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竹久夢二「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」①

  生方敏郎うぶかたとしろうの記事「挿画談」(明治43年2月20日の「読売新聞」日曜附録掲載)は、1910年の時点までに活躍していた挿画、コマ絵などの印刷された絵画の領域で活躍していた竹久夢二や太田三郎について、批評を記した内容であった。

 竹久夢二は、同じ「読売新聞」(明治43年3月6日)に「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」という反論記事を掲載している。当時の〈挿画〉、すなわち印刷された絵画が置かれていた状況がわかるとともに、主観的抒情性を重視する竹久夢二の立場を宣言した内容となっている。
 文章に簡単な注釈をほどこしながら読んでみたい。
*記事原文は総ルビであるが、ルビは適宜取捨選択した。

反論の動機

 竹久夢二は、まず冒頭に反論を記すに至った事情と心境を記している。

自分の作品を世に示すに、日も尚足らず思ふて居るのに、評論家をいて、画家自身が自分の感情、趣味、思想を発表しなければならぬ日本の画家の境遇は決して幸福なるものではない。いはんや作品よりも先きに、自分の意見を発表しなければならぬ程辛いことはない。
私は、来る三月に出版する画集(夏の巻)に於て挿画についての考へと共に、その作品を発表しやうと思つてゐた。矢先、先週の本紙上に「挿画談」といふのが掲げれたのに少からず驚かされた。その議論が自分のかんがへと異つてゐるばかりでなくともすれば「挿画談」の筆者自身もあるひは絵に就いてはアマチユアではあるまいかと思はせるふしがあつたので、僕の挿画談も書きたいと思立つたのである。

 画家自身が自作の意味やモティーフについて説明しなければならない現状について竹久夢二は、幸福とはいえないという認識を示している。
 竹久が対象にしているのは、油彩画や日本画ではなく、〈挿画〉という印刷された絵画についてである。雑誌や新聞の空白を埋める〈挿画〉の意義がメディアや民衆に広く認識されていれば、わざわざ説明する必要はないということがいいたいのだろう。

 この当時、竹久夢二は、前年の12月に洛陽堂より最初の画集を出版し、その『夢二画集 春の巻』は人気を博していた。
 田中英夫氏の『洛陽堂河本亀之助こうもとかめのすけ小伝 損してでも良書を出す・ある出版人の生涯』(2015年11月、燃焼社)では、出版費用は、早稲田実業同窓の助川啓四郎が負担したとされている。
 また、同書では、洛陽堂の河本亀之助は、雑誌『月刊スケツチ』などで竹久のコマ絵を目にしており、出版の前に関わりがあったことが指摘されている。『夢二画集 春の巻』は、使用されたコマ絵の版木を竹久が洛陽堂に持ち込んで出版された、という単純なものではなかったのである。
 『夢二画集 春の巻』は、田中氏著によれば、初版1,000部で、ひと月たたぬうちに売り切ったという。

 『夢二画集 春の巻』の自序に次のような一節がある。

私は詩人になりたいと思つた。
けれど、私の詩稿はパンの代りにはなりませママでした。
ある時、私は、文字の代りに絵の形式で詩を画いて見た。それが意外にもある雑誌に発表せられることになつたので、臆病な私の心は驚喜した。

 ここでいう「絵の形式」で描かれた「詩」というのが、竹久が〈挿画〉にこめた意義の内容だった。
 この考えは、2冊目の『夢二画集 夏の巻』(明治43年4月、洛陽堂)でさらに展開されることになるが、それはあとでふれることとしよう。

『夢二画集 夏の巻』(明治43年9月20日第6版、洛陽堂、*初版は明治43年4月16日)扉

 竹久は、画家が意見を表明する際に、他の画家について言及しなくてはならないことについて次のように記している。

されど、画家が自分の意見を世に示すのは愉快なことではない。何故なぜなれば、批評家はしばらくとしても、自分と非常に異つた路をゆく他の画家の名をば、勢ひ、引合に出さねばならね。けれどそれは、他をへんしておのれまされりとするのではなく両者の隔りを一層明かにせむが為めであることをりやうとさして貰ひたい。

 生方の記事では、竹久は太田三郎と比較された。太田には厭味がなく、読者に飽きられていないと評された。
 竹久はそうした同業者の評価を示したいわけではなく、向かうべき道の違いを示すためにやむを得ず、他の画家に言及するのだというのである。

〈挿画〉の分類について

 次に、竹久はまず生方の〈挿画〉概念の広さについて指摘し、そのあとで、自分の考え方を示す。

まづ第一に、「挿画談」の筆者は、挿画をあまりに広く解釈したと思ふ。
従来、用ゐ来つた言葉を見ても、俳画、漫画、浮世絵、諷刺画、コマ絵等といふ名称がある。僕は、それをたてから二分して「内から描いた絵」「外から描いた絵」とに分けたいと思ふ。換言すれば、その絵自身が、一の創作として、ある感傷なり情緒なりを語つてゐるものと、文字に対照してはじめて意味をなすものとの二様に見たい 

 「俳画」は、近世から始まり、墨筆か淡彩で俳味のある画を描き、俳句の賛をそえたものが多い。この当時は、中村不折や河東碧梧桐かわひがしへきごとうが俳画の近代化を試みている。竹久は俳画に批判的であったが、絵を句の説明にしないという俳画の規範には影響を受けている。

 「漫画」という語は意味が広い。『日本国語大辞典 第二版』では「自由奔放な筆致で絵を描くこと。また、その絵。風俗画、戯画、滑稽画などの類。そぞろがき」としており、近代以降のポンチ絵やコミックとは区別している。さっと略筆で描く絵という描法に注目すれば、それは俳画にも諷刺画にもコマ絵にも共通している。ただ、漫画には諧謔や滑稽さがそなわっていることが多い。

