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「やっぱり知りたい!フッサール」第二回での質問と鈴木崇志さんによる回答

※今回もたくさんのご質問をお寄せいただき、ありがとうございました。いただいたご質問は、どれも的確かつ示唆に富むものばかりで、私にとって非常に学ぶところの多いものでした。私ひとりでは気づけなかったような論点を提示してくださったことを、とても嬉しく思います。以下では、それらのご質問について、現時点の私にできる範囲で回答してみたいと思います。(鈴木崇志)

質問(1)
移入の程度が人によって異なるのは、どう説明し得ますか?

質問(1)への回答
 前回の講座では、他者の身体についての経験を、他者の身体への感覚や感情の「移入」(いわゆる感情移入)として説明しました。とはいえ、たしかにそのような移入の程度は、人によって異なっていますよね。あまりにも敏感すぎる人は、他者が苦しんだり悲しんだりしている姿を見ることに耐えられないかもしれません。逆に、うまく移入をすることができない人は、他者と人形の区別すらつけることができないかもしれません。
 フッサールの感情移入論にしたがうと、このような程度差は、感情移入の根拠となる「対になること」(=対化)によって説明することができそうです。前回の講座でも触れたように、対化とは、あるものと他のものが「対(ペア)」として現れてくるときに受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)のことでした。この対化が「私の身体」と「他者の身体」のあいだに生じるとき、他者の身体は私の身体に似ているものとして経験され、私の身体の心的側面の移し入れによって感情移入が成立するとされたのでした。
 なお、フッサールによれば、このような対化(ひいては、あらゆる受動的総合)のはたらきは、経験する主観としての私に「アプリオリに」備わっているのだとされます(『デカルト的省察』第39節、第51節などを参照)。つまり「対化ができる」ということは、経験によって獲得される能力ではなくて、むしろ「何かに似ているもの」についての経験を可能にするものとして、初めから私に属しているのだというわけです。
 ただし重要なのは、「対化ができる」という能力はアプリオリに主観に備わっているのだとしても、何をどのように対化するかは各々の主観によって異なっているということです。このことは、各々の主観の「習慣(Habitualität)」の違いによって説明されます(『デカルト的省察』第38節を参照)。私たちが日々の生活のなかで出会うものにいちいち驚いたりしないのは、かつて似たものをたくさん経験し、今回もそれを同じように把握するように習慣づけられているからです。そのようにして私たちは、幼児期から少しずつ、世界の中の物事を「見ることを学ぶ」のかもしれません(Husserliana Bd, I, S. 112; 浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波文庫、2001年、144頁)。他者の身体についても事情は同様で、私たちは、それを一目で身体として把握するように習慣づけられています。とはいえ、この習慣の程度は人によってさまざまなので、移入の程度にも個人差があるのだと考えられます。
 しかし、人間以外の動植物への感情移入がなされる状況や、そもそも感情移入が困難になる状態などを考慮すると、このようなフッサールの説明がうまくいっているかどうかは検討の余地がありそうです。


質問(2)
①フッサールの感情移入論について。対化が成立しているかどうかは、類似していると感じるかどうかに関わっていると思うのですが、O1とO2が類似しているかどうかの基準がなければ成立しているかどうかということが曖昧になると思うのですが、フッサールは何かこの点について言及していますか?
②フッサールの感情移入論が成功しているかどうかは、「私とは別の視点から世界を経験している者が存在していることを確信すること」にかかっているということでしたが、ここでのポイントは、他者の存在を証明することでしょうか。それとも、他者がいると確信(認識)する経験の記述なのでしょうか?

