見出し画像

竹久夢二「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」③

 生方敏郎うぶかたとしろうの記事「挿画談」(明治43年2月20日の「読売新聞」日曜附録)は、竹久夢二について批判的内容を含んでいた。

 竹久夢二は、同じ「読売新聞」(明治43年3月6日)に「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」という反論記事を掲載した。そこで、竹久は「内から描いた絵」という考え方を提示した。

 『夢二画集 夏の巻』末尾に収録された「『夏の巻』の終りに」でも、竹久は「内より画く絵」についてふれている。竹久は、当時の雑誌に掲載された画学生の習作のようなスケッチに批判的であった。

 前回は雑誌『文章世界』のコマ絵を例示しながら、「『夏の巻』の終りに」について検討した。

 今回は、『文章世界』のコマ絵について分析した五十殿利治おむかとしはる氏の論文を紹介するとともに、「『夏の巻』の終りに」の後半部について考えることとしたい。

『文章世界』のコマ絵

 五十殿利治氏の「コマ絵投書と新興美術運動」(『観衆の成立——美術展・美術雑誌・美術史』2008年5月30日、東京大学出版会所収、*初出は、『日本文学』51巻11号、2002年11月)は、『文章世界』の投稿画募集を分析し、応募してきたアマチュアたちに注目している。彼らが新興美術にかかわる存在だったからである。

 五十殿氏は、『文章世界』の投稿画募集が創刊号(1906年3月15日)から開始され、規則に「コマ絵 風俗、風景のスケッチ」という指定があったことにふれている。コマ絵がスケッチとして理解されていたことがうかがえる。

 応募画の選者は次のような変遷をたどっている。

  1909年〜1912年 4巻1号〜7巻14号  小杉未醒

  1912年〜1920年 7巻15号〜15巻   太田三郎

  1918年〜1920年 13巻〜15巻      正宗得三郎

 太田三郎は、『ハガキ文学』で、応募画の選者を長くつとめていた。『ハガキ文学』は明治43年8月に終刊している。太田は、小杉の洋行を機に、実績をかわれて抜擢されたのだろう。正宗は洋画家で二科会に所属していた。

 応募画の条件も変化した。5巻16号(1910年12月15日)から、風景・風俗のスケッチという制限がなくなった。
 五十殿氏が注目するのは、10巻2号(1915年2月1日)から「駒絵」という条件がなくなり、単に「絵画」となることである。

 この転換の背景について、五十殿氏は「画材の入手などを含めた洋画の普及、それに伴う美術界の多層化が反映していよう」と指摘している。
 大正初年には、小グループ展が活発に展開し、二科会も発足する。
 コマ絵は、若い美術家たちの自在な表現の受け皿として機能していたが、「写真に基づく複製図版」が掲載されるようになり、魅力を失っていくと、五十殿氏は指摘している。

 竹久夢二は、印刷された絵画の領域で出発した画家として、コマ絵に内面的な動機を与えることを志向していた。
 『文章世界』が大正4年に応募画のコマ絵という制限をはずして「絵画」としたことは、竹久の志向にそうものだといえる。
 だが、五十殿氏の指摘によれば、同時にコマ絵は次第に吸引力を失っていったのである。

 大正期以降、竹久自身もコマ絵以外の領域に活躍の場をもとめていくことになる。

再び「『夏の巻』の終りに」

 さて、今一度、竹久の「『夏の巻』の終りに」にもどることにしよう。

 前回の引用部分に続けて、竹久は次のように述べている。

僕思ふに、日本の挿絵はその出発点を誤つたのではあるまいか。曾て君にも話した如く、挿絵は内より画くものと、外より描くものと二種に分ちたい。 内より画く絵といふのは、自己内部生活の報告だ。感傷の記臆だ。外より描くといふのは小説や詩歌の補助としての、或は絵画専門の雑誌へスタデーとしてのスケッチだ。
かく別けて見れば、その雑誌に必要にして有効なる挿絵を選ぶことが出来て、はじめて、挿絵としての立場が明かになつて来る。
僕は、その内部よりの挿絵を選びたい。

「『夏の巻』の終りに」(『夢二画集 夏の巻』明治43年9月20日第6版、洛陽堂、
*初版は明治43年4月16日)

 「内より画く」挿絵が「自己内部生活の報告」「感傷の記憶」だというのは、①で検討した「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」(明治43年3月6日、「読売新聞」)の「内から描く絵」の規定と同じである。

  外より描く絵についての規定は、外部的な条件に絵が従っていることを示している。
 「小説や詩歌の補助」として挿絵は、絵としては従属的な位置にある。あくまで、小説や詩歌が主役である。
 留意したいのは、その次の「絵画専門の雑誌へスタデーとしてのスケッチ」という言い方である。絵画の専門誌に掲載される絵は、本格的な作品(「本絵」と呼ばれた)の習作スタディとしてのスケッチだというのである。

 五十殿氏の前掲論文によれば、「『みづゑ』にせよ、『中央美術』にせよ、読者の投稿画や絵葉書を掲載することはあっても、本文から独立したコマ絵というものを掲載することはなかった」という。

 竹久は、習作スタディとしてのスケッチが文芸雑誌に掲載されるのは場違いであると考えている。しかし実際は多くのコマ絵はそうしたスケッチであった。
 竹久の考える「外」という概念には、メディアの質の違いという要素が含まれていた。

 竹久のいう「内より画く」挿絵は、どのような雑誌媒体にふさわしいのだろうか。
 あまり結論をいそぐのはいけないが、わたしたちは、竹久が言う内的な要素は時代的な意匠かもしれないと疑ってみてもよいのではないだろうか。 

(④に続く)

【付記】
②でふれた木下茂について、引用した五十殿氏の論文に言及があった。尾竹竹坡の門下で第一回未来派美術協会展に出品している、という。



*ご一読くださりありがとうございました。


 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?