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note文章は読者を意識すべきか?もっと自由に表現すべきか?

修飾語、副詞の位置

修飾語と被修飾語は離れていると文は読みづらい。

まるでパズルのようになり、「この【とっても】はこんな離れた語に掛かっていたのかぁ!」となる。

例文「この空前絶後の美味なる柿が実は不味さの象徴というパラドックスが私の感銘を受けた点です。」

【この空前絶後の】という修飾語が掛かる語は作者の意図ではパラドックスであり、本来なら
「この美味なる柿が実は不味さの象徴という【空前絶後の】パラドックスが私の感銘を受けた点です」が分かりやすい位置ですが、

つい離れたところに修飾語を置いてしまうことがある。

これはエッセイだと特にそうですが、頭に思いついた語から紡がれていく傾向に自由な文章は向かいがち。

本人は離れた位置にあっても意味が分かっているから、インプロヴィゼーションのようにそのまま整えないで文章を発表することも。

中学くらいの現代文によくある設問ですよね、〇〇が掛かる語を7文字で記せなど。

それはいわゆる悪文を理解することも必要だから求められる読者の努力。

前に作品と商品の違いを述べたことがあります。

商品は顧客がお金を出して買ってくれるものだから、作者の表現欲求に本能のまま従ったものではなく、読み手への配慮も必要。

対して作品はそういった読み手を良い意味で意識せず、表現欲求に特化したプロダクト。

難解な絵画や2001年宇宙の旅みたいな映画がそれにあたりますね。

noteでは特に有料投稿では商品を意識される方が多いようにおもいます。無料投稿であってもフォロワーや立ち寄った人に読まれてなんぼですから、表現欲求ばかりで読者に対する配慮ゼロはマズイでしょ、という考え方です。

それはnoteの文化で正しいでしょう。noteの主催者も書き方のヒントを提示されているのはその理由で。

例えば全く改行しなくビッチリ文字で埋め尽くされた文は書籍ならまだしも、ネット投稿文章では好まれません。

そこを意固地にこの改行しないのは自分の美学であり、ポリシーだと叫んでいたら完全に浮いてしまいます。

これは分かりやす過ぎる例でしたが、冒頭の修飾語の位置問題みたいなことにも配慮すべきか?、しなくても良いのか?

私は後者であって良いと思います。読みづらさも個性や味わいの範疇であればそれは逆に技法として活用するもよしと考えています。

まぁ、単に私がモノグサでズボラなだけの言い訳みたいにもなりますが、ただそれくらい肩のチカラを抜いて執筆しないとnoteはまるで業務の様になってしまうと感じます。

それは本来気晴らしや趣味でやっているのに本末転倒かと考えています。

以上

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