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表紙に描かれた山:竹久夢二『山へよする』研究③

 連載がとどこおっていたが、やっと3回目。
 今回は表紙画と、見開き中扉に描かれている山の絵について気がついたことを報告したい。なぜ、山の絵があるのか不思議に感じていた。その謎が解けるだろうか。

 今回、山のことをいろいろ調べていて、山好きの人の気持ちが少しだけわかったような気がする。
 山は、見る場所によってさまざまに姿を変える。山の姿は人びとが立っている場所とむすびついている、山を見れば、この世界のなかに生きている自分を確かめることができるのである。



1 表紙画と扉絵の山

 『山へよする』のカラフルな包紙(カバー)をとると、単色であるが、斬新な画像の表紙画が現れる。

 枠の模様は網代格子といい、本の背から裏表紙にかけて配されている。 笠井彦乃は網代格子の柄の着物を着ていて、それが装幀にこの模様を採用した理由だという指摘がある。そのことについては別稿を用意したい。
 
 上端の両側に垂れ幕のように雲が描かれている。その下に眼が描かれ、そこから涙が垂れ、そのしずくが垂れる先に宙に浮いた合わせられた手が描かれる。
 目の表象については、研究史の積み重ねも厚いので、回を改めてじっくり取り上げることとする。今回、取り上げたいのは、合わせられた手の背後に描かれた山についてである。

 この山は、見開きの中扉の絵にも現れている。この中扉についても、詳しくは稿を改めて取り上げるが、今は左ページ上部の山を見ていただきたい。山の形は表紙画のものとは少し違う。表紙画では、右に高峰があり、左にそれより低い峯が2つ描かれているが、この扉絵の山では、低い峯は1つである。とはいっても、山容の全体は似た感じがする。


 山が描き込まれていることに何か理由があるのだろうか。

 竹久夢二と笠井彦乃の交流については下記記事を参照されたい。

 大正6年1月頃から、竹久夢二と笠井彦乃は、彦乃の父の厳しい監視の目のもとで、それぞれ、川(河)と山という符牒を使って手紙のやりとりをした。山と川というと、赤穂義士の討ち入りの際の合い言葉を思い出す。山と川の合い言葉は、義士を支援した商人の屋号である山川屋に由来するとされている。
 竹久がそうした故事を踏まえているとは考えにくい。

 笠井彦乃が山で、竹久が川なのは何か意味があるのだろうか。笠井彦乃が山であるのには、深い意味があるように思われる。書名が『山へよする』であるのも、思い入れの深さを示している。

 少し整理してみよう。
 自由に会えない時期に「山」(笠井彦乃)と「川」(竹久夢二)という符牒で手紙のやりとりをした。
 ゆえに「山」は笠井彦乃を指示している。

 書名『山へよする』の「山」は笠井彦乃を指示している。

 表紙画、見開き扉絵に描かれた「山」の画像は笠井彦乃を指示しているとは単純には言えない。具体的な山の形象が描かれているからだ。

 では、表紙画、見開き扉絵に描かれた「山」の形象が意味しているものは何であろうか。

 

2 「愁人山行」の短歌から

 
 笠井彦乃が生まれたのは、山梨県の南巨摩郡みなみこまぐん中富町(現、身延町)西嶋である。
 笠井彦乃は明治29年3月生まれで9歳まで西嶋で暮らした。
 
 南巨摩郡は山梨県の南西部にあり、甲府の南方に位置している。
 西の県境の北側は南アルプスの山々がそびえ、南側は身延山地である。
 西嶋の暮らしでは笠井彦乃は、日々、山を眺めていたであろう。(注1)

 『山へよする』の「愁人山行」の章に、甲州にかかわる歌が見出せる。

れし甲斐かひはもかな瑠璃色るりいろ葡萄ぶだうよりなみだこぼるる

 「れし甲斐かひ」とあるのは、疑いなく、笠井彦乃が生まれ育った甲斐の国を指しているだろう。
 その甲斐を今訪れて、哀しい気持ちになるというのは、この歌が作られたときは笠井彦乃と離れて暮らしていたということを示しているのだろう。

  歌の「瑠璃色るりいろ葡萄ぶだうよりなみだこぼるる」という部分はことばは平易だが意味はとりにくい。
 「瑠璃色」は紫がかった濃い青色なので、笠井彦乃の瞳の色とは考えにくい。空想上でそのような異国的な瞳の色に設定したのであろうか。それとも実った葡萄が涙を流しているように見えるというのだろうか。

 とりあえず、意味が通る解釈を示してみよう。
 あなた(笠井彦乃)が生まれた甲斐の国を訪ねてみれば、そこは悲しみに満ちている。なぜなら、いま、わたし(竹久夢二)は、あなたと離れて暮らさざるをえないからだ。そんなわたしには、ゆたかにみのる葡萄の実も涙を流しているように見える。

 富士川を詠んだ歌も見出せる。南巨摩郡西嶋は富士川流域にある。

富士川ふじがわ水際みぎはにたてば名なし草うすむらさきにこぼるゝものを

 「こぼるゝものを」という終わり方は、笠井彦乃と並んで富士川のほとりにたつことができればどんなによいだろうという願いを隠している。
 
 次のように山名が出た歌もある。

あまさかる乗鞍嶽のりくらだけくもゆわけほがらほがら(引用者注ー後半の「ほがら」は「く」の字形の繰り返し符号)にいづる太陽たいやう

 乗鞍岳は長野と岐阜の県境にある北アルプスの南端に位置している。日の出を見ているので、「愁人山行」の章の歌が時系列にそった配列だとすれば、竹久は甲州から信濃へ抜ける山の旅をしたということになるだろう。(注2)


3 山の画像のモデルは?


