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水彩画を木版にする(その3)
さて、前回は、『明星』午歳第9号(1906年9月1日発行)に掲載された、水彩画家三宅克己の原画を木版にした《修善寺》について検討した。
今回は、三宅克己の水彩画原画を石版印刷によって絵葉書にしたものと木版画《修善寺》の比較を試みたい。
三宅克己と水彩画
三宅克己(1874−1954)は明治7年、徳島市に生まれ、同23年大野幸彦の画塾で学んだが、大野の没後は原田直次郎の鍾美館に移った。
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『思ひ出つるまゝ』昭和13年6月20日 光大社
明治24年にイギリスの画家ジョン・バーレイの展覧会を見て、水彩画の魅力に目覚めた。明治30年に渡米し、エール大学附属美術学校で学び、翌31年には英仏に渡り帰国した。帰国後、第4回白馬会展に水彩画を出品し、白馬会の一員となった。
大野画塾の指導法は臨本主義、すなわち、お手本を模写することが中心で、三宅はそこに窮屈さを感じていた。自由に風景を写生したいと考えていたからだ。
三宅克己は自伝『思ひ出つるまゝ』(昭和13年6月20日、光大社)で、ジョン・バーレイの水彩画を見て深い感銘を受け、すぐ自分でも描いてみようとしたことについて次のように回想している。
丁度明治二十四年の春だと思ふが、私に取り一つの大いなるセンセエションが起つた。それは英国の水彩画家ジョン・バアレイと云ふ人が日本に写生に来て、各地の写生を陳列して、芝慈恵病院で展覧会を開いたことであつた。
これを観た私は、忽然自分の進む可き世界の入口が目前に開かれたやうに思つた。バアレイの写生画は水彩画と油絵であつたが、何故か私にはその水彩画が炎々たる火焰となつて私の心魂に燃え移つたのであつた。私は全く狂喜の姿でその展覧会の閉づる時間まで、飲食を忘れて見入つたものである。安藤仲太郎先生は二三日後に新聞に批評を書かれ、就中水彩画を激賞してあつたが、矢張誰れの眼にもその水彩画は佳作として認められたものと思はれた。
この展覧会を見物した翌日は、夜の明けるのを待ち兼ねて、直ぐに水彩画の写生に出掛けた。朝八時までに永田町まで行くその前、ほんとうに朝めし前の仕事として、一枚寺の門を写生したのであつた。
自伝『思ひ出つるまゝ』(昭和13年6月20日、光大社)には、そのとき三宅が描いた写生画が掲載されている。
モノクロの写真網版であるが、精度がよく絵の感触が伝わってくる。
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右上隅に「明治二十四年五月四日」とある。
キャプションは「小石川のある寺 ジヨン・バアレイの個展に刺戟されたる翌朝の写生画(明治二十四年五月写生)」となっている。
水彩画でもこのように油彩画と同じような奥行きが表現できたのである。
モノクロ図版でも、手前の植栽と、寺の門の向こうの樹木の距離感がしっかりとらえられていて、絵画の再現力を味わうことができる。
『明星』と三宅克己
自伝『思ひ出つるまゝ』(昭和13年6月20日、光大社)には、明治36年頃、与謝野鉄幹が雑誌『明星』のために絵を依頼しにやってきたことが記されている。
某日友人矢崎千代二君の紹介で、明星と云ふ雑誌をやつて居る者だと云ふ、背の高い風采のそれ程あがら無い、着流しの未だ至極若くも見え、又相応に苦労人らしくも見ゆる、一寸見当の付き兼ねる男の訪問客があつた。雑誌に絵を載せたいから、何か木版下を描いて呈れろと云ふ注文なので ある。
何んぞ計らんその来訪客こそ、その頃私達の耳朶に響き渡つて居た、与謝野鉄幹先生であつたので、私は余りの意外なのに、驚入つて了つた。当時一条成美画伯の挿絵にて、実際雑誌界の真の明星程に輝き渡つて居た文学雑誌としての明星は、若い文学者や美術家の崇敬の的となつて居たのであつたが、自分の作画を現在明星の主幹から直接依頼されると云ふことは、可なり嬉しい誇る可き大得意の出来事であつたのである。
それは明治三十六年頃の話だが、この頃から自分の作画は、漸く世間に認められ、又実際に用ゐられることゝなつた。その内今度は博文館から、女学世界の口絵を毎号是非頼むと云ふことになり続いて中学世界、文章世界等、私の水彩画は毎月各種の雑誌の口絵に発表されるやうになつたのである。
*引用者の判断でルビを加えた。
矢崎千代二は大野塾でともに学んだ画家で、その紹介で与謝野鉄幹が三宅克己を訪ねてきたのである。鉄幹は長身で着流しのことが多かったようで、最初は風采が上がらない人物としてとらえられているのがおもしろい。
与謝野鉄幹の『明星』の編集方針は、文学と美術を2本の柱とすることで一貫していた。
初期に協力した一条成美とは意見が合わず、一条は雑誌『新声』に去った。