質問(2)への回答
① 前回の講座では、対化の際に生じている「触発的コミュニケーション」の話をするときに、触発的コミュニケーションの関係にある或る対象(O1)と他の対象(O2)が類似しているということを、何の説明もなく述べてしまっていました。しかし質問の中で指摘してくださったように、たしかにO1とO2が類似しているかどうかを判定するためには、一見すると、何らかの基準が必要であるように思われますよね。
 そのような基準について考える上では、『イデーンI』の第74節で言及される「タイプ的本質」(Husserliana Bd. III/1, S. 155; 渡辺二郎訳『イデーンI-ii』、みすず書房、1984年、35頁。ちなみに邦訳では「典型的な本質」と訳されています)がヒントになりそうです。フッサールによれば、ものごとの「何であるか」を決定する本質には「イデア的本質(Idealwesen)」と「タイプ的本質(typisches Wesen)」があるとされます。前者の代表例は幾何学における「三角形」のような本質であり、感性的に直観される図形がいかに流動的であろうとも、それ自身は決して曖昧ではありません。これに対して後者は、記述的な自然科学などにおける「ギザギザの葉」などです。そのようなタイプ的本質は、感性的に直観される葉のかたちが一枚として同じものがないということに応じて、それ自身も流動的で曖昧な部分を含んでいるとされます。すると人間の身体も、ほかの生物種と同様に、そのようなタイプをもち、それが人間の身体とそうでないものを区別するための緩やかな基準となると言えそうな気がします。
 しかしながら『デカルト的省察』の感情移入の説明においては、そのような身体のタイプへの言及はありません。つまりそこでのフッサールは、ペアになる二つの対象(O1とO2)の外側にタイプという基準を設定することなしに、対化が成立しうると考えているようです。その理由は定かではありませんが、一つの手がかりになるのは、フッサールが感情移入を「推論」と見なす立場に反対していたということです。つまり彼によれば、感情移入とは、思考による推論のプロセスを経ずに、むしろ知覚に近い仕方で一挙になされるのです(それゆえフッサールは、感情移入のことを「異他知覚(Fremdwahrnehmung)」と呼ぶことすらあります)。よってそこでは、「〜という基準に照らしてみるとO1とO2が類似している」という思考が入り込む余地はないのだ——そのようにフッサールは考えていたのかもしれません。
 ではフッサールは、どのようにして対化を説明しようとしているのでしょうか? ヒントになりそうなのは、彼が『デカルト的省察』(1929年ごろ執筆、1931年公刊)に先立って、1927年に執筆した草稿です。そこにおいて彼は、対化する二つの対象(O1とO2)の関係を、「一方が他方を指示する」という関係として説明しています(Husserliana Bd. XIV, S. 530; 邦訳は浜渦辰二・山口一郎監訳『間主観性の現象学 その展開』、ちくま学芸文庫、2013年、216頁)。そしてここでフッサールは、対化における指示関係を、想起における指示関係と関連づけつつ論じようとしています。つまり、ペアになる一方が他方を「指示する」ということは、何かが想起される場面で、かつて知覚されていたものに似ているものが、かつて知覚されていたものを「指示する」のと同じ構造だというわけです。フッサール自身が挙げているわけではありませんが、そのような想起の例としては、今対面している人の顔にかつて出会った人の面影を見るとか、今食べた料理から過去に食べた料理の記憶が蘇る、等のケースが挙げられるかもしれません。
 なおフッサールによれば、現在の知覚をきっかけとしてなされるそのような想起と対化は、どちらも受動的な「連合」のはたらきであるという点で共通しているとされます。しかし彼は、想起と対化のあいだの違いに気づいてもいます。最も重大な違いは、想起の場合は、似ているものの一方だけが現前しているのに対し、対化の場合は、似ているものがどちらも現前しているという点にあります。つまり想起の場合の指示関係は一方的(今あるものが過去にあったものを指示する)のに対し、対化の場合の指示関係は相互的・可逆的なのです。だからこそ、「触発的コミュニケーション」は、想起ではなく対化に特有の事態なのです。
 こうした「指示」の関係を突き詰めることによって、対化について、より明確にしていくことができるかもしれません。しかし、質問の中で挙げてくださった「対化が成立している」ということと「類似していると感じる」ことの関係については、ここまでの説明だけでは不十分かもしれません。これについては、質問(3)の①への回答の中で、さらに掘り下げてみたいと思います。

②これも鋭い質問ですね。他者の存在を証明することと、他者がいると確信(認識)する経験を記述することは、たしかに一見すると、まったく違うことのように思われます。というのも、前者(存在証明)は後者(認識の記述)とは無関係に行うことも可能であるように思われるからです。しかし第一回の講座でも言及した「超越論的現象学」の構想に従うと、存在についての問いと認識についての問いは密接に結びつくことになります。なぜならフッサールの超越論的現象学によれば、存在するものは、それについての経験や認識が起こる場である純粋意識との相関関係においてのみ語ることができると考えられているからです。そのように考えると、経験や認識の可能性を一切排除したところに、「それ自体で(an sich)」存在するものについて語ることはできないということになります。フッサールは、このような超越論的現象学の主張を、「Aが存在するならば、そのAの定立は、Aを可能的に知覚(経験)する主観なしには考えられない」と定式化しています(Husserliana Bd. XIV, S. 92)。
 したがってフッサールによれば、他者の存在について問うことは、他者の認識や経験の可能性を問うことにほかなりません。こうしてフッサールの感情移入論は、他者の身体があると確信するという経験の記述を通じて、私とは別の視点から世界を経験している他者の存在を証明するという役割をも担うことになります。とはいえ、前回の講座でも述べたように、この感情移入論が成功しているかどうかは議論の余地があります。というのも、感情移入によって経験されるのは「他者の身体」ですが、最終的に証明すべき存在は、具体的な超越論的主観としての「他のモナド」だからです。よって、他者の「存在」と「認識・経験の可能性」の間の関係については、さらに突き詰めて考えることもできそうです。


質問(3)
①対化について。「似ている」から「対化する」というより、「対化する」から「似ている」、つまり対化という現象をそれ以上根拠づける現象はない、という理解で大丈夫か?
②他者の問題について考え始めた現象学は、なおも「超越論的」現象学でありうるのか? つまり、他我問題を考え始めると、純粋意識があまり「純粋」ではなくなってくる、言い換えれば、内世界的事実(身体など)に訴えなければでもない説明を駆使する必要が出てくると思うが、そのとき「超越論的」現象学の枠組みは維持できるのか? できるとすればどのような意味においてか?

