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素人が考える国際政治学の“イズム” 〈第一章 国際政治学は血も涙もないのかⅡ〉

ミアシャイマーの“西側責任論”

 ロシアによるウクライナ侵攻が開始されてからというもの、『大国政治の悲劇(The Tragedy of Great Power Politics)』(2001初版)を著したジョン・ミアシャイマー(1947~、国際関係論・安全保障分野)による議論が波紋を呼んでいるが、そのような波紋が生じる背景のひとつとして、彼が前回記事で述べたような国際政治学の視点を提供していることが挙げられないだろうか。

 ミアシャイマーは、侵攻開始直後の3月1日、The New Yorker紙の取材に対して、ロシアがウクライナに対して現状変更的な行動に出たことの責任は、米国を中心とする西側諸国の側にあると主張した。また、彼は2014年のウクライナ危機当時も、"Why the Ukraine Crisis Is the West’s Fault"(2014)という論文をForeign Affairs誌に投稿している。
 彼の一連の主張をまとめると、西側諸国は、⑴ウクライナの将来的なNATO加盟の容認、⑵ウクライナとEUの経済協力促進、⑶ウクライナの民主主義発展のための資金提供、といった政策を採ることで、ウクライナを緩衝国家と考えてきたロシアの警戒感を惹起した、というものになる。そして、それら政策がユーロマイダン革命をもたらし、その後のロシアによる現状変更的な行動を誘発したのだと主張している。

 ミアシャイマーによる西側批判は、「緩衝国家であるべきウクライナを親米的な民主主義国家にしようという試みが、ロシアによる実力行使を引き起こすことくらい、大国政治の常識に照らし合わせれば当然に予測可能であったはずだ」ということに主眼が置かれているようである。そして、このような主張に対して、ロシアを擁護する主張だ、とか、ウクライナの主体性をないがしろにしている、といった批判が巻き起こることは想像に難くない*
 しかし、ミアシャイマーは、無政府状態アナーキーである国際政治構造の下で国家どうしがとりうる行動について、愚直に唱えてきたにすぎないのだろう。彼にとって、ウクライナの西側接近は、ロシアを無用に刺激して同国の生存を脅かすから控えるべきなのであり、ロシアはNATO加盟国と国境を接することが自国の生存を脅かすと認識するから、ごく自然な反応として現状変更的な行動をとるのである。それは、ウクライナが西側接近を望むことの正当性や、ロシアが力による現状変更に及ぶことの不当性とは別個の問題として厳存するのである。

 ミアシャイマーは、国家の力による現状変更を善/悪の尺度では測らない。彼は、米国のモンロー主義採択(1823)やキューバ・ミサイル危機を参照しながら、ロシアがウクライナに武力行使することや、中国が南シナ海に進出することを当然視している。要するに、「いかなる政治体制の国家も、生存という第一の目標を達成するためなら近隣地域からライバル国の影響力を排除したいものなのであり、その動機は道義の問題に優先する」と言いたいのである。ミアシャイマーは、国家が生存のために、必要な、ときになりふり構わぬ行動をとるとするその冷徹な国際政治観から、“リアリスト”と呼ばれている。

*また、ミアシャイマーが「大国は生存を確実なものとするため、地域覇権を獲得するまで勢力拡大を試みる」とする“オフェンシヴ・リアリズム”を提唱したにもかかわらず、ウクライナの事例においては、「ロシアが警戒心を惹起したため、現状変更に及んだ」という、従前の“ディフェンシヴ・リアリズム”と変わらぬ立場を採っており、自家撞着であるとする批判もある。

国際政治学は血も涙もないのか

 不幸なことに、全ての国家を(生存への欲求を共通してもつ)同列の存在として扱うミアシャイマーの主張は、ロシア側から恣意的に引用され、ウクライナ侵攻を非難する側からは“Whataboutism”、“どっちもどっち論”を支えるものとして警戒されてしまったようである*。筆者が思うに、それは彼の提起している事柄が、どこまでも“国際政治学的”だからである。

