「やっぱり知りたい!フッサール」第三回での質問と鈴木崇志さんによる回答

※今回の講座でも沢山の感想、質問、コメントをお寄せいただき、ありがとうございました。感想については、今後の研究の励みとさせていただきます。以下では、いただいた質問とコメントについて、可能なかぎりお答えしていきたいと思います。なお、質問・コメントを抜き出す都合上、皆さんの文章を一部割愛させていただいた箇所がございます。ご容赦ください。(鈴木崇志)


質問(1)
色盲について質問させていただきましたが、やはり赤の「本質」という考え方が難しく思いました。

 たしかに、赤の本質とは何かというのは難しい問題だと思います。さらにいえば、講座の中で質問していただいたように、仮に赤の「本質」と呼べるようなものがあったとして、いわゆる「色盲」の人とそうでない人のあいだで「赤いもの」についての知覚の仕方が異なっているとすれば、それぞれにとっての赤の本質は同じものと言えるのか、という問題も出てくると思います。こうした問題について、フッサールのテクストの中から読み取れるかぎりでどのように答えられるか、考えてみたいと思います。
 まず手がかりとなるのは、フッサールの初期の著作である『論理学研究』(1900/01年)です。そこにおいて彼は、個別的な赤いもの(赤い花や赤い服など)が「実在的に(real)」存在しているのに対し、赤の本質が「イデア的に(ideal)」存在していると主張しています。ただし注意すべきは、ここで「イデア的」という言葉を用いるからといって、フッサールが、いわゆるイデア界を想定しているわけではないということです。むしろ彼によれば、実在的な「赤いもの」とイデア的な「赤」の区別は、前者が後者の「個別的事例(Einzelfall)」であるという点にあるとされます(Husserliana, Bd. XVIII, S. 135; 立松弘孝訳『論理学研究1』、みすず書房、1968年、149頁)。このとき、本質としての赤がイデア的に存在するということは、その個別例の「イデア的な可能性(ideale Möglichkeit)」によって説明されます(ibid.; 邦訳は同上150頁)。つまりフッサールによれば、この世界とは別のイデア界があってそこにイデアが存在しているのではないということです。むしろ現実にある世界は、この実在的な世界ただひとつであって、イデア的に存在するものは、この実在的な世界の中に個別的事例をもつことが可能なものにほかならないのです。そしてこのような「赤の個別例が存在しうる」という可能性は、例えば「私が15分後に出町柳駅に行くことができる」という可能性——私がたまたま出町柳駅の近くに住んでいることによって成立する可能性——とは異なり、そもそも赤という本質に備わっており、時と場合に応じて可能であったり不可能であったりすることがありません。この意味において、それは「イデア的な可能性」なのです。
 また、そのようなイデア的なものは、私たちの認識から切り離されているわけではありません。『論理学研究』の中では、個別的なものの知覚に基づいて、それを個別例としているイデア的なものを見通すはたらきが「イデアチオン(Ideation)」と呼ばれています(ibid.; 邦訳は同上150頁)。
 こうした論述を踏まえると、色盲のケースについてはどのように考えられるのでしょうか。『論理学研究』の中でそれが明示的に述べられているわけではありませんが、色盲の人とそうでない人のあいだでは、何が赤の個別例かという点について意見の対立が生じていると言えそうです。つまり、それぞれが「赤いもの」として知覚しうるものの範囲は同じではないのです。すると一見したところ、それぞれにとっての赤という本質は別のものだと言うこともできそうな気がします。しかしフッサールは、そのようにして赤の本質を認識主観の能力に依存させてしまうことを避けようとするはずです。むしろ彼によれば、赤の本質はあくまで認識主観に依存せずに同一であり、それがたまたま認識主観の能力に応じて別々の個別例のうちに見て取られるのだ、とされているようです。もしそのように考えるならば、何を「赤いもの」として知覚するかは人それぞれ異なっているとしても、「赤」という本質についてのイデアチオンは共通なのだ、と言えそうです。とはいえ、フッサールに従ってこのように考える場合には、「そもそもイデアチオンとは何なのか?」という更なる認識論的な問題を避けて通ることができなくなります。
 また後年のフッサールは、「客観性」を、「皆にとって(für jedermann)」妥当するという意味での「間主観性」によって説明しようとします。では「赤いもの」については、そのような意味での客観性を認めることができないのでしょうか? これはとても難しい問題ですが、前回の質疑においても話題になっていたように、ここでフッサールは「正常性」という概念を持ちこんで解決を図っているようです。とはいえその場合には、知覚における正常性とは何か? という新たな問題が生じることになるでしょう。
 なお、正常性について論じているフッサールの草稿のうちの主なものは、浜渦辰二・山口一郎監訳『間主観性の現象学II その展開』(ちくま学芸文庫、2013年)の第4部「正常と異常」に収録されています。


