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『山田洋次監督作品と亡き父のご縁』


●お別れの歌は「男はつらいよ」

日本が世界に誇る山田洋次監督について、極めてプライベートな話にお付き合いいただけるとありがたい。

今年2月1日、父が他界した。昨年末に余命半年と告知されたのに、せっかちな父はたった1ヶ月ほどで旅立ってしまった。親戚一同、急な展開に気持ちがついていかず、呆然としながら葬儀の日を迎えることになった。
棺に花を供えて別れを惜しむ時間、それまでのしめやかなBGMに変わって、独特なバイオリンの音色が聞こえてきた。続いて「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です」というセリフが。
そう、音楽は渥美清さんの『男はつらいよ』。死期を悟った父が、自分の葬儀の際にはこの曲をと、言い残していたのだ。涙ながらに花をたむけていた親戚一同に一瞬、フフフと笑いが起こった。これは8人兄妹の長男として家族を引っ張ってきた父の、親族に対する最後の思いやりだったのかもしれない。

●映画と生きた父

1953年(昭和28年)、父は高校を卒業してすぐに、映画館の経営者になった。祖父が立ち上げた映画館を引き継いだのだ。今のようなシネコンではない小さな町の映画館ではあったが、時には主演スターが挨拶に来てくれることがあったらしい。父にとって一番のスター鶴田浩二さんがいらっしゃった時のことを、私は父から何度も聞かされている。「スターっていうのはな、向こうからただ歩いてくるだけでも光ってるんやで」。
テレビの台頭で経営が苦しくなるまでの数年間、大好きな映画と共に生きた父は幸せだったと思う。

●『幸せの黄色いハンカチ』に登場した父の会社の製品

1961年(昭和36年)、映画館をたたんだ父は、全く違う業種の会社を立ち上げた。段ボールシートの製造、パッケージ制作の会社だ。
映画とは全く無縁のように思えたこの会社が映画館の大スクリーンに登場することになろうとは、誰も想像していなかったと思う。それは1977年(昭和52年)に上映された、山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』。奥さん役の倍賞千恵子さんの妊娠を知った高倉健さんが、祝いにと胸に抱いて帰ったのは日本酒「多聞」。その外箱を製造納品していたのが父の会社だったのだ。映画館の経営をやめた後も映画を愛した父にとって、自分の会社の製品が高倉健さんの胸に抱かれて大画面に登場したことは、どれほど嬉しかったことだろう。

2006年に多聞酒造は解散、2014年には高倉健さんも天に召された。だが、映画は半永久的に生き続けるのである。本当にありがたいことだと思う。

●「男はつらいよ」バイオリニスト天野紀子さんとのご縁

父の会社に入社せず、自分の道を模索した私は現在、ラジオパーソナリティとして活動させていただいている。仕事柄色々な方のお話を伺い、ゲストとしてお迎えするのだが、「男はつらいよ」のバイオリン演奏をなさったバイオリニスト天野紀子さんをゲストにお迎えする機会を得たことには、偶然とは思えないご縁を感じている。

●励ますつもりが励まされ

このエッセイは山田洋次監督への応援という趣旨で書かせていただいているのだが、こうして振り返ってみると、私が監督を応援するどころか、応援されていたのはむしろ私たちの方なのだ。おそらく、形は違えど、山田洋次監督作品に励まされ、力をもらっている方は数えきれないほどいらっしゃることだろう。山田監督の作品には、時代や価値観が変わってもなお心に響くテーマがあるから、これからも励まされる人は多いと思う。

山田洋次監督、これまで本当にありがとうございました。どうかこれからも私たちを励まし、力付けてください。


(とよなか山田会ニュースレター 2023.7.10号への寄稿)


*冒頭写真について

冒頭の写真は、父の映画館が写った唯一のもの。
尼崎市にあった近松映画劇場。
父は南海ホークス 野村克也選手(当時)を尊敬、自身もキャッチャーをしていた。
野球チームで記念撮影をしたのだろう。
最前列向かって右端が父。
上映作が木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』であることから、1957年(昭和32年)だと推測できる。

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