質問(3)への回答
①これは、質問(2)の①にも関わる問いですね。それへの回答の中では、対化を、受動的なレベルでの指示によって成立する「連合」の一種として説明してみました。しかし私は、その際の対化と類似性の先後関係について、まだ踏み込んで説明することができていませんでした。そこで、この質問において整理してくださっているように、「似ている」から「対化する」のか、「対化する」から「似ている」のかという点について、さらに考えてみたいと思います。
 結論を先に言えば、私は、「対化する」から「似ている」と言えるのだと解釈しています。よって質問の中で述べてくださった理解には、私も賛成しています。以下では、フッサールのテクストの中から、このように解釈できる根拠を挙げてみます。
 手がかりとなるのは、『デカルト的省察』の第51節における対化の説明です。

対になる連合〔=対化〕に特徴的なのは、もっとも単純な例で言えば、次のことである。二つの所与が意識の統一において他から際立って直観的に与えられ、そのことに基づいて、本質上すでに純粋な受動性において、それゆえ、注意が向けられていようがいまいが、それらが他と区別されて現出するものとして、類似性の統一を現象学的に基礎づけており、それゆえまさに、二つの所与は常に対として構成される、と。
(Husserliana, Bd. I, S. 142; 浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波文庫、2001年、202頁)

同じページでフッサールが述べているように、対化とは「受動的総合」の一種です。そして上の引用においては、そのような受動的総合としての対化とは、二つの所与が、いかなる能動性も混入していない「純粋な受動性において」、「際立って」与えられると言われています。さらに、そのように対化した二つの所与は、「類似性の統一」を「基礎づけている(begründen)」とされます。このとき、類似性の統一がなされるということと、二つの所与が対として構成されることは、同じ段階で成立するようです。したがってフッサールによれば、何かが似ているという意識は、次の二段階を経て生じることになります。

第一段階(純粋に受動的なレベル)
:受動的総合としての対化(=二つの所与が際立って与えられること)

第二段階(能動性が付け加わったレベル)
:二つの所与が対として構成されること、および両者の類似性が意識されること

この枠組みに従うと、対化は、受動的なレベルで、類似性の意識を伴わずに行われるプロセスであり、むしろ類似性の意識を基礎づけていることになります。さらにいえば、ポイントは、フッサールが受動的総合としての「対化(Paarung)」と、意識の能動的なはたらきを介した「対として構成されること(als Paar konstituiert sein)」を明確に区別しているということです。後者は類似性の意識と同時に成立しますが、前者はそれに先立ってすでに済んでしまっているのです。
 このように解釈すると、質問の中で述べておられるように、対化をそれ以上根拠づけることはできない、と言わざるをえません。ちなみに『デカルト的省察』によれば、対化は、「心理学」の領分だけでなく「超越論的な」領分にも見出される「普遍的な現象」であるとされています(Husserliana, Bd. I, S. 142; 邦訳は同上、201頁)。それは、対(ペア)の構成を可能にするものとして、あらかじめそのような構成がなされるように二つの所与を際立たせておくはたらきとして想定されているようです。とはいえ、所与としての諸々の感覚が総合されて統一に至る、という考え方——この考え方は、特定の認識論のもとでのみ通用するにすぎないように思われます——を採用しないのであれば、「対化」という現象を敢えて想定する必要もなくなるのかもしれません。