質問(2)
「感情移入」について質問させて下さい。個人的にはこの「感情移入」の理論にはしっくりこない部分が多く疑わしいと思う点も多いのですが…フッサールの理論においては私の身体と他者の身体が「対(ペア)」にならないような事例もまた存在するのでしょうか? もし「対になる」ということがつねにあれば、つまりは他者の身体の物体的側面だけでなく心的側面がつねに認められるならば、幼児ないし児童虐待、性暴力も含むあらゆる暴力は生じないように思えるのですが、実際には沢山あります。こういう場合の加害者側には、このフッサールで言うところの「感情移入」が欠けているということになるのでしょうか?

たしかに、他者との関係において虐待や暴力の可能性がつねにありうる以上、こうした出来事がフッサールの他者論においてどのように説明されるのかは、ぜひとも考えてみる必要があります。その際にまず確認すべきことは、フッサールのいう「感情移入」は、ただ私の身体に似ているものを「他の私の身体」として把握するはたらきである、ということです。それは身体の物体的側面だけではなく、そこに付帯現前している心的側面をも一緒に認めているという点で、単なる物体の知覚とは区別されます。とはいえ、フッサール自身が感情移入を「異他知覚(Fremdwahrnehmung)」(Husserliana, XIII, 115)と呼ぶことがあることからも示唆されているように、彼はそれをある種の知覚として記述しようとすることがあります。そして、このとき感情移入を行っている者は、相手の側に「もし私があそこにいたらもつはずの」感覚や感情を移入しさえすればよく、それと同様の感覚や感情を自分の側でもつ必要がありません。その意味においてフッサールは、ここでいう「感情移入」が、ヒュームのいう「共感(sympathy)」(相手と似た感覚や感情を自分の側でももつこと)と異なることを強調しています。さらにいえば、このとき感情移入を行っている者は、相手が特定の感覚や感情をもっているについて何らかの評価を行っているわけではありません。
 まとめると、感情移入とは、単なる物体とは違った仕方で他者の身体を知覚するはたらきですが、①その身体に移入された感覚や感情に対して共感する必要はなく、②相手がそのような感覚や感情をもっていることに対する評価を含まないという点で、かなり限定的なはたらきであると言えます。そのように考えると、フッサールの「感情移入」は、私たちが日常的に用いている「感情移入」という言葉とはかなり毛色が違うことが分かります。(よって、この語を「感情移入」と訳すこと自体が、そもそもあまり適切でないのかもしれません。)
 では、幼児・児童虐待や性暴力の加害者は、上で述べた意味での「感情移入」を行っていないのでしょうか。おそらくフッサールの説明に従えば、そのような加害者もやはり感情移入を行っている——つまり、被害者が単なる人形やロボットではなく、身体を備えた人間であることを認めている——のだと言えそうです。もちろん相手が身体をもっていることをそもそも認められない、というケースも考えられますが、それについては別個に論じる必要がありそうです。この点については、第二回の講座での質問(1)への回答で言及しましたので、もしご関心があればそちらをご覧ください。
 では、もし虐待や暴力の加害者が感情移入を行っているのだとすれば、彼/彼女に欠けているものは何でしょうか。上で述べてきたことに従うと、欠けているのは相手の感覚や感情に対する共感(例えば、相手の苦しみやそれに伴う悲しみをあたかも自分のことのように感じること)や、それについての評価(例えば、相手がそのように苦しんだり悲しんだりしていることを「よくないこと」と評価すること)です。フッサールによれば、そのような共感や評価についての現象学的な記述は、感情移入論を踏まえて更に展開すべきことであるはずです。よって、虐待や暴力の可能性を考慮したからといって、フッサールの感情移入論がただちに頓挫するわけではありません。
 ……と、ここまではフッサールに好意的な立場から、感情移入論の弁護を試みてみました。しかし私自身も、フッサールの感情移入論に「しっくりこない部分」や「疑わしいと思う点」があるというご意見には同意します。以下ではそれについて、若干の私見を述べておきたいと思います。
 『論理学研究』以来のフッサールの見方に従うと、何かを評価するはたらきは、「客観化作用(objektivierender Akt)」なしには成立しないとされます。ここでいう客観化作用とは、意識の志向性が向かっているものを何らかの客観として規定するはたらきであり、「知覚」はそのような客観化作用の一種であるとされます。おそらくフッサールは、他者経験についても同様の見方を採っています。だからこそ彼は、他者の身体を知覚するはたらき(感情移入)と、その身体に特定の感覚や感情が帰属していることを評価するはたらきを区別して、後者は前者なしにはありえない、と考えたのです。
 しかし、そもそもこの考え方に異を唱えることは可能です。もしかすると、ある種の状況においては、客観化することによってかえって捉えそこなってしまうような価値が、客観化作用に依存せずに経験されているのかもしれません。おそらくは、そのような可能性を極限まで追求したのがレヴィナスの思想です。レヴィナスが『全体性と無限』(1961年)において「顔(visage)」と呼んだものは、客観化作用に依存せずに成立する倫理的関係において「私」と相対するものでした。これによってレヴィナスは、「あらゆる志向的体験の根底には客観化作用がある」という前提のもとでつくられたフッサールの感情移入論を批判しようとしたのです。(ただし周知のように、こうしたレヴィナスの主張は、デリダの『エクリチュールと差異』(1967年)所収の論文「暴力と形而上学」において批判的に吟味されることになります。)
 いずれにせよ、フッサールの感情移入論が成功しているか否かは、他者経験の根底に他者の身体についての客観化作用を置くという考え方がうまくいっているかどうかにかかっています。そしてこの点について検討する上で、「幼児・児童虐待や性暴力の加害者の経験に何が欠けているのか」という初めの問いが重要になってきそうです。フッサールの見方によれば、そのような加害者も最低次の他者経験を行ってはいるが、それに伴う共感や評価が欠けているのだということになります。しかし別の見方によれば、そもそも彼/彼女には本当の意味での他者経験——「傷つけてはならない者」としての他者についての経験——が欠けているのであって、そのような経験から切り離して他者の身体の知覚について語ることはナンセンスなのだ、と言うこともできそうです。どちらの見方が正しいかを決めるためには、さらに具体的な事例に立ち入る必要があるのかもしれません。
 なお、「傷つけてはならない者」としての他者の位置づけについては第二回の講座での質問(6)の②への回答でも少し触れましたので、もしご関心があればそちらもご覧ください。


