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ヒューマン・アフター・オール 〈第一章〉

 警察庁の本部もとべ刑事局長は、沢口さわぐち長官官房長からの指示を聞くなり、露骨に多忙をかこつかのような口調で呟いた。 「こんなときに人捜しですか——」 
矢口やぐち副長官からだ。彼の先代には世話になった、最優先で頼む。鑑取かんどりにどれだけ人を割いても構わん」 
 このほど大田区から品川区にかけての一帯を派手に蹂躙した、巨大不明生物による災禍は、当然、警察庁にとっても対岸の火事ではなかった。大河内清次おおこうちきよつぐ総理は、災害対策基本法に規定された災害緊急事態のほかに、警察法第七十一条を根拠とする緊急事態も布告していた。これは、内閣総理大臣が国家公安委員会の勧告にもとづいて緊急事態を布告すると、警察庁長官を通じて布告地域の警察を指揮統制することができるというもので、そのおかげで、警察庁はやや居心地の悪い立場に置かれている。
 まず、警視庁のナショナリスト勢力が、官邸の統制を疎ましがって早くも不穏な動きを見せていた。警視庁警備部長が、警察庁から出向している総理秘書官を呼びつけたのだ。警備部長は今度の巨大不明生物災害に伴う災害警備の要であるが、普段から警護課のSPを通じて警護対象者である閣僚らの訝しい所作・・・・・を知りうる立場にもある。官邸の意向を受けた警察庁が小突き回してくるのが鬱陶しくて、後輩の秘書官に官邸を押さえ込ませる魂胆なのだろう。あまりの露骨さに恐れ入るというものだ。
 現在、警察庁長官は警視総監を年次で三年も引き離している。それは、直ちに警察庁と警視庁の関係をぎくしゃくさせるようなことではないのだが、ナショナリスト勢力の連中はそのことでも神経を尖らせており、年次的に総監が長官の風下に立つ構図が常態化することを、それは警戒していた。 
 それから、国会対応だ。防衛出動だけでなく、警察法上の緊急事態布告も戦後初のことで、日頃から緊急事態法制のことを苦々しく思っている野党勢力は、布告を廃止せんと手ぐすねを引いて待ち構えている。官邸は再上陸に備えて布告を継続する意向でおり、刑事局も、防災担当大臣を兼ねる金井光二かないこうじ国家公安委員長の答弁資料作成に駆り出されることとなった。火事場泥棒の多発が予想される被災地での捜査態勢の構築や、義援金名目詐欺対策その他のことで人員を割きたいときに——。
 今回の緊急事態布告は、金井委員長が総理にせっついてさせたようなものだった。あまりの異常事態だったこともあり、ほかの委員らが布告に反対を表明しなかったとはいえ、委員会のほうから総理に警察を統制させろと申し入れるのだから、これでは何のための合議制機関なのかわかったものではない。
 そこへきて、今度は官邸の小間使いまで舞い込んできたわけだ。矢口蘭堂らんどう政務担当官房副長官の亡父は、内閣官房長官や保守第一党幹事長を務めた与党のオーソリティで、沢口官房長が山口県警警務部長を務めていた頃、保守第一党山口県支部連合会長だった人物だが、そのときにでも借りをつくったのだろうか。 
「人的情報はこれだけだ」  沢口が資料を手渡す。
「日本から追い出されるように米国研究機関に移籍した異端の老教授、生物学者なのにエネルギー関連の研究機関に帰属——面白い老人ですね——」まさか対象者が八十路の科学者だとは思わなかったため、思わず苦笑が漏れた。「赤手配レッド・ノーティスですか?」 
「いや、生活拠点の特定までだ。あとはNSAだかCIAだかが引き継ぐらしい。こちらに迷惑はかけないそうだ」
 長官官房長室を後にした本部の足どりは重かった。警備局で外事課長を務めていた頃、とある地域で一定の時間帯、米国の某機関が動きやいよう、警視庁公安部に人払いをさせたことがある。決して気分のいいことではなかった。「そちらに迷惑ウィー・ウォント・コーズ・はかけないユー・トラブル」? それを言うなら「あとは我々がやるウィール・テイク・イット・フロム・ヒア」だろう、白々しい。
