宝塚歌劇『銀橋』あれこれ(2022年7月)
みのおエフエムで毎月第4週目にお送りするコーナー『今月のMyスポットライト』は大好きな舞台やエンターテイメントを熱く語る時間。
今月のテーマは「銀橋(ぎんきょう)」。
宝塚歌劇特有の舞台機構の一つである銀橋について、思い出をまじえながら番組内で語ったものを文字化した。今月は、時間の都合上、番組内で語れなかったことも掲載する。
まずは銀橋がどんなものかについて。
さまざまな効果を生む秀逸な舞台機構
銀橋は実にさまざまな効果を生む。
特に、より一層客席に近い場所にスターが立つことによる効果は絶大だ。本舞台はオーケストラボックスの向こう側にあるため、客席からは結構距離がある。しかしスターが銀橋に立てば、客席はもうすぐそこ。1階前列に座っていれば、スターの表情はもちろん、汗、衣擦れの音、衣装のひだや衣装生地のすかし模様まで見える。特に、スターが足を止める、銀橋の上手下手 七三の位置とセンター前の席で観劇できた時は、じっくりとスターを堪能できるし、目があってしまうこともある。(実際は、強烈なスポットライトを浴びているスターからは客席が見えていないこともあるらしいが)
この距離の近さを生かして、芝居中に登場人物が銀橋から客席に話しかける演出もあったし、コロナ禍以前は、スターたちが、銀橋に仮設された階段を降りて一気に客席に降りてくるなど、ファンにとって夢のような演出もあった。
宝塚歌劇のフィナーレでも銀橋は大きな意味を持つ。フィナーレで大階段を降りてくるのは基本的に下級生から上級生への学年順であり、そこにスター度が加味される。要するによりあとに現れる方がスター度が高いのだ。最後にトップスターが大階段から降りてきて、お辞儀をすると、トップスターとトップ娘役が先頭になり左右に分かれて銀橋へとやってくる。銀橋のセンターにトップスター、その左右にトップ娘役と二番手男役が、以下スター度が高い人から順にセンターに近い位置に立つことになる。物理的に、フィナーレで銀橋に立てる人数は限られている。ファンは自分のご贔屓スターがフィナーレで銀橋に立てるようになってほしいと願うものだと思う。(おそらくそれを目標にしている生徒本人も多いと思う)。
フィナーレだけではない。芝居やショーの中でも銀橋を渡るというのは特別なことだ。
宝塚歌劇団の初舞台生によるラインダンスは、たまに例外もあるが、基本的には本舞台で踊り切った後、一列に並んで銀橋を駆け抜けていく振り付けであることが多い。私は初舞台生が颯爽と銀橋をかけていく姿を見ると、毎回「この子たちが次に銀橋を渡るのはいつだろう」と考えてしまう。それくらい銀橋は、基本的にスターのための場所というイメージがある。
また、芝居では銀橋は旅人たちが歩む道になったり、亡くなった人が現れる異空間になったり、あるいは回想場面になったりと、豊かなバリエーションを生み出す。他の劇場で宝塚歌劇の演目を見ると「ああ、ここで銀橋があれば!」と思うことが多い。花道と本舞台だけでは芝居が窮屈に感じられるのだ。
銀橋を見たことがない人に、銀橋の素晴らしさを説いてもピンと来ないと思うので、ここから銀橋にまつわる有名なエピソードと私の個人的な思い出を紹介しよう。基本的に芸名は呼び捨てで失礼する。
よく考えたら銀橋は結構怖い
銀橋の幅や平均1.2メートル。例えば上手から銀橋を渡る場合、右手にオーケストラボックスが、左手には客席が見える。客席からの高さは多分1メートルもないと思うが、右手のオーケストラボックスはかなりの深さがあるはずだ。芝居の最中もショーの時にも、出演者は足元を見ながら銀橋を渡るわけではない。うっかり左右どちらかにずれると、足を踏み外してしまいそうではないか。いや、実際に足を踏み外した人はいるらしい。
花組のトップスターだった大浦みずきは片足を完全に踏み外し、体が斜めになったものの、並外れたバランス感覚で踏みとどまり、客席に落ちることなく銀橋を渡り切ったと聞いている。現在(2022年7月現在)花組のトップスターである柚香光は新進スター時代に、実際に落っこちてしまったらしい。その時は一人ではなく、上級生の鳳月杏、瀬戸かずや、同期の水美舞斗と四人で銀橋に出てきていたのだが、突然、銀橋に三人しかいなくなった。落ちた本人も驚いたであろうが、銀橋に残った三人も相当驚いたと思う。幸いにも柚香さんに怪我はなかったし、他の三人も動揺することなく芝居を続けたと聞く。やはり舞台人は度胸がある。