 ミアシャイマーが提供する視点は、ウォルツ的な国際政治学のそれを下敷きにしているように見受けられるし、国際政治を分析するうえで立ち返るべき原点ではあるのかもしれない。国家とは生存を第一に追求するアクターであり、米国が西半球における“旧大陸”からの影響力浸透を厭い、キューバにソ連のミサイル基地が建設されることを断固として認めなかったときのように、ロシアもウクライナが西側の影響下に置かれることを当然に厭うし、その影響を実力でとり除こうとするだろう、と。

 しかし、この“基本認識”がそのまま政策として通用するかどうかは疑わしい。この点こそ、国際政治の分析を生業とする少なからぬ研究者が、ミアシャイマーの主張に対して批判的な立場を採る理由ではないだろうか。たとえば、日本では鶴岡路人(1975~、現代欧州政治・国際安全保障)が、ミアシャイマーのようなリアリスト的視点は、開戦時のロシア側の言い分と重なり合っているように感じられるだけであり、それ自体は外交政策を分析する道具ではなく、現実的な政策提言にもなっていないと論じている。

 ウォルツは、政治指導者は一般に、第3イメージ=国際政治構造のレベルを念頭に置きながら対外政策を決定すべきだと唱えており、ミアシャイマーはまさにそのレベルに立って「ウクライナが緩衝国家に徹しなければロシアの現状変更を招く」と唱えてきた。
 この視点が、なぜそのまま政策に応用できないのかといえば、ある国は外交(対外政策)を行うことはできても、国際政治を行うことはできないからであろう。すなわち、ウォルツやミアシャイマーが分析する国際政治とは、国家どうしの相互作用が「あの国らは……」という三人称的な視点で説明される“事象”であり、一国の政治指導者や政府が、相手国と「わたしら/君らは……」という一人称/二人称的視点をもって実践する外交とは異なるものなのではないだろうか。

 外交の実践者である政治指導者らは、その実践のなかで、相手国はもとより、自国をもより細かな人的集団にレンズを絞って覗く。それゆえ、価値観の共有、国民間の交流状況、はたまた政治指導者どうしの性格や趣味嗜好といった事柄が、国家間の関係において重く受け止められるのである。あえて役を割り振るならば、国際政治学に求められている事柄とは、そのような実践のなかでぼやけて等閑に付されかねない、国際政治構造と、それによって生じるかもしれない権力闘争への留意を促すことだろう。
 ミアシャイマーが、スティーヴン・ウォルトとの共著『イスラエル・ロビーとアメリカ外交政策(The Israel Lobby and US Foreign Policy)』(2007初版)において、国際政治構造の下で生存するため合理的に振る舞うはずの国家が、国内政治レベルの要因によって、合理的でない外交政策を採りうるということを認めたのは、まさに、政治指導者に「第3イメージの視点をなおざりにするな」と忠告するためではなかったか。

 まえがきにて、筆者は、国際政治学の“イズム”をアウトプットの裏地に見立られるようになるべきだと書いたが、その真意は上で述べたような事柄とも関係している。国際政治学の視点そのものが、外交政策への処方箋であるかのように提示されれば、今度のミアシャイマーをめぐる一件がそうであったように、血も涙もないような響きをもつことがあり、人々をして、ウォルツらが思い描いた国際政治学への不信感を募らせてしまうかもしれない。むしろ、第3イメージの重視を軸に据えるものとしての国際政治学は、外交政策(提言)における“隠し味”の定番たれ、というのが、筆者の考えである。

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話はそれるが、永井陽之助(1924~2008、政治意識論・国際関係論)は、『平和の代償』(1967初版)のあとがきで、「もしも私がいわゆる“現実主義者”であったなら、悪名高い防衛論議や戦略論など書かずに、米帝国主義を非難し、平和と正義の道徳感情に訴えるような理想主義的な一文を書いたであろう」と記している。
ミアシャイマーの愚直なリアリスト的主張が批判を浴びた例からもわかるように、研究者の主張が現実主義/リアリスト的であることと、研究者が、自らの主張がどう解釈・受容され、反響を招くかということについてシニカルな意識をもっているかどうかは、どうやら別個の事柄のようである。

(了)

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