 「愁人山行」の章の短歌からは、竹久夢二が甲斐(山梨)から、信濃(長野)のほうに抜ける山の旅をしたことがうかがえる。南巨摩の西嶋まで足を伸ばしたかは不明である。

 表紙画と見開き中扉の山の図は、その時に見た山の姿をとらえたものではないだろうか。
 主峰が右にあって、副峰が左にある山の形は特徴的である。
 筆者が想起したのは、甲府盆地側から見た甲斐駒ヶ岳(2967メートル)の山容である。

甲斐駒ヶ岳

 写真図版は鳳凰三山(地蔵ヶ岳・観音ヶ岳・薬師ヶ岳)の方からとらえた甲斐駒ヶ岳の山容である。鳳凰三山は甲府盆地側、すなわち甲斐駒ヶ岳の東に位置している。甲府盆地から見ても、山容はほぼ同じに見えると考えられる。表紙画や、見開き中扉の山の図に似ている。

 いろいろ調べてみると、南アルプスの聖岳ひじりだけや塩見岳の山容も角度によって画像に似ている。また、荒川三山(前岳,中岳,悪沢岳)の連峰も、表紙画の画像の山に似ている。ただ、一番似ていると感じられるのは、やはり甲斐駒ヶ岳の形である。
 甲斐駒ヶ岳は赤石山脈の北端に位置し、独峰のように見えるのが特徴だとされている。

 南巨摩郡は甲府の南方に位置しており、西方には南アルプスの南部の荒川岳、赤石岳、聖岳などの連峰がある。また南側に標高が低い身延山も望まれる。身延山は西嶋の南に位置している。

 身延山は南巨摩郡身延町の北部にある標高1153メートルの山である。山頂に展望台があり、そこから南アルプスの山を望むことができる。

 北展望台からの眺望について「身延山頂展望案内」は、具体的に山名をあげて記している。西から北北東にかけて荒川三山、白峰三山、鳳凰三山、八ヶ岳連峰、奥秩父山系などが望める。残念ながら甲斐駒ヶ岳は見えない。
 また、近くには、富士見山、その奥には櫛形山(2052メートル)もある。櫛形山の展望デッキからは甲斐駒ヶ岳が見えるようだ。


 甲斐駒ヶ岳の山容は特徴的で、「愁人山行」の甲州から信濃への山の旅でそのすがたをスケッチにとどめた竹久が『山へよする』の意匠に使ったのではないか、というのが筆者の推理である。

 表紙画と中扉絵の山の画像は、笠井彦乃が生まれた甲斐を象徴するものとして描かれているといえるのでないだろうか。

 

3 浅草十二階から見える山


 『山へよする』に「十二階」という章がある。

 「十二階」とは浅草にあった十二階建ての建築凌雲閣りょううんかくのことである。1890年建造で、英国人技師ウィリアム・バルトンの設計による、高さ60余メートルの煉瓦造の塔であった。凌雲閣は関東大震災で崩落した。

絵葉書 浅草公園から見た凌雲閣

 さて「十二階」の章は3首の歌のみを収めるが、次のような歌がある。

何故なにゆゑなみだときくやなれも見よ。上州じやうしうの山、甲州かふしうやま

 この歌によれば、浅草凌雲閣の展望台から上州(上野こうずけの国)や甲州(甲斐の国)の山々が見えたということになる。

 傍証となる資料を探していると、田山花袋かたいの『東京近郊一日の行楽』(大正12年6月、博文館)という、東京から日帰りができる行楽地を紹介した本の中に「十二階の眺望」という1章があるのを見つけた。
 
 花袋は次のように書き始めている。

 浅草の十二階に限らず、道灌山とか三越の屋上とか、さういふ高いところに登つて関東平野を環のやうにめぐる山嶺の連亘を見ることは興味のおほいことである。東京に住んでゐながら、さういふ大観があるといふことも多くの人は知らずにゐるが、実際、十二階から見た山の眺めは、日本にもたんとない眺望の一つであるといふことを言ふのに私は躊躇しない。

田山花袋『東京近郊一日の行楽』(大正12年6月、博文館)*ルビは適宜取捨した。

 秋、11月末から12月初旬にかけて、十二階(凌雲閣)に上ると、遠方の山を眺めることができるというのである。
 具体的には、たとえば次のように、花袋は紹介している。

