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器用貧乏サヴァラン

中学生の時、好きになった人が28歳だった。その28歳に先月わたしも成った。「クォーターライフクライシス」の真っ只中、「リベンジ夜更かし」によって得た、長い空白を埋めるために書いています。誰もが表し難く感じていた凡ゆるモノへ上手いこと名付けてくれる時代に、ほうかほうかこれはクライシスやったんか、それなら仕方がないね、と甘えながら日々を貪ってはいるけれど、唯一憤りを禁じ得ない名付けが在る。

「失われた○○年」
初めての"失われた"は10年だった。時代の憐憫は感じていたけれど、かと言って戦時中だというわけでもなく、お小遣いはもらえるし学校にも通えている。例の如く、ちょっとした言い訳には丁度良かった。「しょうがないよ、失われた10年だったんだからさ」なんて言葉を接頭辞にも句読点代わりにも多用してきた。言い訳だらけの浪人を終え、晴れて大学生になったときそいつは分厚い教科書の中に当たり前のように現れた。"失われた"の20年。えええー!延びてええの?こういうのって後から増えて構わんの?「人生の半分も失われてだんだから、嫌な時代に生まれたねー!」と笑いの種にしていた頃はまだ良かった。本人の知らぬ間に人生のほとんどが失われてしまったのだから驚愕だ。そんなことがあっていいのか、待て待てこれだけ捲し立てておいて間違っていたら恥ずかしい。Googleの検索欄に「うしな」と入力したところで発狂しそうになった。そう、"失われた"は裏切らない。30年。"失われた30年"である。もう開き直ってない?そもそもこの、過去形なのか受動態なのかよく分からない視点の物言いが余計に腹立たしい。過去形なのだとしたら、もう時制の概念もあったもんじゃあない。人生の首のとこくらいまで"失われた"に浸かっているつもりが、とうに天辺まで溺れてた。YouTubeばかり観ていられない。とにかく目の前にいる猫を撫で、口に放り込んだグミをしっかり噛み締めて、そういうことをあと30年やっていかなきゃ。

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