②これは、まさにフッサールの思想の根幹に関わる問題ですね。たしかに、超越論的現象学という考え方を保持しつつ「他者」について考えることは難しいのかもしれません。もしそうであるとすれば、フッサールの構想は他我問題を考え始めた時点ですでに失敗する運命にあった……という悲観的な解釈も成り立ちます。私自身も、フッサールの他者論を読み解く際には、こうした批判的な観点をもつことが重要だと考えています。
 しかし前回の講座でも触れたように、フッサールが自らの超越論的現象学の構想を固めつつあった1910/11年の「現象学の根本問題」講義において、すでに彼はモナドロジーと感情移入論を取り扱っています。さらにいえば、モナドロジーについては、1908年ごろに書かれたと推定される草稿(Husserliana Bd. XIII, Beilage III)において、すでに基本的な枠組みができあがっています。すると、おそらくフッサールの他者論(モナドロジー+他者経験の理論)は、超越論的現象学が成立したあとでそこに付け加えられたのではなく、そもそもの初めから超越論的現象学の中に組み込まれていたのだと考えられます。公刊著作だけを見れば、他者論が本格的に取り扱われるのは晩年の『デカルト的省察』においてですが、実際には他者論と超越論的現象学は、ほぼ同時期に着想されているのです。では、なぜフッサールは、超越論的現象学の構想を揺るがしかねない他者論について、敢えて考えつづけようとしたのでしょうか。
 この大きな問いに答えることは容易ではありませんが、ここでは、フッサールが意識の具体性にこだわった理由について、ひとつの推測を述べておきたいと思います。『イデーンI』の第150節で述べられているように、フッサールによれば、空間的な事物は必然的に特定のパースペクティヴから現象するのだと考えられています。そしてこのことは、「神」にとってすらも当てはまるのだとされます(Husserliana, Bd. III/1, S. 351; 渡辺二郎訳『イデーンI-ii』、みすず書房、1984年、330頁)。このようにして主観が特定のパースペクティヴから世界を経験することしかできないことを強調するならば、その主観の意識は——たとえそれが「純粋な」意識であったとしても——今ここの視点に限定されているという意味で、かならず具体的であるということになります。すると、私が「ここ」と「あそこ」に同時に存在することはできない以上、「あそこ」から世界を経験する他者が想定されるのは、フッサールにとって当然のことだったのかもしれません。
 しかしフッサールは、ある主観が特定のパースペクティヴに限定されていることの理由を、その主観が受肉していることに帰しているわけではありません。おそらく、彼の考えはむしろ逆です。つまり、ある主観が特定のパースペクティヴに限定されているからこそ、その主観が受肉する(=その主観の意識において彼自身の身体が構成される)のです。これは一見すると奇妙な考えに思われますが、前段で挙げた「神」の話を踏まえると次のように解釈できます。フッサールによれば、事物が側面的に現象するということは、主観が身体をもっていることに由来するわけではありません。身体をもたない「神」ですらもそれを側面的に知覚することしかできないのだとすれば、事物の現れ方(及び、それについての意識の仕方)は、事物と意識の相関関係に本質的に属している事柄なのであって、意識が受肉しているかどうかという問題とは、さしあたり関係がないのです。すると、具体的な超越論的主観としてのモナドは、そこにおいて身体が構成されるのだとしても、それ自身が身体的であるとまでは言えないことになります。
 すると〈身体などの内世界的な事実に訴えざるをえないとしても超越論的現象学が可能であるとすれば、それはいかなる意味においてか?〉という元々のご質問には、さしあたり次のように答えられます。すなわち〈他者経験のためには内世界的な身体を出発点にせざるをえないとしても、それによって認識される他のモナドは、それ自身が身体なのではなくむしろ身体が構成される場である〉というフッサールの主張を保ちつづけることができるなら、超越論的現象学は依然として可能なのです。つまり、経験の具体性を主観の身体性に依存させないという意味において、フッサールの超越論的現象学は、ぎりぎりのところで、「内世界的な(mundan)」主観の現象学に陥らずに踏みとどまっているのです。
 個人的には、フッサールの思想の面白さは、そのような「ぎりぎりのところ」に身を置きつづけた点にあるような気がします。とはいえ「やっぱり踏みとどまることができずに落っこちてるんじゃないか?」という疑問は、まだ解消されないままだと思います。フッサールの企図が成功しているかどうかは、身体や他者の問題を試金石として、さらに検討する必要がありそうですね。


質問(4)
「ひとつの生の異なる相貌」として、感情移入論での他者の心と、他のモナドとしての他者の心をとらえる、というのがフッサールに好意的な解釈なのは理解できます。しかし、感情移入論でとらえた他者の心は暫定的で更新・修正される余地のあるものでしょう(人→人形、良い奴→実は悪い奴など)。これを他のモナドとつながっているのだと「その私」が勝手に思っている、あるいはそう思わざるを得ないのであって、つながりが何らか保証されている訳ではないのではないでしょうか? もしそうであれば、フッサールの当初のもくろみ(他のモナドが存在していることを知る)は失敗していると思います。しかし、逆に言うならフッサールの当初のもくろみ自体がまちがっているのであって、感情移入による他者分析はかなり的を得ているのではないかとも思いました。