質問(3)
「他の私」と「君」の区別が面白かったです。素朴な印象ですが、「伝達の共同体」というのが、「君」に語りかけることで他者を認める共同体であるのに対して、「感情移入の共同体」というのは、何かすべてを“私”と言うような融即した共同体と「伝達の共同体」の中間にあるようなものという理解でいいのでしょうか?

 「すべてを“私”と言うような融即した共同体」というのは興味深い考え方ですね。前回の講座では、「感情移入の共同体」における他者が、私と似た身体を備えた者として私と同じ空間の中にいる——つまり、私と並んで(nebeneinander)いる——「他の私」であるのに対し、「伝達の共同体」における他者は、私と意図的に交流し合うパートナーとして私と同じ社会の中にいる——つまり、私と一緒に(miteinander)いる——「君」であると述べていました。すると、そのような感情移入の手前には、すべてが「私」であるような状態があって、感情移入の共同体をそのような状態と伝達の共同体の中間段階と見なすことは、たしかにできそうな気がします。
 ただしフッサール自身は、そのような仕方で感情移入の共同体が成立する以前の自他関係にまで遡ろうとしているわけではありません。『デカルト的省察』において顕著なように、フッサールにとっての関心は、むしろ、「異他的な(fremd)」ものについての志向性をまったく排除した(つまり、世界内の諸々の対象についての経験から他者についての経験を差し引いた)状態を想定することによって、感情移入の共同体が成立する手前に、ある種の独我論的な領分を見出そうとしています。『デカルト的省察』によれば、任意の超越論的経験を行っている状態からそのような領分に立ち戻ることは、「超越論的経験の、自分固有の領分への還元」と呼ばれます(Husserliana Bd. I, S. 95; 浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波文庫、2001年、167頁)。
 とはいえ、そのような「自分固有の領分」が、人間の発達において「感情移入の共同体」の成立に時間的に先立っているわけではありません。むしろそれは、超越論的現象学の枠内で他者経験について説明するために仮想された状態です。つまりそれは、超越論的現象学が独我論(「私」と呼びうる者はこの私だけであり、他の私は存在しないという主張)に陥るという誤解を解くために敢えて設定された、乗り越えられるべき状態なのです。
 よってフッサールの超越論的現象学によれば、説明の順序は、自分固有の領分→感情移入の共同体→伝達の共同体です。しかし前述のように、これは人間の発達の順序ではありません。すると、もしかすると人間の発達段階においては、質問の中で述べてくださったような「すべてを“私”と言うような融即した共同体」というものを想定することができるのかもしれません。あるいは、発達した大人の意識においても、特殊な場面においては、そのような状態が成立することがあるかもしれません。
 やや脱線となりますが、これについて考える上で参考になるのは、フッサールよりもむしろマックス・シェーラーの論述です。彼の『同情の本質と諸形式』によれば、ある種の高揚状態において「私」と「他の私」のうちのどちらか一方へと他方が全面的に取り込まれることが「一体感(Einsfühlung)」と呼ばれます。シェーラーは、そのような一体感の起こりうる場面として、秘教、催眠、集団ヒステリー、性愛、子供の心的生活など、さまざまな具体例を挙げています(Scheler, Max. Wesen und Formen der Sympathie, A. Francke AG Verlag, 1973, S. 29-48; 青木茂・小林茂訳『同情の本質と諸形式』(シェーラー著作集8)、白水社、1977年、50-80頁)。
 いずれにせよ、フッサールの想定する「感情移入の共同体」に属する「私」は、自分から数的に区別された「他の私」について意識しているという点で、そのような一体感のうちにあるわけではありません。他方でそれは、他者との意図のやり取りを含まないという点で、「私」と「君」(つまり「私たち」)からなる伝達の共同体(フッサールの考える「社会」)でもありません。よってご質問の中で述べてくださったような、感情移入の共同体をそれらの中間に置くという考え方は、議論を整理する上でとても有効だと思います。
 そのような「感情移入の共同体」の具体例を思い描くのは難しいのですが、街の雑踏の中で互いの存在に気づいてはいるが、特に互いに関心を抱くことなく、ただ同じ場所にいる——そのような状態こそが感情移入の共同体であると言えそうです。しかし、ぶつからずにすれ違うために目配せをしたり、同じものが欲しくて行列を作ったりするときには、たとえ暗黙裡であったとしても、何らかの意図が互いに向けられていることが気づかれ、伝達の共同体への移行がなされることになるでしょう。そのように考えると、感情移入の共同体から伝達の共同体への移行は、歴史上のある一時点で一回だけなされるのではなく、むしろ、日常生活の中で繰り返し生じていることがわかります。よって、もちろん逆に、伝達の共同体から感情移入の共同体への逆行が生じることもありえます。