2014年、宝塚歌劇団が100周年を迎えた時、退団後芸能界で大活躍したOGや、かつてのトップスターだったOGが出演する記念公演があった。その際、久しぶりに歌いながら銀橋を渡ったOGが口を揃えて「銀橋を渡るのが怖かった」「現役時代、よく平気で歩いていたもんだわ」「ううん、歩くどころか、走ったりもしていたわよね」と話していた。いうまでもなく、銀橋は宝塚歌劇独特なもので、退団後どれほど舞台で活躍しようとも、銀橋を歩くことはなかったのだ。私が見た時には、元月組トップスターだった久世星佳が遠目に見てもわかるほど震えながら銀橋を渡っていたのが印象的だった。銀橋が意外と怖い場所だということがわかる出来事だった。
銀橋で震えるといえば、思い出すのがオスカルを演じた時の真矢みき。(当時の芸名表記で失礼する)何度も再演され、今や宝塚歌劇の古典にもなっている『ベルサイユのばら』は、その組のトップスターの個性によって様々なバリエーションがある。1990年花組『ベルサイユのばら』は「フェルゼン編」で、トップスター大浦みずきがフェルゼンを、トップ娘役ひびき美都がアントワネットを演じた。男装の麗人オスカル役は星組と月組から、当時二番手男役だった紫苑ゆう、涼風真世が客演。それに花組の新進男役だった安寿ミラ、真矢みきの二人が加わり、4人が役代わりで演じることとなった。私は真矢みきがオスカルの日に観劇したのだが、その日は真矢みきがオスカルを演じる初日だった。私は幸運にも1階1列、上手の席に座っていた。ちょうど七三位置、スターが足を止める場所の真ん前だ。オスカルが「愛の巡礼」を歌いながら上手から銀橋を渡り、私の前で一度止まる…その時、立ち止まった真矢みきの脚がブルブル震えているのが見えて私は心底びっくりした。というのも真矢みきは確か研究科2年生(入団2年目)で新人公演の主役を射止めていて、私はその新人公演を見たのだ。ロシア物『遙かなる旅路の果てに』は、なかなか重厚な作品だったのだが、真矢みきは新人離れした堂々たる主役っぷりで、私は真矢みきは心臓に毛が生えているのだろうか、と感じたものだ。そしてこのオスカル役の時にはすでに、安寿ミラと共に、目立つポジションを与えられている若手スターになっていたのだ。その真矢みきが震えている?!これは衝撃だった。多分この時は物理的に銀橋が怖かったのではなく、初日が開けて約半月、涼風真世、紫苑ゆうがオスカルを演じ、他の役の人がすっかり慣れてきた頃に、自分だけが新たにオスカルとして初日を迎えた緊張感だったのではないかと推察する。この脚の震えも、銀橋という近い場所にいたからこそわかったことで、今考えてもレアな場面に遭遇させてもらったと思っている。
銀橋からお客さんに語りかける
銀橋から客席に呼びかける演出で思い出深いのは、1984年花組『名探偵はひとりぼっち』の高汐巴だ。赤川次郎の小説を元に、舞台をアメリカに変えたこの作品は軽いタッチで楽しい作品だった。プロローグが終わると、トップスター高汐巴が演じる主役デイビッドが銀橋の中央にやってきて、いきなり目の前のお客さんに語りかける。
「ねぇ、駆け落ちってしたことある?」
喋りかけられたお客さんはびっくりしつつも、あまりに自然に話しかけられるものだから「ないです」「ありません!」と答える。すると高汐デイビッドは「だろうねぇ」と返し、客席は爆笑。「つかみはOK」な状況からデイビッドが自分の体験談を始める、という段取り。ところが私が観劇した日は、いつもと違った。
「ねぇ、駆け落ちってしたことある?」
すると聞かれたお客さんがこう答えたのだ。「ある!」と。
思いがけない答えに、場内にいつもとは違う笑いが沸き起こる。私も笑いながら、
「さて、ペイさま(高汐巴の愛称はペイ)はなんて答えるだろう?」とドキドキ。
すると高汐巴はすました顔で「そう!すごいね!今度その話を聞かせてもらうよ。でも今は僕の話をさせてね」と切り抜けた。まぁあらかじめ想定していただけかもしれないが、元々飄々としている高汐さんらしくて、客席が大いに湧いたことを覚えている。
・汀夏子さんに手招きされた!