質問(4)への回答
 前回の講座では、感情移入によって捉えられるかぎりでの他者の心(身体に局在化された感覚や、身体を介して表出された感情)と、超越論的現象学において問題となる他者の心(他のモナドに属する純粋意識の流れ)のあいだのギャップが問題になっていました。そして質問の中でまとめてくださったように、前回の講座では、このギャップを埋めるために、それら二通りの心を「ひとつの生の異なる相貌」と見なすという解釈を提示したのでした。もちろんこれはフッサールに好意的な解釈であって、さらに疑ってみることも可能です。それゆえ、ご質問にあるように、感情移入によって捉えられた心が他のモナドの心であるということは、感情移入している主観の勝手な思いこみの域を出ないのかもしれません。そうであるとすれば、『デカルト的省察』でのフッサールのもくろみ(感情移入という種の他者経験を通じて、他のモナドが存在していることを知ること)は、やはり失敗しているのかもしれません。
 こうした疑いは、もっともだと思います。しかしここでは、敢えてフッサールに好意的な立場から、さらに彼のもくろみを擁護してみたいと思います。
 『イデーンI』以来のフッサールの考えによれば、現象学は、超越的な世界との関係がそこにおいて初めて成立するような純粋意識を扱うという点で「超越論的哲学」の一種であるだけでなく、この純粋意識の本質を扱うという点で「本質学」の一種であるとされます。それゆえ『イデーンI』によれば、現象学は、正確には、「純粋体験〔≒純粋意識〕についての記述的な本質学」として定義されます(Husserliana Bd. III/1, S. 156; 渡辺二郎訳『イデーンI-ii』、みすず書房、1984年、37頁)。これまでの講座では、現象学が「超越論的」であるという点については強調していましたが、それが「本質学」の一種であるという点については割愛してしまっていました。
 そして現象学が純粋意識の「本質」を扱う学であることを考慮すると、上で述べられた疑いは解消されるかもしれません。この疑いは、言い換えれば、「人間の意識と純粋な意識が一つの生の異なる相貌である」という命題が私の意識においてのみ妥当するのではないか——したがって他者の生においても二つの意識の必然的なつながりを想定することは、私の思いこみにすぎないのではないか——という疑いだと思われます。しかしフッサールによれば、まさにこの命題は、「本質」であるかぎりにおいて、私の意識だけでなく他者の意識にも当てはまるのだと言えるはずです。つまりフッサールによれば、すべての人間の意識は、本質的に、現象学的還元によって純粋意識となりうるのです。たしかに、「良い」性格をもっているか「悪い」性格をもっているかは意識にとって本質的ではない以上、経験の進展の中で、他者の性格についての私の思い込みが是正されることがあるかもしれません。しかし、現象学的還元の可能性が意識にとって本質的なのだとすれば、他のモナドがありうるという私の確信は、単なる思い込み以上のものであると言えるでしょう。
 ……とはいえ、このようにしてフッサールの議論を敷衍することは、われながら、ちょっと強引な気がします。そもそも、意識の「本質」について何かを語る権利があるのかという点について、さらに疑うことも可能だと思います。その場合は、現象学における「本質直観」という方法についての徹底的な批判が必要になるかもしれません。


質問(5)
人形と人間を見間違えた体験から、フッサールが対化や感情移入を着想していったというお話から、フロイトが、同じく蝋人形や鏡に映った自分自身を見た体験から「不気味なもの」という論考を練り上げたことを思い出しました。フロイトもまた、自らにとって“馴染みのないもの”が、もとを辿ると“馴染み深いもの”であった、ということを示したという点で、何かフッサールの考えとも重なるところがあるような気がするのですが、まだ十分にまとまっていません…鈴木先生はどうお考えでしょうか。