質問(4)
特に非言語的なものの「語りかけの受容」と感情移入がどのように関わっているのかが気になりました。

 これは、上の質問(3)と密接に関わるご質問ですね。前回の講座では、感情移入の共同体から伝達の共同体への移行を可能にする他者経験を、特に「語りかけの受容(Aufnahme der Anrede)」として強調し、それが感情移入の共同体においてなされている他者経験(つまり感情移入)とは別種のものであると述べていたのでした。しかし、語りかけとその受容が、第2回の講座で言及したような相互的な感情移入とどのように異なっているのかについては、たしかに検討の余地がありそうです。
 前回の講座では、相互的な感情移入と語りかけの受容の区別の具体例として、「目が合う」ことと「目配せをする」ことの区別を挙げていました。しかしそこでも言及したように、少なくとも外見上の相手の目の動きだけからは、相手が私とたまたま目が合っているのか、それとも意図的に目配せをしているのかは、確実には分かりません。つまり、語りかけによって告知される「何かを伝達しようという意図」は、身体の物体的側面を通じて「付帯現前化(Appräsentation)」することがないのです。(※覚えておられるかもしれませんが、「付帯現前化」とは、身体の心的側面が物体的側面に伴って現前することであり、そのように付帯現前してくる心的側面を物体的側面と併せて受け取ることで、感情移入が成立するとされていたのでした。)
 また、質問の中でも「特に非言語的なもの」を強調してくださったように、フッサールのいう「語りかけ」は、必ずしも言語を用いてなされるわけではない以上、それは言語によって伝達・理解されるような、はっきり分節化された内容——以下ではこれを、フッサールの用語法にならって、主語と述語に分節化されるような「述定的内容(prädikativer Inhalt)」と呼ぶことにします——をもっているわけではありません。だからこそ「語りかけ」は、任意の言葉を口にすると同時になされることもあるし、単なる目配せや咳払いによってなされることもあるのです。
 まとめると、前回の講座で「語りかけの受容」と呼んでいたはたらきは、次のように説明することができます。

語りかけの受容とは、①付帯現前化することがなく、かつ、②述定的内容をもたないような伝達の意図(何かを伝達しようという意図)の告知の受容である。

 それは、付帯現前化することがないものを受け取るはたらきであるという点で感情移入から区別されます。また、述定的内容をもたないものを受け取るはたらきであるという点で、言語的な理解からも区別されます。よってそれは、かぎりなく感情移入と区別がつけがたい場合がありうるとしても、それでもやはり感情移入とは別のはたらきです。またそれは、語り合い(言語的コミュニケーション)を初めて可能にする作用であるという点で、言語的な理解の枠内に収まるものでもないということになります。
 このようにして、「あれでもないしこれでもない」という消極的な仕方で、語りかけの受容を特徴づけることは可能です。それ以上に積極的なことを言おうとするなら、おそらくは、私たちが日常的に目配せや咳払いに気づくときに見て取ったり聞き取ったりしている独特な何かに訴えざるをえないでしょう。しかし、そのような独特な何かを感じ取ったということが私の思い込みでないという保証はどこにもありません。この論点は、次の質問(5)につながります。


