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先生とは?

私は昔からふざけて
「先生とは単に先に生まれたひと。別に何の教養も指導的プロットも、持ち合わせていなくても良い」といっていた。

一般に年長者は年少者より知識も経験も豊富であり、指導的立場に立つものとされるが必ずしもそれは真なりではない。

凡庸で有害ですらある知識を蓄積しているとしたら、その経過年数は長くない方が良いのは自明の理

また、先生には純粋に尊敬の念を込めた呼称であるとともに
少しからかいの念を込めることもままある。

フィリピンパブの呼び込みで誰かれ構わず「シャッチョーさあ〜ん」と呼んでいるのと同じような軽さを「センセイ」にも感じる。

また、先生の代表的職業はいわゆる学校の先生たる「小学校教員」「中学教師」「高校教諭」「大学教授」などが代表的。

また代議士など政治家も先生と呼ばれる。

お医者さんもまた先生と呼ばれる。

それらは特殊なケースでない限りは尊敬の念が呼ぶ側に強く、嘲笑の念はなくはないが、そんなにない。

学校教師の場合はその比率が低いかも知れないが。

いわゆる士が付く仕事、または師が付く仕事は先生と換言される。

明石家さんま大先生ってのはどうだろう?

私が一番気になる「先生」は夏目漱石の『こころ』の第一章に出てくる先生だ。
第二章である「先生の遺書」では「私」という第一人称に先生は変わっていたが。第二章は主に「私」と「K」と「お嬢さん」の3名が登場人物である。イニシャルKの本名が気になる。
木村だろうか?加藤だろうか?はたまた鬼沢とか?

閑話休題

こころの先生の職業はいわゆる不労所得者である。
資産家の家に産まれて特に何をするでもない。いわゆるボンボンだ。サラリーマンをして世間の荒波に揉まれたり、理不尽さを味わったこともないのであろう。

しかしKと友人関係だったときは先生は学生であった設定。
多分だが、漱石をベースに考えると東大(東京帝国大学)の学生だろう。仮に先生は学問として優秀な成績を収めていたとしても、その知識は実社会に生かされることは皆無だろう。
そんな謎の先生は第一章の「私」たる学生からみた先生であり、その学生が「先生」とよんだ根拠はまさに「先に生まれた人」でしかない気がする。
その勿論、話してみてその人格や内容から先生と呼ぶにふさわしい品格と知性を感じ取ったのかも知れないが、それは学生の妄想に過ぎない。

先生をテーマにした小論文でどこまで書けるかのゲームみたいなエッセイであり、プロットは何もない。
まさに徒然なるままに筆を起こし、私自らも行きつく先がない自由な旅のようなエッセイである。

このエッセイの主題は「先に生まれた人はとにかく先生」とふざけてみた、という他にはさしてない。
それを漱石の心の先生に絡めたのはなかなかのテクニックではあるが。

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