質問(5)への回答
 なるほど、フロイトにおいても、蝋人形や鏡像についての経験から着想を得た論考があるのですね。フッサールとフロイトの思想の共通点についてご教示いただき、ありがとうございます。
 私自身はフロイトについての専門的な知識をもっておりませんので、残念ながら、彼の思想についての立ち入った解釈を述べることはできません。しかし、紹介していただいた「不気味なもの」を読んでみて、とても多くの示唆を受けました。そこで以下では、フロイトを読みながら考えたことについて、少し書いてみようと思います。
 当該のフロイトの論考においては、「馴染みのもの(das Heimliche)」と「不気味なもの=馴染みのないもの(das Unheimliche)」の関係が主題となっているのですね。たしかにここには、フッサールの他者論と相通ずるものがあるように思います。というのも、フッサールにおいても、「故郷世界(Heimwelt)」と「異郷世界(Fremdwelt)」の対比に見られるように、他者経験や異文化理解における「馴染みのもの」と「馴染みのないもの」の関係が常に念頭に置かれているからです。しかし、フロイトが「馴染みのないもの」を直ちに「不気味なもの」と結びつけているのに対し、フッサールが「馴染みのないもの」について語るときには、その不気味さが強調されることはほとんどありません。フロイトが注目した“unheimlich”という言葉が「不気味な」と訳されうるのに対し、フッサールが用いる“fremd”という言葉は、「私のもの(eigen)」にならないという意味で、もっぱら「異他的な/他者の」という訳語が当てられるのです。
 こうした言葉づかいの相違に加えて、両者のあいだには、思想上の相違もあるようです。ホフマンの小説『砂男』を手がかりとしたフロイトの考察においては、「生きているかに見える人形」の不気味さについての考察を含みつつも、最終的には、砂男というモチーフに込められた「去勢コンプレクスから来る不安」についての検討が中心となります。そしてそれを踏まえて、「不気味なものとは、内密にして-慣れ親しまれたもの、抑圧を経験しつつもその状態から回帰したものである」という定義が下されることになります(藤野寛訳「不気味なもの」、『フロイト全集17』、岩波書店、2006年、42頁)。このフロイトの説明は、馴染みのもの(慣れ親しまれたもの)と馴染みのないもの(不気味なもの)の関係について考える上で、とても含蓄深いものだと思います。
 これに対してフッサールにおいては、もちろん「去勢コンプレクス」や「抑圧」等の、精神分析的な考え方が使われることはありません。前回の講座でも触れたように、フッサールにとっての「馴染みのないもの」とは「異他的なもの」のことであり、より詳しくいえば、意識に実的に(reell)与えられることがないものです。そのような異他的なものの典型は、フッサールによれば、他者の感覚や感情や意識だったのでした。つまり、フロイトが「馴染みのないもの」を「抑圧されたもの」——したがって、たとえ無意識においてであれ、ある意味で主観の中に含まれているもの——と考えるのに対し、フッサールは、「馴染みのないもの」を「それ自体として与えられることがないもの」——したがって、そもそも主観の中に実的には含まれていないもの——と考えているのです。これは、両者の思想を対比する上での、ひとつの重要な論点となるはずです。
 しかし、こうした相違を踏まえた上で、より広い視点から見れば、両者のあいだに共通点を見出すこともできるかもしれません。そして確かに、そのような共通点としては、質問の中で指摘してくださった「自らにとって“馴染みのないもの”が、もとを辿ると“馴染み深いもの”であった」という主張を挙げることができそうですね。フロイトにおいては言わずもがなですが、フッサールにおいても、こうした発想を見出すことができます。あるいは別の言い方をすれば、日常的な経験において最も「馴染み深いもの」であった「君」(二人称的な他者)こそが、実は超越論的な経験においては最も「馴染みのないもの=異他的なもの」である——このことに気づかせてくれるところに、フッサールの他者論の意義があるのかもしれません。(なお、二人称的な他者としての「君」については、次回の講座で言及する予定です。)
 「馴染みのないもの」と「馴染み深いもの」は、実は対立するものではなく、もとを辿れば、ある意味では表裏一体なのかもしれません。この一見すると逆説的な事態についての独創的な思想を展開したという点で、フロイトとフッサールの思想のあいだに、興味深い符合を見出すことができそうですね。


質問(6)
①「他者の純粋意識に到達するためには他者の身体を介さざるを得ない」ならば、フッサールによる他者の身体への介入と、メルロ=ポンティによる他者の身体の介入はどのように違ってきますか。
②殺すことに抵抗は感じないというか…感じなくさせるような経験の構造?が記述されなければならないような気がする…アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」を読んだことがあり、ふと思いました。

質問(6)への回答
①たしかに前回の講座では、感情移入が他者の身体についての経験にほかならないことを示すことによって、「他者の純粋意識に到達するためには他者の身体を介さざるを得ない」という点を強調していました。これは、他者経験における身体の役割を重視するという点で、ある程度まではメルロ=ポンティと軌を一にしていると言えそうです。
 しかし両者の思想には重大な違いもあります。質問の中で述べておられるように、フッサールにとっては、他者の身体の介在は、あくまで「他者の純粋意識に到達する」ための突破口にすぎません(身体と純粋意識を切り離す可能性については質問(3)の②への回答においても触れたので、そちらもご参照ください)。これに対してメルロ=ポンティは、意識を世界内の身体と不可分なものとして捉えようとしています。したがって身体を超えたところにある純粋意識へと到達しようとするか否かという点で、フッサールとメルロ=ポンティは異なっているのだと思います。
 ちなみに両者の他者論は、「身体」の介入のみならず、「言語」の介入を重視しているという点でも共通しています。私の意識と他者の意識のあいだに直接的な浸透(つまりテレパシー)の可能性がないのだとすれば、私と他者は、身体や言語を媒介とすることによって互いを経験するしかありません。とはいえもちろん、身体と言語を同一視することはできない以上、身体を介した他者経験と、言語を介した他者経験は、それぞれ別種のものであると言うべきだと思います。メルロ=ポンティの『知覚の現象学』第2部第IV章「他者と人間的世界」では、これらの経験についての立ち入った記述が行われています。これに対してフッサールの『デカルト的省察』においては、身体を介した他者経験(感情移入)しか論じられていないように見えます。そこで次回の講座では、フッサールの草稿などの読解を通じて、言語を介した他者経験についてフッサールがどのように考えていたのかを明らかにしてみようと思います。
 そのようにしてフッサールとメルロ=ポンティの他者論の全体像を提示した上で、もう一度両者の比較を行ってみることも有益かもしれません。