質問(5)
 「君」の現象学、思い込みでしかないかもしれないが、そこに始まっているコミュニケーションをフッサールに読み込み、提示してくれたところが非常に面白く、明快でした。このコミュニケーションを想定することで、動物や、自然との(神秘的)コミュニケーションをも説明することができるように思えます。
 ただ、やはりそういったコミュニケーション、「思い込み」がなぜ起こるのか、ということは、フッサールからだけでは説明が難しいのかもしれない、とも思えました。

 これは、上の質問(4)との関連で考えるべきご質問だと思います。直前で述べたように、語りかけの受容の対象と、感情移入の対象は、外見上はまったく区別がつかないことがありえます。すると、「私は語りかけの受容を行ったのだ」という私の確信は、単なる思い込みにすぎないのかもしれません。少なくとも私は、それが思い込みでないということを自力で証明することはできないでしょう。もちろん、相手のほうに「さっき何か伝えようとしたよね?」と尋ねれば、さっきの語りかけの受容が思い込みであったか否かを確かめることはできます。しかしその場合には、相手の返事を聞くために新たな「語りかけの受容」が必要となり、無限遡行に陥ってしまうことになります。よって、そのような無限遡行を避けるためには、どこかで私は、語りかけの受容を行ったのだということを——たとえそれが思い込みでないとは言い切れないとしても——認めねばならないはずです。そのようにして一旦踏ん切りをつけさえすれば、ただちにそこから相手の語りが理解され、やがて相互的な語り合いへと発展していくことになるでしょう。
 よって語りかけの受容とは、それが思い込みであるという可能性を排除することができないような他者経験です。しかし裏を返せば、それが思い込みでないという可能性を排除することも、やはりできないのです。そのような決定不可能性を伴っているという点で、語りかけの受容は、「他者経験(Fremderfahrung)」すなわち「異他的な(fremd)」ものについての経験の最たるものであると言っても過言ではありません。
 フッサールは、そのような語りかけの受容の特異性を表すために、それを「欺きの知覚(Trugwahrnehmung)」と呼ぶこともあります(Husserliana, Bd. XV. S. 88)。(※これはふつう「幻覚」を意味するドイツ語ですが、上述のように、目下の場合は幻覚かどうかを決定することすらできないような作用が問題になっているため、敢えて逐語的に訳してみます。)
 知覚(Wahrnehmung)とは、本来は対象を「真に受け取る(wahr-nehmen)」はたらきであるはずです。しかしここでは、それが欺き(Trug)の可能性を排除できない仕方で遂行されている——「欺きの知覚」という言い回しには、こういったことが含意されているように思われます。
 そのような「語りかけの受容」あるいは「欺く知覚」がなぜ起こるのかということは、たしかに、フッサールのテクストにおいては明示的に述べられていません。よってここからは、少し大胆な解釈を試みたいと思います。上で「欺く知覚」と呼ばれていたはたらきにおいて私を欺きうるのは、言語的コミュニケーションのパートナーとしての「君」ではありません。なぜなら「欺く知覚」としての語りかけの受容は、そのような「君」と出会うことを初めて可能にするはたらきであったからです。むしろここで生じているのは、「語りかけの受容が成立したのだ」ということを自分に思い込ませるという意味での自己欺瞞です。そのような自己欺瞞に訴えることは、「明証」を重視するフッサールの認識論にとっては奇妙なことかもしれません。しかしそれは、「私」が「君」と出会い、ともに社会をつくるためにどうしても必要な自己欺瞞なのです。
 語りかけを受容したという「思い込み」が起こる理由は、語りかけの受容を行う者自身が、社会をつくるために、そのように自分に思い込ませるからである——フッサールの書き残したことを敷衍すると、そのように考えることは可能だと思います。

 また、質問の冒頭で言及しておられるように、ここから動物や自然とのコミュニケーションについて論じることも可能だと思います。ポイントは、感情移入においては自分の身体との類似性が尺度となるのに対し、語りかけの受容(及び、そのあとでなされる言語的コミュニケーション)においては、そのような類似性はもはや問題ではないということです。そのように考えると、私の身体とは似ても似つかないような生物や環境との間に何らかの交流があると想定することもできそうです。その場合にさらに考えねばならないのは、そこで交わされている「言語」(あるいは言語という言い方では限定的すぎるなら「表現」)とはそもそも何であるかということです。残念ながらフッサールはこの点に立ち入ってはいないので、続きは私たち自身が探求していく必要がありそうです。