 だいたい、この手のきな臭い話を、それこそ警備局が静観するはずがない。とくに今の警備局長は、警備実施よりも公安の毛色が強い人物だ。両者が歩調も合わせずに現場を動かせば、バッティングを引き起こすのではないか——。 
 しかし、沢口が警備局長を同席させていない以上、刑事局と警備局は別個のラインとして行動しなければならない。自室に戻った本部は疑念を頭の片隅に追いやり、電話の受話器をとった。

*   *   *

 警察庁の入居する中央合同庁舎第二号館に隣接する警視庁本部庁舎で、刑事部捜査第二課係長の有馬誠一郎ありませいいちろうが刑事部長室に呼び出されたのはそれからほどなくしてのことであった。四十一歳の警部は、用件について心当たりがあった。おそらく刑事部長は、捜査中のある事件に関する東京地方検察庁との協議結果を告げるだろう。管理職警部の有馬は、警視昇任に伴う所轄警察署への昇任配置を内示されていた。本部係長として関わる事件捜査は、これが最後なのだ。
 有終の美は飾れないということなのだろう、因果なものだ——。 
 部長室の応接セットには、テーブルを挟んで刑事部長と捜査第二課長がそれぞれかけていた。捜査第二課長は年次が十年以上離れているからか、どっかり腰の刑事部長とは対照的に背筋を伸ばし、浅くかけていた。
「蒲田の帳場・・は文字どおり災難だったな——」刑事部長は独り言のように呟いた。
 ここ数ヶ月のあいだで、本人なりすましに精巧な偽造パスポートを用いた地面師事件が都内で複数件発覚し、大規模な地面師グループと、偽造防止のホログラムまで再現できる偽造ニンベン師グループの存在が浮かび上がっていた。蒲田警察署の捜査本部——“帳場”——に投入されていた捜査第二課と組織犯罪対策部組織犯罪対策特別捜査隊は、両グループをまとめて検挙するために泳がせていたのだが、着手直前にとんだ番狂わせが生じた。事件の突破口になるはずだった、なりすまし犯人が住んでいたアパートが巨大不明生物の進路上にあり、捜査は暗礁に乗り上げてしまったのだ。 
「ご想像のとおり、地検はもう着手できまいと言ってきている。組対ソタイ部にはニンベンのほうは切り離していいと伝えたが、向こうも飛ばれただろうな——」 
 やはりそうか。有馬は眉ひとつ動かさずに聞いていた。しかし、刑事部長が「そこで」とおもむろに切り出した話に、不意を突かれた。
 「人捜し——ですか」 
 七日前から行方不明になっている、米国国立研究所の所員を捜せというのだ。 
警察庁サッチョウからは最優先で人員を割けとお達しがきているが、特命事項という性質上、詳細を知る人間は少ないほうがいい。こんなときに所轄を巻き込んで大々的に鑑取りをするわけにもいかない。よって、本部だけで着手することとする。対象者の銀行を洗ってくれ」 
 カネの流れから端緒を開けということらしい。有馬は何かを言おうとしたが、刑事部長がそれを手で制した。「ほかの課にはすでに関連の案件を振ってあるから、君にきてもらっているんだ」
 一瞬にして胸中を見透かされてしまった。
「それともまさか、公安ハム部のほうはどうなんだ、とか、俺に訊くつもりじゃあるまいな?」 
「いえ——猶予のほうは?」仕方ないので、代わりに申し訳程度の確認をする。
 特命事項を捜査する刑事部のセクションは捜査第一課や刑事総務課にもある。いずれも先約が入っていたようだが。もちろん、この手のパシリは公安部の十八番だろうと思いもしたが、そんなことを刑事部長に向かって言えるはずもなかった。 
可及的速やかにASAP、だ。報告は直接臼井うすいにしろ。五知ゴチの管理官も了承済みだ」 
 有馬の係などを束ねる第五知能犯捜査担当——“五知”——は、贈収賄をはじめとする汚職サンズイ事件を扱い、捜査第二課のなかでも花形視されている“ナンバー知能”の担当だ。  
「それから、住居ヤサが割れても、別途指示するまで作業は継続しろ」
  “作業”ねえ——。 