 「浮世絵」は、現在の私たちにとっては、安価では手に入らない高級美術品である。この当時は、まだ民衆に身近な絵画として絵草子店で取り扱われていた。

 「諷刺画」は、新聞などに掲載される政治風刺などを含むものをさすだろう。

 「コマ絵」は、メデイアの視点から見ると最も重要な意義を持っている。竹久が画家として売り出すことができたのは、コマ絵の需要が大量にあったからである。活版印刷が普及するとともに、組版の際に不可避的に生じる余白を埋める絵が求められた。本文とは直接かかわりのない絵を挿入して空白を埋めたのである。それをコマ絵と呼んだ。組版の枠のチェースに木版をそのままはめ込んで印刷することもあった。部数が多い場合には、組版の版面に紙型を当てて型をとり、そこに鉛、錫、アンチモンの合金を溶かして流し込み凸版の鉛版を作る。これが紙型鉛版である。
 写真製版、オフセット印刷が普及するまで、活版の空白を埋める木版のコマ絵は需要があった。絵葉書とともにコマ絵は印刷された絵画が大衆的に普及する契機となったのである。

 生方敏郎が「挿画談」で使った〈挿画〉という概念は、このコマ絵を中核とした印刷された絵画のことであった。
 竹久は、〈挿画〉といっても、目的によってさまざまなものがあることを、生方が無視していると批判した。描き手の側からはそれはもっともなことではあるが、メディアにおける占有の率からみれば、圧倒的に「コマ絵」が多いのである。それは竹久夢二がコマ絵の世界のスターになれた背景でもあるのだ。

「内から描いた絵」と「外から描いた絵」

 さて、竹久は〈挿画〉の新たな分類を提案する。「たてから二分」するというもので、表現の動機という点に注目した分類である。

 ひとつは「絵自身が、一の創作として、ある感傷なり情緒なりを語つてゐるもの」としての「内から描いた絵」で、もうひとつは「文字に対照してはじめて意味をなすもの」としての「外から描いた絵」である。

 後者は、「文字に対照する」という点で、明らかに小説の挿画をさしている。
 前者は「感傷」という言葉を使っていることから明白であるように、主観的な情緒を含ませた絵をさしている。

 『夢二画集 夏の巻』(明治43年4月16日、洛陽堂)は、洛陽堂から出した2冊目の画集であるが、『夢二画集 春の巻』(明治42年12月12日、洛陽堂)の試行錯誤(訂正3版、再訂5版を出している)を踏まえて、木版の彫りも粗略にせず、考えられた編集で、よくまとまっている。
 この2冊の画集に収録された絵を見ると、言葉がまったく添えられていないものは、たいへん少ないのである。

 絵と言葉の組み合わせ方には次のような事例がある。

  1. 絵の中に「画題」と認識できる言葉が彫り込まれている。

  2. 絵の中に、詩文が彫り込まれている。

  3. 絵と同一ページに活字による詩文が組み合わせられている。

  4. 見開きで、絵と詩文が対照させられている。

 このほか、長めの文章が絵の間にはさまれている場合もある。

 画集の絵の多くは、文字に「対照」されており、夢二の説明には矛盾があることがわかる。
 すなわち、「内から描いた絵」としての情緒をふくむ主情的な絵画には、言葉が添えられている場合が多いのである。

 『夢二画集 夏の巻』から一例を挙げてみよう。

『夢二画集 夏の巻』(明治43年9月20日第6版、洛陽堂、*初版は明治43年4月16日)

 もし、文字がなければ、少女の後ろ姿のスケッチということになるだろう。
 文字をおこしておこう。

記臆よ
 なつかしい記臆よ
二人を
つなぐ
ものは
おまへ
 ばかりだ
記臆よ
 なつかしい記臆よ

 この詩的な文字を読んだ上で、この絵を理解すると、「記ママ」というのは、この子を残しておそらく亡くなってしまった母の「記臆」、思い出のことをさし、少女は忘れ形見で、言葉の発話者は、少女の父であるということになる。
 「二人」とは、少女の父と、亡き母をさし、「おまへ」は娘としての少女をさしている。ちょっとした娘のしぐさが亡き妻に似ていて、それが亡き妻の思い出を引き寄せるのである。寺田寅彦の小品『団栗どんぐり』を想起してもよいだろう。
 そうとれば、亡き妻の記憶を忘れ形見の娘の後ろ姿から偲ぶという感傷的な抒情が浮かび上がってくる。

 比較のために、『夢二画集 夏の巻』から、文字がまったくない絵を紹介しておこう。

『夢二画集 夏の巻』(明治43年9月20日第6版、洛陽堂、*初版は明治43年4月16日)

 この絵に題をつけるとしたら、《針仕事》《夜業》《夜なべ》といったものになるだろう。
 題がなくとも、絵の意味はすぐ了解できる。客観的なスケッチをもとにしているからである。
 この絵は、橋本邦助や太田三郎のスケッチ画としてのコマ絵と同じものであり、主観的な抒情性はあまり感じられない。

 もしかすると、言葉との対照がなければ、抒情性は強く発せられないのではないだろうか。

 さて、竹久夢二の2分類の挿画論は、『夢二画集 夏の巻』の末尾に付された「『夏の巻』の終りに」でさらに展開される。
 次回はそのことを検討してみよう。(②に続く)



*ご一読くださりありがとうございました。

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