質問(6)
フッサール的「社会の起源」「君の起源」を他者経験、特に語りかけの受容に見るというご説明は大変面白く伺いました。一方その社会に必然的に伴うような政治性のモメントまで議論が展開されればとも思いました。超越論のプログラムの中でどこまで社会/政治の議論は射程を持ちうるのでしょうか。ご回答頂ければ幸いです。

 おっしゃるように、社会の話をする以上は、それと密接に関わる「政治」というテーマにも言及せざるをえないように思われます。しかしフッサール自身は、社会について論じる際に、「政治」の話に立ち入ることはほとんどありません。では、なぜフッサールは自分の哲学の中で、おもてだって政治について論じようとしなかったのでしょうか。その理由を考えるために、まずは彼の共同体論の枠組みを確認しておきたいと思います。
 前回の講座でも述べたように、フッサールによれば共同体(Gemeinschaft)は「感情移入の共同体」と「伝達の共同体」に大別され、後者が「社会的」と形容されます。さらにフッサールが1921年に書いた草稿「共同精神」(Husserliana Bd. XIV, Text Nr. 9-10; 浜渦辰二・山口一郎監訳『間主観性の現象学 その展開』、ちくま学芸文庫、2013年、281-337頁)においては、共同体のより詳細な分類が試みられています。それによると、伝達の共同体は、さらに「言語共同体」と「意志の共同体」と「愛の共同体」に分けられます。フッサールによれば、「言語共同体」とは、そこにおいて言語的な伝達が可能であるような共同体であり、そこでどのような内容が伝達されるかは問わないとされます。これに対して「意志の共同体」とは、そこにおいて伝達を通じて特定の意志が実現されるような共同体です。例えばAさんの「パンがほしい」という意志とBさんの「水がほしい」という意志が物々交換によって実現される場合には、意志の共同体は「市場」という形態をとるでしょう。また、複数の主観が特定の目的を共有しており、それに向けて協働する場合には、意志の共同体は「組合」「学部」「民族」「国家」などの形態をとるとされます。さらに、共同体の中で特定の目的のみならずすべての目的が共有される場合には、「愛の共同体」が成立するとされます。
 この分類に従うと、フッサールの共同体論において政治について論じうるとすれば、それは、伝達の共同体の一種としての「意志の共同体」が「民族」や「国家」などの形態をとるという文脈においてだろうと思われます。しかし彼は、それらについての議論を展開することがありませんでした。その理由は、おそらく彼の関心が、政治よりもむしろ学者のコミュニティにおける真理の追求にあったからです。そのようなコミュニティは、真理の追求という目的を共有しているかぎりにおいて、意志の共同体の一形態であると考えられます。そしてそこでは、当該の学問における真理が言語を介して伝達がされることによって共有・伝承されていくことになります。そのような学問的共同体のあり方は、フッサールの晩年の論考「幾何学の起源」においても論じられています。
 よってフッサールが政治について論じることがなかった理由については、さしあたりは「彼がむしろ学問的共同体のほうに関心をもっていたからだ」と答えられそうです。すると次に考えねばならないのは、「フッサールの超越論的現象学のプログラムの中では、たまたま政治について論じられなかったのか、それとも、そもそも政治について論じることができないのか?」という問題でしょう。これはとても大きな問題であり、残念ながら、ここで最終的な回答を述べることはできそうにありません。ただし少なくとも言えるのは、第一回の講座でも述べたように、フッサールの超越論的現象学が認識論的な課題の解決のために構想されたものであるということです。よって、その枠内で「政治」という実践的なテーマについて論じるのが難しいのは確かです。フッサールが書き残した共同体論は、そのようなテーマを扱うためのヒントを含んではいますが、それを超越論的現象学に組み込むための見通しを明示することはできていないようです。


質問(7)
ご説明いただいたフッサールの他者論(というか「社会」論)に、つよくコスモポリタニズムの傾向を感じました。彼が西欧文化について論じたもの(『危機』書はそのひとつなのかもしれないですが)に、コスモポリタニズムを含むものはありますか?