1977年2月の宝塚大劇場雪組公演『鶯歌春(おうかしゅん)』『マンハッタン・ラグ』。その前年9月の花組公演『うつしよ紅葉』『ノバ・ボサ・ノバ』を見たことで宝塚歌劇にはまった私。その後星組、月組、年が明けて花組公演を見、初めて見る雪組でだった。
この日は家族で見に行っていたのだが、複数枚を連番で取ることができず、バラバラの座席で見ていた。私は芝居はA席で見たのだと思う。そして幕間休憩が終わって『マンハッタン・ラグ』が始まる時に「ショーはこっちの席で見たらいい」と、チケットを変えてもらった。それがなんと「いの28番」。
旧宝塚大劇場は座席が1列、2列ではなく「いろはにほへと」表記だった。つまりいの28番は最前列、銀橋のすぐ前、座るだけでも興奮する席だった。
ショーが始まってどれくらい経った時だろう、ジュンコさん(汀夏子)が、主題歌を歌いながら銀橋にやってきた。そして「それがマンハッタン〜♪」と言いながら私の前でしゃがみ、私に向かって手を振ったではないか!!おそらく元々そういう演出だったのだろうが、初見だった私にとっては不意打ち。トップスターが私の目の前にしゃがみこんで私だけに手を振ってくれるなんて!私は当時、近眼でいわゆる瓶底メガネをかけていたのだが、あまりの興奮に汗をかき、一気にメガネが曇って前が見えなくなってしまった。おそらくジュンコさんもびっくりしたことだと思う。目の前の女の子のメガネが一気に白くなったのだもの。その後、すごく愛おしそうに笑ってくださっていた。
そんな夢のような体験から幾星霜。2008年7月、私はみのおエフエムのパーソナリティとしてジュンコさんにインタビューさせていただくこととなった。西宮市の兵庫県立芸術文化センター(当時の名称)で上演された『赤毛のアン』でジュンコさんはリンド夫人を演じられたのだ。喜び勇んで、お稽古中のジュンコさんをお訪ねし、お話を伺ったのだが、機材のエラーで20分ほどの会話が全く録音できていないことが判明した。ジュンコさんは「大丈夫、さっきのはリハーサル。今度はもっと上手く喋れるよ」と青ざめる私を慰め、励ましてくださった。そしてお言葉の通り、二度目の録音はほぼノーカットで放送ができる出来栄えとなったのだった。
お別れする前に、子ども時代の『マンハッタン・ラグ』の思い出をジュンコさんにお話ししたところ「そんなことがあったの?その時の女の子がこうしてインタビューしにきてくれたのね!」と喜んでくださった。そしてその場で『マンハッタン・ラグ』の主題歌を口ずさんでくださったのだった。
最後は個人的な自慢話になってしまったが「銀橋」といえばこのエピソードを語らずにいられないのだ。お許しいただきたい。
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