②前回の講座での質疑応答の中では、フッサールの感情移入論が、「他者の身体を傷つけることに抵抗を感じる」という経験の記述とはさしあたり無縁であることが話題になっていましたね。よってフッサールの言葉づかいに従うと、感情移入している(他者の身体があることを認めている)にもかかわらず、その身体を傷つけることを厭わないという場合もありうることになります。
 よって「殺すことに抵抗を感じない」という経験の記述は、フッサールの感情移入論とは別の仕方で取り組むべき課題となります。そしてそれは、フッサールによって成し遂げられてはいない以上、現代の現象学者が新たに取り組むべき課題なのだと思います。その際には、例えばレヴィナスの他者論における他者の「顔(visage)」についての経験の記述が、重大な手がかりとなると思います。
 おそらく、他者の他者たる所以は、ただ単に彼/彼女が身体を有しているという点にではなく、その身体が「危害を被りうるもの(傷つきやすいもの)」及び「危害を加えてはならないもの」として現前するという点にあるのだと思います。つまり他者は、単に私に似ている者として類似関係のうちに置かれているだけでなく、私に倫理的な配慮を要求してくる者として、倫理的関係のうちに置かれてもいるのです。すると、この倫理的関係の由来について問うことで、現象学は倫理学に貢献することができるかもしれません。次回の講座では、そのような現象学と倫理学の関係について、いくらか私の考えを述べておきたいと考えています。
 なお、レヴィナスの『全体性と無限』(1961年)の冒頭では、それまで自明とされていた道徳が崩壊する状況が「戦争」と呼ばれています。そのような戦争状態においては「殺すことに抵抗を感じない」という経験もありうるでしょうし、さらに質問の中で的確に指摘してくださったように、「殺すことに抵抗を感じなくさせる」ように追い込まれるという経験もありえます。こうした経験について考える上で、紹介してくださった『戦争は女の顔をしていない』から学ぶべきことは非常に多いと思います。私自身、この機会に同書を少しずつ読み進めながら、こうした主題の重要性を痛感しています。ご教示いただき、ありがとうございました。
 最後に、同書の前書きを読んで考えたことを少しだけ書いてみます。

「女たちの」戦争にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていた。そこには英雄もなく信じがたいような手柄もない、人間を越えてしまうようなスケールの事に関わっている人々がいるだけ。そこでは人間たちだけが苦しんでいるのではなく、土も、小鳥たちも、木々も苦しんでいる。地上に生きているものすべてが、言葉もなく苦しんでいる、だからなお恐ろしい……
(アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』、三浦みどり訳、2016年、5頁)

ここで言及されている「色」「臭い」「光」「気持ち」については、個別的な証言の中でのみ表現されうるのかもしれません。また、「人間を越えてしまうようなスケールの事」や、地上に生きているものすべての「苦しみ」の正体が何であったのかについても、やはり、当事者の経験を物語ることでしか明らかにならないのかもしれません。とはいえ、そのように個別的な経験を語ることでしか表せないものとは何であるか、あるいは「過ぎた日々の証言としての痛みに耳を澄ます」(同上、14頁)ことを試みた著者に何が起こったのか——こうしたことについて考えるとき、現象学的な考え方が、わずかでも役に立つ余地があるのかもしれません。


質問(7)
身体の物体的な対化による感情移入は、赤子が最初に他者(例えば母)を経験する際には当てはまらないという意見があると聞きました。しかし、赤子はそもそも他者であり、大人である自分から出発した考察は、他者としての赤子をそもそも感情移入によって認識していると思いました。この点は、専門家的にはどのように考えられておりますでしょうか。

質問(7)への回答
 質問(2)の①と質問(3)の①への回答において述べてきたように、『デカルト的省察』における「対化」の説明には、いろいろな批判の余地があります。それらに加えて、目下の質問の中で挙げてくださった「対化は乳児の他者経験には当てはまらないのではないか?」という批判も、たしかに可能だと思います。
 そしてこの批判に対しては、「『デカルト的省察』の議論が、そもそも人間の発達段階における最初の他者経験を説明しようとするものではなかった」という反論ができそうです。第44節で述べられているように、同書の第5省察においてフッサールが採っている方法は、他者に関する志向的なはたらきを一旦すべて度外視するという「自分固有の領分への還元」です(Husserliana Bd. I, S. 124; 浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波文庫、2001年、167頁)。これによって彼は、あらゆる他者経験を度外視した状態を人為的に作り出すことによって、他者経験とは何であるかということを、一から説明しようとしたのです。
 重要なのは、そのような「自分固有の領分への還元」が、まだ他者経験をしていない乳児の段階への回帰ではないということです。自分固有の領分への還元によって得られるのは、世界についての諸々の経験、認識、実践などをすべて行っているにもかかわらず、他者経験だけは行っていないことにされている者です。これに対し、おそらく乳児は、他者経験のみならず、その他の経験、認識、実践すらもほとんどできない段階にあるはずです。したがって、「自分固有の領分」を出発点とした議論の中で登場する「対化」が乳児の場合には当てはまらないからといって、フッサールの感情移入論が誤っているとまでは言えないはずです。乳児の経験を解明することは、『デカルト的省察』の目的の範囲外にあるからです。
 しかし実証的な研究との関連を視野に入れると、乳幼児の他者経験について考えることは、やはり有益であると思います。そしてこの点に関しては、フッサールよりもメルロ=ポンティが優れた成果を残しています(例えばソルボンヌ大学で1950-51年になされた講義「幼児の対人関係」など)。とはいえ、質問の中で指摘してくださったように、哲学者自身が乳幼児期に回帰することはできない以上、乳幼児の経験についての現象学的記述がどこまでうまくいくかについては、たしかに議論の余地がありそうです。そしてこの点について、メルロ=ポンティはかなり自覚的であったと言ってよさそうです。というのも彼は、上述の講義の中で、幼児の表現の仕方を、成人が行っている表現の仕方の「失敗」と見なすような考え方を批判しているからです(滝浦静雄訳「幼児の対人関係」、『メルロ=ポンティ コレンクション3』所収、みすず書房、2001年、5頁)。つまり、幼児の経験していることを推測する際に、成人の尺度を幼児に当てはめないように注意すべきである、というわけです。


