(吉田史子さんのことは、本名の「ふみこさん」とは呼ばずに、みな「しこさん」と呼んでいました)

竹下さんは当時、「お嫁さんにしたい女優No. 1」と、言われていたのですが、吉田さんは「清く正しく美しく」みたいな、竹下さんのイメージを少し変えたいと、思っていらしたようなのです。
「新境地発掘」ならばと、タモリの「今夜は最高」という番組の、構成作家だった高平哲郎さんに、作・演出をお願いしたところ、高平さんは「1981年だから」というので、竹下さんに81曲を歌って貰うという、仰天企画を打ち立てたのでした。
それでも竹下さんは素直に応じてくれて、結果、明るく楽しい、ファーストコンサートとなり、千秋楽には大入りを出すほど、成功裏に終わったのでした。

私はそれまで、シャンソン歌手の金子由香利さんの、コンサートのお手伝いをしたことはありますが、何もかもを決めなければならない、総合プロデューサーは初めてのことで、随所で吉田名保美さんのご指導を受けました。
(知らないことだらけでしたから、稽古場の陰で涙をこぼしたこともありました)

コンサートの後も、吉田名保美さんとの、おつき合いは続いたのですが、ほどなく私に雑誌編集長の話が、舞い込んだことから、「吉田史子さんのようになる話」は、立ち消えになってしまいました。

………そしてその後、吉田名保美さんは1987年の夏
お孫さんとプールで遊んでいる時に、亡くなられたのでした。
61歳でした。

以下のサイトに井上順のインタビュー記事が載っており、吉田名保美氏について言及があります。

― 井上さんにとって“お母さん”の存在とはどういうものでしょうか?

これはもう僕だけじゃなくて皆さんそうだと思うのだけど、大体の家庭では、お父さんが働きに出ているので、お母さんと過ごすことが多いわけじゃないですか。なので、お父さんへの想いとは別に、お母さんの存在というのは大きいと思います。
僕の母親は50歳で他界してしまいましたが、僕は両親を通して、石井ふく子先生やプロダクションの社長である吉田名保美さんという方たちと知り合うことができました。母は若くして亡くなってしまいましたが、石井のお母さんや吉田のお母さんと引き合わせてくれたのかなと。そういった意味で、僕は“母親”という存在に恵まれていたのかもしれませんね。
両親の愛情や母親の愛情って、子供の頃は当たり前のようにあるものだと思っていたけれど、今、この歳になってあらためて考えてみると、親のありがたさや家族の尊さを感じています。そんなこともあり、毎日出かけるときには仏壇にお水をお供えして「今日ももへじのリハーサルへ行ってくるからね」といった感じに話しかけています。
こうしてお芝居をさせていただいていると、僕を支えてくれた方たちの顔が浮かんでくるというか、想いを巡らすことがありまして、何だか皆さんが背中を後押ししてくれている感覚があります。皆さんに助けてもらって、ジミーの想いや空気感を出せていると思います。

吉田名保美事務所には森光子、黒柳徹子、佐久間良子、松原智恵子、和泉雅子、波乃久里子、沢田亜矢子、桃井かおり、竹下景子、平幹二朗、井上順といったタレントが所属していたことが分かりますが、この錚々たるメンツを見るにつけ、格式の高い一流芸能事務所であったことが伺えます。

森光子が舞台『放浪記』で芸能界の第一線に躍り出るのが1960年代に入ってからですが、ドラマ『時間ですよ』(TBS)や『3時のあなた』(フジテレビ)などによって超大物タレントになるのは1970年代に入ってからです。

また、黒柳徹子もテレビ草創期から芸能界の第一線で活動していますが、超大物タレントになるのはやはり『徹子の部屋』(テレビ朝日)や『ザ・ベストテン』(TBS)が開始された1970年代に入ってからでしょう。

そして、1970年代にこの2人が吉田名保美事務所に所属していたことを考えると、吉田名保美氏は森光子と黒柳徹子という2人の超大物芸能人を育てた凄腕の芸能プロモーターであることが分かります。その実力は女性で言えば渡辺美佐氏(渡辺プロダクション)や故・メリー喜多川氏(ジャニーズ事務所)に引けを取らないレベルではないかと思われます。

川良浩和「森光子と黒柳徹子の絆「徹子ちゃん、子供産まない?と言われた日」森光子 百歳の放浪記」(『婦人公論.jp』2020年09月08日)という記事に吉田名保美氏の写真が掲載されているので紹介致します。

吉田名保美氏と黒柳徹子。「『窓際のトットちゃん』出版─感謝の会」(1981年頃)にて。画像は「徹子ちゃん、子供産まない?と言われた日」森光子 百歳の放浪記」(『婦人公論.jp』2020年09月08日)より

実は、吉田名保美事務所は現在でも形を変えて存続しています。吉田名保美氏が亡くなった後、氏を慕う黒柳徹子が自らの個人事務所に「吉田名保美」の名前を冠しているのです。

グーグル検索の「吉田名保美事務所」の検索結果より

ここでは便宜上、昭和後期の吉田名保美氏率いる芸能事務所を「吉田名保美事務所A」、現在の黒柳徹子の個人事務所を「吉田名保美事務所B」と致します。

六本木ヒルズに程近い「〒106-0031 東京都港区西麻布3−2−11 第二谷澤ビル」に「吉田名保美事務所B」は存在するのですが、以下のツイートを見ると若い頃の沢田亜矢子のファンレターの宛先である「吉田名保美事務所A」が「〒106 東京都港区西麻布3−2−11 第2谷沢ビル4階B」と書かれていて、同じ建物であることが分かります。ですから、「吉田名保美事務所B」は「吉田名保美事務所A」の後継会社と考えるべきでしょう。

なお、「吉田名保美事務所B」はメディアによっては「吉田事務所」と表記されることがあります。この事務所は現在は黒柳徹子と親交がある田川啓二氏(ビーズ刺繍デザイナー)が仕切っているそうです。

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