 これは質問(6)と関連するご質問だと思います。上で述べたように、フッサールの「社会」論は、あらゆる形態の社会について論じたものというより、真理の追求を目的とした学問的共同体に焦点を当てたものです。そしてこの目的を追求するかぎりにおいては、「民族」や「国家」を問わず、理性をもったあらゆる主観が一つの共同体を形成しうる——フッサールは、そのように考えていたのかもしれません。そのような考え方を「コスモポリタニズム」と呼んでよいとすれば、たしかにフッサールの思想には、コスモポリタニズムの傾向があると言えます。ただしそれはあくまで限定的なものであり、いわば、学問的共同体についてのコスモポリタニズムなのです。
 ただし質問の中でも言及しておられる『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』書と略記)においては、そのような学問的共同体に関するコスモポリタニズムを超えたこところにまで話が進んでいくことになります。そこにおいてフッサールは、「ギリシア哲学の誕生とともにヨーロッパ人にとって固有なものとなった目標」として、「理性が潜在的な状態から明白に顕在化する無限の運動において、そしてこの自己の持つ人間的真理と純正さによって自己を規制しようとする限りない努力によって、哲学的理性にもとづく人間であろうとし、それ以外のものにはなるまいとする目標」を挙げています(Husserliana, Bd. VI, S. 13; 細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、中公文庫、1995年、36-37頁)。重要なのは、ここでフッサールが、そのような目標を、「人間性そのもののうちにエンテレキー〔※合目的的な運動の原理〕として本質的に含まれているもの」と見なそうとしていることです(同上 S. 13; 37頁)。つまりここでは、もはや学問的共同体という限定的な集団における目標ではなく、人間一般の目標が語られているのです。そしてフッサールは、そのような目標を担っている人間性のことを「ヨーロッパ的人間性」と呼び、それが「『中国』や『インド』などの単なる経験的な人類学的類型ではない」ことを強調しています(同上 S. 14; 38頁)。
 こうしたフッサールの思想をどう評価すべきかは難しいところです。さしあたりここでは、以下の論点を列挙するだけにとどめておきましょう。

①学問的共同体に関するコスモポリタニズムは擁護可能か。
②学問的共同体の目標についての議論を、人間一般の目標についての議論に拡張することはできるか。
③人間一般の目標によって「人間性」を特徴づける際に、それを敢えて「ヨーロッパ的」と形容したフッサールの意図は何か。

 これらの問題は、「学問とは何か」「理性とは何か」「人間とは何か」等の大きな問題に発展しうるものであり、容易に答えられるものではないと思います。フッサールの晩年の思想をまとめた『危機』書においてこれらの問題がどのように論じられているのかを慎重に検討することによって、彼の「西欧文化」についての考え方は、初めて明らかになるでしょう。


質問(8)
共同体論について興味深く拝聴しました。このテーマで読みやすいフッサールの本を紹介して下さい。その他、入門レベルで良いのがあれば教えて下さい。

 ご関心をもっていただき、ありがとうございます。フッサール自身の共同体論のうちの大部分は、間主観性に関する彼の草稿を翻訳した『間主観性の現象学II』(浜渦辰二・山口一郎訳、ちくま学芸文庫、2013年)の第3部「共同精神(共同体論)」に収められています。フッサールの草稿の翻訳であるため、かなり読み解くのが難しいのですが、面白い内容を多く含んでいます。
 ただしフッサールの共同体論を扱った入門書は、残念ながらあまり見当たりません。ほとんどの入門書では、「間主観性」については論じられていますが、それがどのようにして共同体の問題につながっていくのかという点には、あまり注目されていないようです。
 フッサール自身の共同体論そのものについての解説ではありませんが、ダン・ザハヴィの『初学者のための現象学』(中村拓也訳、晃洋書房、2015年)の最終章では、フッサールの「社会学的な超越論的哲学」というアイディアが後の社会学に与えた影響が紹介されています。現象学を「社会」というテーマに適用する可能性についての大まかな見通しを得るためには、これが手引きになると思います。


コメント(1)
フッサールの話から倫理学を引き出す理路、およびそれがよく取り上げられているフッサール倫理学とは違うということがよく分かりました。「レヴィナスとは違う」とおっしゃっていましたが、自分で考えていたよりもずっとレヴィナスに似ているように思いました。

 コメントありがとうございます。たしかにフッサールは、ゲッティンゲン大学とフライブルク大学で行った倫理学講義において、もっと真正面から倫理学について論じています。従来のフッサールの倫理学についての研究は主にこれらの倫理学講義に注目したものであり、その方面において豊かな成果をあげてきたのでした。しかし本講座では、別の観点から倫理学にアプローチしてみました。そしてこのアプローチは、他者経験の理論によって自他の倫理的関係の起源を説明しようとするという点で、ある程度まではレヴィナスと軌を一にしていたと考えられます。そのように考えると、たしかに両者の思想は、従来考えられていたよりも近いものであると言えそうです。
 今回の講座では、特にフッサールの他者経験の一種としての「語りかけの受容」の理論に依拠して「『君』の現象学」あるいは「倫理の現象学」を展開することによって、こうしたアプローチを推し進めようとしてきました。とはいえ、こうした考え方とレヴィナスの思想の間には、やはり看過できない違いもあります。特にここでは、主なものとして以下の三点を挙げておきます。