質問(8)
純粋意識にとっての時間は今しかないにもかかわらず、過去とよべる何かが記号として今に現れている。これが成り立つ為には今の時点で今に現れる何かを超越的に記号化する何かがなくてはならない。錯覚について、最初婦人として把握されていたのが人形であると気付いたときに何が触発したのか、何が錯覚であると触発したのか、フッサールがどう考えていたのか知りたいです。

質問(8)への回答
 前回の講座では、純粋意識が具体的には「意識の流れ」として進行してくのだと述べていました。そのような流れの中では、意識のその都度の状態は刻一刻と移り変わっていきます。よって質問の中で述べておられるように、一見すると、純粋意識にとっての時間は今しかないように思われますよね。
 しかしフッサールの時間論(例えば『内的時間意識の現象学』など)においては、「今」だけでなく、「今よりちょっと前」と「今よりちょっと後」が「現在」のうちに含まれているのだと述べられています。つまり意識のその都度の現在とは、刹那的な今ではなく、もう少し幅をもったものだというわけです。そしてフッサールは、そのようにして今よりちょっと前と後の状態が保持される(彼の言葉づかいでは、ちょっと前の状態を保持することは「把持(Retention)」、ちょっと後の状態を保持することは「予持(Protention)」と呼ばれます)ことによって、意識の流れが保たれると考えています。というのも、刹那的な今が浮かんだり消えたりしているだけでは、いわば光の点滅のようなものが断続的に起こるだけであって、前後関係をもった連続的な流れがかたちづくられることはないからです。
 そしてフッサールによれば、過去についての意識は、上述の把持のはたらきとの関連において説明されます。把持のはたらきによって一定の順序ができあがってしまえば、現在が過ぎ去ってしまったあとにも、その順序において起こったことを再現することが可能になります。そのような再現のはたらきは「再想起(Wiedererinnerung)」と呼ばれます。そしてこのとき再想起されるのは、すでに過ぎ去ってしまった出来事、すなわち過去であると言えるでしょう。このように再想起によって取り戻される過去を、かつての現在の「記号」と呼ぶことは、たしかに可能かもしれません(ただしフッサール自身がそのように述べている箇所は、あまりないように思います)。
 では、人形を婦人と錯覚するという事例においては、このような過去と現在のつながりはどのように機能しているのでしょうか。以下ではこの点について、『受動的総合の分析』の記述を手がかりにしながら、私の考えを述べてみたいと思います。
 ご質問の内容に即して言うと、錯覚が判明するときに触発してくるのは、現在知覚されているかぎりでの人形(より正確に言えば、その人形についての感覚)であると思います。例えば、過去の時点(t1)において触発してくる感覚をE1とします。そして私は、この触発に従って、E1を婦人の手として統握するように促されるとします。しかし目下の事例においては、経験の進展の過程で、私の手と婦人の手のあいだの触発的コミュニケーションが次第に弱まってくるはずです。すると、しばらく後の時点(tk)における感覚Ekは、それまでとは異なり、人形の手として把握するように私を触発してくるようになるかもしれません。そしてこれに従ってEkが人形の手として把握されるや否や、それまでの婦人についての知覚は錯覚であったことが判明します。このとき私は、tkの時点からそれまでの一連の時点(t1〜tk-1)までの統握をやり直して、E1〜Ek-1を、人形の手として把握し直すことになるでしょう。このとき、t1〜tk-1が比較的短い場合には、錯覚を訂正ためには、把持のはたらきだけで十分かもしれません。しかしt1〜tk-1が比較的長い場合には、さらに再想起のはたらきに頼る必要があるかもしれません。このようにして、時間意識の進展の過程に即して、人形の錯覚の事例をより詳細に記述してゆくことも可能だと思います。

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「やっぱり知りたい!フッサール」
第3回 「表現の現象学」は8月5日(日) 18:00-20:00です。

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