 警察独特のジャーゴンは、使用の有無も用法も警察官ごとに異なるのだが、“作業”は公安部のきな臭い情報収集活動を指すことが多い。このほかにも、刑事部の警察官がアレルギー反応を示す公安用語がいくつかあり、たとえば尾行を意味する“行動確認”を略した“行確コウカク”などがそれだ。キャリアは部門をまたいで働くことのほうが多いため、そのような些細な事柄から顕現するセクショナリズムには無頓着だ。
 釈然としない表情の有馬に対し、刑事部長はこう言い放って話を打ち切った。「宮崎みやざきに、お前を管理官で引き戻すよう言い聞かせておくつもりだから、頼むよ」
「ご厚情痛み入ります」
 宮崎警視長は、後任として警視庁刑事部長に着任するとみられている警察庁組織犯罪対策企画課長だ。とりつく島のなくなった有馬は、部長室を後にした。
 数分後、臼井課長が六階の部長室から四階の捜査第二課に戻るためエレベーターに乗るところを待ち伏せ、閉まる扉を手で押さえて無理やり乗り込んだ。たかだか二階だ。隣りの中央合同庁舎第二号館で勤務していたときも、受付の二階を除けば五階分しかない警察庁の、さらにほんの数階分をエレベーターで移動していたのだろうか。 
代々木・・・のことを根にもっておいでではないでしょうね」 
 臼井は有馬と同い年でこそあるが、階級が二つ上のキャリア警視正で、在外公館と警察庁長官官房での勤務を経て、警視庁本部の課長ポストに収まった優等生タイプだ。
「それでわたしが、今回のことを八係・・にやらせるよう、部長に進言したというのですか?」
 一応、有馬のような中堅ノンキャリアに対しては敬語を使う。有馬が束ねる係は、五知の第八係だ。
「でなきゃ、どういう風の吹き回しでうちに白羽の矢が立つんですか。“”の連中だっているのに」 
 第二知能犯捜査担当は、公職選挙法違反や政治資金規正法違反の取り締まり、それから各種知能犯事件の端緒情報の収集に従事するセクションで、有馬も初の捜査第二課勤務は二知の情報係だった。 
「彼らにはとくにこちらから関心事項を示さず、広くアンテナを張ってもらっています」
「うちらだって普段はそうですよ」
「ナンバーの担当の所掌事務には特命事項の捜査が含まれているから、こうして捜査を指示しているんです」
 先月、代々木警察署の管轄内で融資詐欺グループが検挙されたのだが、被害者に警察関係者の親族がいたことがわかるや、臼井はべつの事件を担当していた八係に事件を引き継がせようとした。しかし、そのとき生活安全部と合同で都の環境事務所職員による収賄事件を捜査していた有馬は、臼井の要請を「冗談じゃない」と突っぱねた。捜査第二課が掘り起こした希少なサンズイだったうえに、途中で捜査を放り投げれば生安セイアン部に迷惑がかかる。縦割り臭いことをいえば、そもそも詐欺はナンバー知能の守備範囲外だ。
 その後、不運なことに詐欺グループの一部メンバーが検察で不起訴処分となってしまい、臼井は刑事部長から小言を喰う羽目になった。以来、臼井は、「あのとき引き継いでくれさえいたら」と、逆恨みに近い感情を有馬に抱いているようだった。
 期待をかけられることは悪いことではないが、有馬は臼井から、易きに流れるキャリア幹部の本音を垣間見た気がしていた。全体の底上げなどという道理を掲げようにも、二年やそこらの在任期間でそんな悠長なことは言っていられない。結局、一番頼れそうな係に依存するわけだ。
「個々の課員の力量は尊重しますが、そのベクトルが全体と調和するかどうかは、こちらで見極めます。それは、代々木の件についても、今回の件についても言えることです」
「ナンバーが本業に集中すると、捜査の妨げになるわけですか。うちはほかから応援がなくたって、文句ひとつ言わずに仕事をしていますよ」
 エレベーターの扉が開くや、臼井はにべもなく言い捨てて、課長室に戻っていった。「八係は優秀なんですから、バランスのとれたギブアンドテイクを要求されても無理というものがあります。課全体の能率に貢献できることを、もっと誇りに思ってもいいんじゃないですか」 
 ——ほら見ろ!