 十二階の上で見ると、左は伊豆の火山群から、富士、丹沢たんざわ、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細かに指点することが出来る。

田山花袋『東京近郊一日の行楽』(大正12年6月、博文館)*ルビは適宜取捨した。

 伊豆火山群、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光という順序を視線に当てはめると、左から右に向けて眺望をたどっているように思われる。
 
 凌雲閣から見える甲信地域の山は、秩父山塊の奥の方に「幾重にも幾重にも重なつてゐる」と表現されている。それは甲武信ヶ岳こぶしがたけ(2475メートル)と国師ヶ岳こくしがたけ(2592メートル)である。
 甲武信ヶ岳は甲斐・武蔵・信濃の県境にある秩父山地の山。国師ヶ岳は山梨県と長野県南の境界にあり、甲武信ヶ岳の南西に位置している。
 上州の山としては、赤城山、榛名火山群、浅間山などの名があがっている。

 残念ながら、甲斐駒ヶ岳は十二階(凌雲閣)からは見えないようだ。

 十二階の展望台に立って、北から西へ視線を動かすと、上州の山や甲州の山が見えた。甲州の山は笠井彦乃をいやおうなく思い起こさせる。山を見てなぜ涙を流すのかというと、それはむろん、病に伏している笠井彦乃の身の上が思われてならないからである。
 「なれも見よ。」と呼びかけられているのは、笠井彦乃と旅をともにしたことがある竹久の次男不二彦ふじひこだと思われる。竹久は子連れで十二階に上り、甲州の山を見て笠井彦乃を想起したのである。
 
 山は笠井彦乃を指し示す単なる記号ではなく、その故郷と結びついた具体的なイメージとして表紙画、中扉絵にさりげなく描き込まれているのである。


4 身延町立図書館のレファレンス回答

 身延町立図書館に西嶋から甲斐駒ヶ岳が見えるか、というレファレンスをお願いしたところ、懇切丁寧な回答があったので、その要点を記しておきたい。

 西嶋から甲斐駒ヶ岳が見えるという文献資料は見当たらず、インターネットの調査でも同様の結果であったという。
 町内の登山愛好家に尋ねてくださったところ、西嶋と甲斐駒ヶ岳の間には櫛形山、甘利山などがあって、それらが邪魔をして見ることができないのではないか、ということであった。
 また、わざわざ西嶋を訪ねてくださり、西嶋は富士川と通称西嶋山の間に位置しており、山裾は集落に近い位置にあって、眺望はよくないという印象であった、ということも伝えてくださった。

 行き届いた調査に感謝したい。

 通称西嶋山というのは、下記(注1)の「身延空中散歩〜西嶋〜」にでてくる集落の西側の丘陵をいうのであろう。
 
 残念ながら、西嶋からは甲斐駒ヶ岳は眺められない。

 繰り返しになるが筆者の希望的推測を記しておこう。
 おそらく、竹久は、笠井彦乃の故郷西嶋を訪ねたことはないだろう。
 しかし『山へよする』の「愁人山行」の章の短歌は、竹久が甲斐から信濃へ抜ける山の旅をしたことを示している。その旅は、短歌から笠井彦乃とたやすく会えない時期に行われたと推定される。
 その時、竹久が甲斐駒ヶ岳を眺めた可能性は高い。その独特の山容と、「甲斐」を冠した山名は深く記憶に残ったに違いない。
 短歌に「れし甲斐かひ」とあるように、竹久には、西嶋という地名より、甲斐という地名が笠井彦乃に深く関わるものとして認識されている。
 それで、甲斐生まれの笠井彦乃にふさわしい山として、甲斐駒ヶ岳の特徴ある山容を表紙画や中扉絵に描きこんだのではないかと推測するのである。

 

 
(注1)身延町の観光課がドローン映像をYouTubeにたくさん公開していて、その中に、「身延空中散歩~西嶋~」という1編がある。

 西嶋は富士川の西にある。ドローンカメラによる空撮映像は、開始後1分14秒まで川の下流に向かって移動している。それ以降はカメラは上流方向に転じる。富士川の左手(西側)が西嶋である。近くの里山、遠望される山岳の姿が印象的である。ラスト近くで、上流の奥に姿のよい山が見える。
 人家や道路は明治期とは大きく異なっているだろうが、地形はほぼ同じであろう。西嶋が四方を山に囲まれ、遠望すると重畳する山も眼に入ることが確認できる。

(注2)長田幹雄編「竹久夢二年譜」(『本の手帖62 特集竹久夢二第三集』昭森社、1967年4月)によれば、大正5年8月に竹久は長野市で展覧会を開いている。宿泊先の長野の旅館に「山」名義で笠井彦乃から手紙が届いたという。「愁人山行」の歌がこの時の長野行きに関連しているかどうかは不明である。

*甲斐駒ヶ岳の図版は写真ACのフリー素材を使用した。

【編集履歴】
2024/02/20 誤記修正 身延山|《みのぶさん》→身延山

2024/02/27 「4 身延町立図書館のレファレンス回答」を追記した。


*ご一読くださりありがとうございました。


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