①レヴィナスによれば基礎的な自他関係は非対称的であるとされる。他方でフッサールによれば、伝達の共同体における「私」と「君」の関係は、語りかけとその受容が相互になされうるという点で対称的である。

②レヴィナスは基礎的な自他関係が「還元不可能」であることを強調する(Lévinas, Emmanuel. Totalité et Infini, édition « Le livre de poche», Kluwer, 1994, p. 329; 熊野純彦訳『全体性と無限(下)』、岩波文庫、2006年、246頁 )。他方でフッサールによれば、エポケーによって原自我に立ち返ることが可能であるという点で、自他関係すらもやはり還元可能であると考えられている。

③レヴィナスは基礎的な自他関係における他者の「裸形」や「窮迫」を強調し、そこからただちに、私の他者に対する倫理的な当為を導こうとする(ibid. p. 73; 熊野純彦訳『全体性と無限(上)』、岩波文庫、2005年、138頁)。つまりそこでは、他者が何らかの意図を私に向けているかどうかは問題ではない。他方でフッサールによれば、「語りかけの受容」に当為が伴うとしても、それは他者の「何かを伝達しようという意図」に対応するものである。

 もちろん、これらの相違点を念頭におきつつ、レヴィナスとフッサールの思想を注意深く比較検討していくことは、両者の思想を理解する上で有益だと思います。私自身、何とかここから建設的な議論が展開できないかと模索中です。


コメント(2)
フッサールの思想の理解は実存主義やフランス現代思想の理解にもつながって、とてもおもしろく有意義なものでした。とくに、その他者論については和辻の間柄思想の倫理学との類似点や相違点を考えるとよりおもしろく感じました。

 コメントありがとうございます。たしかにフッサールの思想は、後の実存主義やフランス現代思想に批判的に受け継がれていくことになります。ちょっと遠回りになってしまうかもしれませんが、現象学が現代思想に与えた影響を理解するためには、やはり現象学の祖であるフッサールにまで立ち返ることは有意義だと思います。
 また、ご指摘のように、和辻の間柄思想の倫理学と現象学的な他者論を比較するのも面白そうですね。例えば和辻の『倫理学』(1937-49年)においては、当時活躍していた現象学者の学説がいちはやく紹介されており、フッサールについても多少の言及が見られます。(ただし確認したかぎり、同書におけるフッサールへの言及は専ら時間論に関するもののようです。)
 周知のように、和辻は倫理学を「人間の学」と規定しています。そして彼は人間という語のもともとの語義を参照しつつ、「人間とは、『世の中』であるとともにその世の中における『人』である」と指摘しています(和辻哲郎『倫理学(一)』、岩波文庫、2007年、28頁)。そして特に「世の中」という側面に関していえば、そこには「人間関係」が含意されているとされます。フッサールの他者論との関連で興味深いのは、このように「人間」という語のうちに読みとられた「人間関係」についての和辻の説明です。

ところでこのような人間関係は、空間的な物と物との関係のごとく主観の統一において成り立つところの客観的関係なのではない。それは主体的に相互にかかわり合うところの「交わり」「交通」というごとき、人と人との間の行為的連関である。(同上、32頁)

つまり和辻のいう「人間関係」は、「空間的な物と物との関係」のように単に身体どうしが並んでいるだけで成立するものではなく、自他が「主体的に相互にかかわり合う」ことによって成立する「行為的連関」です。ちょっと強引かもしれませんが、ここでの身体どうしの並存関係と真の人間関係の区別は、フッサールのいう「感情移入の共同体」における関係と「伝達の共同体」における関係との区別に対応していると言えそうです。(※とはいえ和辻がフッサールの共同体論を知っていたわけではないと思います。むしろ彼が目下の箇所で参照しているのは、ハイデガーとレーヴィットです。)
 このようにフッサールの他者論と和辻の倫理学には共通点も見出されますが、もちろん大きな違いもあります。さしあたり注目すべきは、和辻が倫理学の出発点をあくまで「人間」であると考えていることです。これに対してフッサールの他者論は、前回お配りした資料の10ページでも述べたように、エポケーによって他者との社会的関係をも一旦は捨象した「原自我」を出発点にしています。この方法論の違いによって両者の思想にどのような差異があらわれてくるかを詳しく見ていくことは、今後の課題とさせてください。

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