*   *   *

 厚かましい——。有馬は胸の内で悪態を吐いていた。 あの課長はキャリアのくせに、過酷な勤務環境を訴えても「男冥利に尽きるだろう」などと言って有耶無耶にするようなノンキャリア幹部の悪習を、一体どこで覚えたのか。
 晴らせそうにない憂さを“キャメル”の甘ったるい味で塗り潰すため、係の主任らが詰めている分室へと赴く前に、本部二階の喫煙所に寄ることにした。
 自分の前に人影が浮かび上がったことに気づいたのは、ラクダの絵柄入りのパッケージから一本目を取り出し、カランダッシュのライターで火をつけたときだった。 
 人影が口を開いた。「大田区仲六郷××−××。牧悟郎まきごろうの昔のヤサがある」
 こういう不意打ちをしてくるのはハム部の人間に違いない。
 視線を上げると、公安部外事第一課係長の菅岡文也すがおかふみや警部が眠たそうな印象を与えている二重瞼でこちらを見据えていた。
 有馬が、いつ見ても眠たそうで何を考えているかわからないこの男——今日は濃紺のスーツにストライプシャツと小紋柄のタイを合わせて愛想のよさを醸し出そうとしているようだが——とはじめて出会ったのは、二知時代、同じ国会議員の政治資金規正法違反を捜査中に鉢合わせしたときだ。当時、菅岡は公安部公安総務課の所属で、彼のほうが五つ年長であったものの、互いに警部補であった。 その後、刑事部と公安部の双方が突然捜査の中止を指示し、菅岡は警察庁に出向して忽然と姿を消した。その後、彼の噂はちらほら耳に入ってくるようになったが、有馬が直接に菅岡の消息を知ったのはごく最近で、件の地面師事件について探りを入れてきたときであった。
外一ソトイチはいつから詐欺ゴンベンやニンベンを扱うようになったんですか。蒲田の帳場を突っついたりなんかして——」 
「いやなに、セキュリティーホログラムの技術がどうやって漏れたのか気になっただけさ。外事課うちの対象が、喉から手が出るほどほしがる代物だし」
 どうやら公安部は、偽造防止技術の流出に外国の諜報機関やテロ組織が関与していないかを探っていたようだ。 外事第一課はロシア外事を担当し、冷戦中はソ連のKGBカーゲーベーと対峙する公安警察の精鋭集団とされてきた。それと同時に、軍事転用可能な日本製の汎用品などが共産圏に流出することを警戒してきた。ソ連がロシア、ココムがワッセナー協約に置き換わったあとも、その役割は根本的には変わっていない。
「なるほどな。帳場に組対を加えたのはハムの意向だったわけですか」
 有馬は、蒲田署の捜査本部に投入されていた組織犯罪対策特別捜査隊の班長が、中国・朝鮮半島を中心としたアジア外事を担当する公安部外事第二課の出身だということを思い出していた。
「同じ事件を各部がそれぞれの角度から見ていた、それだけのことだよ」
 警視庁組対部は刑事部からあの・・捜査第四課をとりあげて発足し、さらに組織犯罪の潜在化に伴ってどんどん公安部の色に染まっていく——。刑事部のなかではそういう僻んだ見方が抜け切っていなかった。
「随分と気前よく喋ってくれるんですね」
「今更お前さんに喋ったって、もう一文の値打ちもない与太だよ。ニンベン師のグループには見事に飛ばれちまったんだ」
「ああそうですか。ちょうどハム部らしい仕事だと思っていたところだし、牧悟郎とやら捜しも喜んでお譲りしますよ。ヤサ、見つかってよかったですね」
「それは刑事部長の決めることだ。誰も昔のヤサがそのまま使われているとは言っていない」
「なら、部長どうしでナシをつけてもらったらいい。同期入庁なんでしょう?」
 できるわけがないことくらいは知っていた。唐突に降ってきたサッチョウの下請け仕事、自分の係で帳尻を合わせようとする課長、嫌なタイミングで現れたハム部——。
 有馬はすでにやけくそに近かった。何を言っても暖簾に腕押しの菅岡に、多少の憎まれ口を叩いたってばちは当たるまい。
「あいにく、こちとらはサッチョウの外事から直で指示がきているから、この件を部長が関知しているかどうかは知らない」菅岡は平然と、警視庁公安部長を蚊帳の外に置いたことをほのめかした。「ナンバー知能の係長殿と違って、部長に気安く意見を具申できる身分でもないしな」 
「どの口が——」 
 部長をすっ飛ばして、サッチョウの指示で動いているのは一体誰だ。
 公安警察はの上でこそ都道府県警察のヒエラルキーに服しているが、しばしば警察庁警備局の手足として行動する。同じ公安部門のなかでも、上司のあずかり知らないところで作業が行われていることなどざららしい。
「正式な報告は、組織のラインを通している刑事部から上がるだろうから、頼んだよ。これ以降は邪魔立ても答え合わせもしない」そう言うと、菅岡は煙草も吸わずに踵を返した。
「吸わないんですか?」
「吸い殻に唾液や指紋が残るだろう? そもそも、好みの銘柄ができるというのも考え物だ。この稼業、用心しすぎるということはないんでな」
 十年以上経っても変わらぬ小憎らしさだ。
 菅岡がその場を辞した数秒後、有馬より先に喫煙室の一角に陣どっていた男が吸い殻を灰皿に捨て、こちらに意味ありげな一瞥をくれて出ていった。
 同じ警察官サツカンと話すときまで“防衛”をつけるのか。呆れたものだ——。

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