竹久夢二「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」④
生方敏郎の記事「挿画談」(明治43年2月20日の「読売新聞」日曜附録掲載)は、当時活躍していた挿画、コマ絵などの印刷された絵画の領域で活躍していた画家について、批評を記した内容であった。竹久夢二については読者からあきられているなどのマイナスの評価が記されていた。
竹久夢二は、同じ「読売新聞」(明治43年3月6日)に「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」という反論記事を掲載した。当時の〈挿画〉、すなわち印刷された絵画が置かれていた状況について生方とは異なる認識を竹久は示した。また、主観的抒情性を重視する竹久の立場が宣言されている。
①では、感傷性や主観性を帯びている、内から描く絵という夢二の主張は、コマ絵にどう現れているかを『夢二画集 夏の巻』を例に検討した。
わかったことは、コマ絵に題名、詩文などを添えることで抒情性が生まれており、言葉のないコマ絵は、竹久が批判的であったスケッチとあまり差がないということであった。
②では、同様の主張をふくむ『夢二画集 夏の巻』の巻末に収録されている「『夏の巻』の終りに」を検討した。
『文章世界』のコマ絵を例示しながら、竹久の批判と対照してみた。
③では、五十殿利治氏の『文章世界』のコマ絵についての論文を紹介した。コマ絵が「絵画」として扱われるようになって、かえって生命力を失っていくことが指摘されていた。
「『夏の巻』の終りに」の後半部を検討し、メディアの質と、内から描く絵、外から描く絵の差異が関連付けられていることを確認した。
今回は、「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」にもどり、その後半部を読んでいきたい。
所得ぬ画家たち
竹久は、生方敏郎の批評に対して異議を唱える。
「筆者」は生方をさす。「区別」とは、竹久が提示した「内から描いた絵」「外から描いた絵」の2つの分類のことである。前者は絵が「一の創作として、ある感傷なり情緒なりを語つてゐるもの」であり、後者は、「文字に対照してはじめて意味をなすもの」であった。
竹久によれば、生方はその区別をせずに等し並みに挿画をあつかったので、そこに「窮屈」が生まれたという。
橋本邦助は、「純文芸の雑誌」に、まるで文学性を欠いた客観的な自然のスケッチを掲げた。それは所を得ていないふるまいである。
竹久自身は、ある限られた条件のもとにある女学生向けの雑誌に、限定された絵を描いた。これは、約束に従っている点で、条件に適合しているが、竹久の理想からはそれている。
こうしたミスマッチが横行している現状こそが問題だと、竹久は言う。
竹久は、この現状を変えるべく、少しずつ、「内から描いた絵」の試みを重ねてきた。
竹久は、自分の理想とする絵について、短歌や俳句という短詩形文学になぞらえて次のように語る。
竹久の「わが官能のいたましき感傷を、あるリズム—色と形によって謳ひ出した詩—無声の詩を作りたい 」という願いは、本心からのものであろうが、①で言及したように、「無声の詩」としての絵は、「無声」ではなく、題名や添えられた詩文という言葉の支えを必要としていた。
竹久は、情趣があり自立したコマ絵をめざしていたが、十分それを展開しきれていない時に、生方に「挿画家」として扱われ、しかも「単調」だと評されたことに困惑している。
生方に「単調」だと評された竹久は、「単調」なのは自身ではなく「周囲」だと切り返す。せまい周囲ですら、本気で描こうとすれば、たいへん時間を要する。
「単調」という評価の背後にあるのは、何の工夫も努力もなく、古めかしい約束事に従って絵を描くという態度である。
ただの周囲の日常さえ、本気で描こうとすれば、約束事の枷に従って描くなどという、おかしな「野心」はいだきようがないというのである。
たとえづくし
それに続く、仮定法の連続は、ほんとうにリアルなものを描くためには、しかるべき場所に向かわないといけないということを例示したものだ。
貴族的な女性を描くには、宮殿の高楼に登らないといけない。退廃的な女性を描くには、浅草の夜の街に行かないといけない。
竹久のコマ絵から退廃的な女性像の例として《浅草の月夜》を掲げておこう。
左上部のシルエットは浅草の凌雲閣で通称十二階。帝国大学工科大学の教授として招聘された英国人建築家ウィリアム・K・バルトンの設計により、1890年に竣工した。明治末では、ニコライ堂と凌雲閣が東京のランドマークとなる高さを備えた建築であった。
凌雲閣のシルエットの木の目を生かした木版の彫りは、シンプルなコマ絵にアクセントを与えている。
十二階下、千束町2丁目あたりには、銘酒屋といって、酒販売を隠れ蓑にした私娼がいる店が集中していた。最初は銘酒屋の女性が描かれているのかと思ったが、銘酒屋街は凌雲閣の直下である。凌雲閣の見え方と距離を考慮すると、襦袢姿の女性は、吉原遊郭の娼妓である可能性が出てくる。
竹久自身が登楼したことがあり、その際のスケッチをもとにして描かれたのかどうかはわからない。わたし自身は、構成された絵だという可能性を捨てきれない、と考えている。
この絵には、ある種の憂いの感情がたたえられている。もちろん、それは身を売らざるを得ない女性の憂愁に起因している。それは、画題として構成された可能性がある。
わたしたちは「内から描いた絵」が技巧のない写生ではなく、画家による構成を経たものだという可能性に留意しておこう。
虐げられた国民の事例としてポーランドが引き合いに出されているのは、ポーランドが18世紀に、ロシア、プロイセン、オーストリアによって3度の分割を経て亡国の状態にあったからである。
荒れすさんだ男の事例としてあげられたイタリアの「バカボンド」は、vagabondで放浪者のこと。統一王国成立後、いわゆる南部問題が生じ、そこから多くのアメリカ移民が出たことなどを踏まえているようだ。
「感興」をもとに描く
「感興」とは、ものごとにふれて生まれる心の動きのことで、明治末、大正期に文学、美術の領域で広く使われた言葉だ。
約束事に従って絵を描くことの対極にあるのが、自らの「感興」に応じて描くことだととらえられている。
しかし、「感興」に応じて描くことが、客観的なスケッチに限定されるわけではない。《浅草の夜》に見られるように、感興は構成されるものでもあるのだ。
竹久においては、リアリズムと、絵を構成することは、微妙なバランスで融合して存在している。
そのことが、「内から描いた絵」とどうかかわるかはよく考えるべき課題である。(⑤に続く)
*ご一読くださりありがとうございました。
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