白馬会の長原孝太郎を窓口にして紹介された藤島武二が一条の穴を埋めた。白馬会の和田英作や中沢弘光も絵を寄稿している。
与謝野鉄幹の依頼は「木版下」ということであった。「木版下」とは、木版の版
下絵ということである。版下絵というと重要ではないように聞こえるかもしれないが、版下絵がオリジナルで、それを木版にして複製するということである。
伊上凡骨や西村熊吉が手業を尽くして、オリジナルの下絵に近い複製木版画を制作したのである。
なぜそれが必要かというと、多くの読者にカラーの画像を届けるために、複製する印刷技術としての木版が有効であったからである。
木版も石版も印刷技術であったが、やがて写真製版が発達すると、木版の彫りや石版の描画に手間をかける必要がなくなった。
そのとき、木版や石版(リトグラフ)は、印刷技術からアート(美術)の方へと移行することになったのである。
絵葉書と三宅克己
水彩画家として名が知られ、若い人向けの雑誌の表紙画や口絵を描く機会が増えた三宅克己にとって、さらに家計を助けてくれることになったのが絵葉書の流行であった。
『思ひ出つるまゝ』(昭和13年6月20日、光大社)には次のように記されている。
尚この頃がそもそも(引用者注ー「そもそも」の後半は「く」の字型の繰り返し符号)日本に絵葉書流行の始りで、大橋光吉氏経営のはがき文学社より、水彩画風景絵葉書など依頼され、発行すれば何れも羽が生へて飛ぶやうに歓迎され、各所の絵葉書商から生仏の如く掌を合せて拝み倒されたのも、この頃の事であつた。
一部、三宅の記憶違いがあって、「はがき文学社」というのは、雑誌『ハガキ文学』を発行した日本葉書会のことである。
「生仏」のように業者に拝み倒されたというのは絵葉書ブームの波の大きさをよく伝えている。
さて、三宅克己の石版印刷による絵葉書を一枚紹介しよう。
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中学生向けの雑誌『秀才文壇』(明治39年12月15日、第6巻第26号)の付録絵葉書である。
街道筋の旅籠であろうか。
多色石版は、色の数だけ版が必要だといわれるが、付録の絵葉書に大きなコストをかけるわけにはいかない。
4版程度で印刷されているのではないだろうか。
火をおこしている煙が空に向かって上がっているが、重ね刷りされていることがわかる。
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霧吹きで吹いたように見えるが、それは石版の版面につけられた微小な凹凸のことを砂目といい、それが印刷によって現れたものである。
水彩画のタッチの再現に石版は適しているといえるが、砂目の均一さが印象を平板なものにしているかもしれない。
比較のため木版の《修善寺》を提示してみよう。
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《修善寺》絵画三宅克己、彫刻伊上凡骨、印刷西村熊吉
樹木の緑のところは石版印刷に似ている。
しかし、全体はクリアで、木版、すなわち刷ったものであるのに、筆のタッチが再現されているように感じられる。
おそらく、彫りや刷りの面で工夫が重ねられたと思うが、その具体的な工程について再現して伝える力はいまのわたしにはない。
ただ、木版が印刷技法であるとともに美術(アート)であるという要素をもっていたのはまちがいない。
版下絵はオリジナル1枚しかないが、木版はオリジナルの質を可能な限り再現しながら、その魅力を数千の読者に届けたのである。
石版と木版の関係については、今後も持続して取り上げていきたい。
余談、写真のことなど
大野画塾につどった三宅を含む若い画家たちの写真がとてもよかったので、ブログ記事に書いた。
また、三宅の自伝『思ひ出つるまゝ』(昭和13年6月20日、光大社)には、明治37年に『明星』にかかわる人たちが赤城山登山をしたときの写真が掲載されているので、それを紹介しておこう。撮影したのが三宅克己である。
![](https://assets.st-note.com/img/1669024615897-wQsi1OZQJ5.jpg?width=800)
キャプションは「新詩社同人赤城登山 (明治三十七年八月撮影)/右より 平野萬里・石井柏亭・高村光太郎・伊上凡骨・与謝野鉄幹・大井蒼梧」。
三宅が自伝で書いたように長身の鉄幹は着流しである。
わたしがこの写真がいいと思うのは、編集者や詩人や画家、彫り師が相集っているところである。
付記:三宅の自伝『思ひ出つるまゝ』の「つ」に濁点は付されていない。読むときは「づ」と読んで差し支えないだろう。
*ご一読くださりありがとうございました。
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