見出し画像

「本所の松井」をめぐって



1 芋づる式でわかってきたこと

 一條成美の木版挿絵に「よしだ刀」という文字がよく彫り込まれているが、これは彫刻師吉田六三郎のサインだということがわかった。吉田は、楊堂と号し、木徳と呼ばれた、彫刻の名人木村徳太郎の三男であることもわかった。

 このことを調べる過程で、芋づる式にわかってきたことがある。

 竹久夢二は『山へよする』のカバー(包紙)の版画について、大正7年12月24日の日記に「本所の松井へゆく。「山へよする」の包紙の乳のところをけづつてよくする。 足のあたりの線がわるいのでなほす。」と記している。
 この「本所の松井」のことがわかってきたのである。

 吉田六三郎追跡の過程で、吉川弘文館刊行の『国史大辞典』第1巻(明治41年7月15日)の「凡例」の記述にであった。そこには次のような一節が見出される。

又木版彫刻は、木村徳太郎、吉田六三郎、大塚祐次、木版印刷は、松井三次郎、藤浪銀蔵、石版は、竹平吉蔵、写真石版は角田吉三郎諸氏の労によれり。

 『国史大辞典』には、図版が収められた巻があり、図版は木版で制作された。この一節が手がかりのひとつとなって、吉田六三郎のことを知ることができた。
 ここに、「木版印刷」担当として、「松井三次郎」という名があがっているのが気になった。「木版印刷」とは、木版画の摺りのことで、もしかしたら竹久が書いている「本所の松井」とは、松井三次郎のことかもしれないと思ったのである。

 竹久の日記の記述にもどると、松井は摺師であるので、版を直したのは、竹久自身である可能性が高いだろう。竹久が版の彫りを彫刻師に任せきりにしなかったことがうかがえる重要な記述だといえよう。

2 松井三次郎を検索する

 さて、さっそく、国立国会図書館デジタルコレクションで検索をかけてみる。たくさんひっかかってくる。まず名簿類から紹介しよう。

 財務協会編『東京紳士録 最新公定』(大正元年11月、発行横尾留治)の本所区横網町一丁目のところに印刷業として松井三次郎の名があがっている。

 少し時代が下って、大正11年12月刊の印刷材料新報社編『全国印刷業者名鑑』(印刷材料新報社)では、東京市本所区のところに「活版 同(引用者注-横網町)一ノ一一 松井三次郎 松井印刷所」という記述が見出せる。関東大震災の年の出版で、被害の状況はわからないが、木版印刷だけではなく、活版印刷に業態を拡張していたことが推定される。
 ただ、これ以降、本所横網町の松井印刷所は検索にひっかかってこない。震災で大きな打撃を受けた可能性がある。

 『日本版画美術全集別巻 日本版画便覧』(昭和37年3月、講談社)に収められている、長谷鐐平りょうへいの労作「関東彫師、摺師名録及び諸派系図」は、彫刻師・摺師についての最も広範な一覧である。これは国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信資料で見られる。
 A4判で、系図は横組なので、デジタルでは見にくい。さいわい、オリジナルを架蔵しているので、じっくり見てみた。長谷が聞き書きによって丹念に収集した情報に基づいた系図で、今回初めてその見方についても理解することができた。この系図に、吉田六三郎が木村徳太郎の三男であることが明記されていたのである。

 さて、松井三次郎は「江崎屋改め新蔵系」(初代新蔵、二代山崎新蔵)の摺師として採録されている。松井は「かえるの三」というあだ名で「本所横網住」、「明治3年頃生」とされ、没年は不明である。明治30〜40年代にちょうど働き盛りの時期をむかえていたことがわかる。

3 浅井忠と松井三次郎

 摺師西村熊吉の談話記事「洋画の印刷」(『趣味』第3巻第2号、明治41年2月1日、易風社)には、松井の名が複数回出てくるが、未詳だとしていた。調べていると、西村の談話に出てくる「松井」はやはり松井三次郎のことだと考えられる。

 西村は談話記事「洋画の印刷」で、「以前に洋画を印刷して居ましたのは松井一人で他の処では出来ないやうに思はれてゐました」といい、「松井ではづつと前に浅井さんのをやり始めましてそれから三宅さんのをやりました」と語っている。

 この「浅井さん」は浅井忠のことであろう。石井柏亭はくていが著した浅井の伝記『浅井忠  画集及評伝』(昭和4年11月、石井柏亭編、芸艸堂)には、浅井が教科書出版に関わりを持っていたことが記されている。
 浅井は、挿絵が石版印刷である『中学画手本』(全8冊、明治28年8月、金港堂)を刊行したあと、木版で水彩画を複製した『彩画初歩』という中学校用の教科書を手がけている。

併しこれ(引用者注−『中学画手本』)よりも翌二十九年一月吉川書店から出版された中等教育「彩画初歩」(七巻外に別巻一)の方がより多く好評を博した。水彩画の普及は通例三宅克己と 大下藤次郎との功によるものが多いとされて居るが、年代よりすれば浅井の「彩画初歩」の方が一層早く、此書の刊行がそれに與つて力のあつことを疑ふものはあるまい。「中学画手本」の水画が石版の色刷であるのに引かへてこれが木村徳太郎によつて彫られ、松井三次郎によつて刷られた木版である処に一層の新味があつた筈である。中等学校に於てそれが用ひられたばかりでなく、一般画学者(引用者注−絵を学ぼうとしている一般人のこと)のこれを買求めたものも少くあるまい。現に私の如きも其一人であつた 。

 石井は、水彩画の普及というと、三宅克己と大下藤次郎の功績と考えられているが、浅井忠も早くに教科書で水彩画について取り上げていると指摘している。

 残念ながら、この『彩画初歩』という教科書を見たことはないが、水彩画の複製に木版画を用いたとされ、木村徳太郎の彫りで、松井三次郎の摺りであったことが指摘されている

 おそらく、この明治29年刊の『彩画初歩』をさして、西村熊吉は「松井ではづつと前に浅井さんのをやり始めまして」と述べているのに違いない。西村は、水彩画の木版画による複製の先行事例として『彩画初歩』について言及していると考えられるのである。

 

4 『当世風俗五十番歌合』

 明治40年12月の『早稲田文学』に赤堀又次郎の「本邦図書館歴史」という文章が掲載されており、開催された早稲田大学図書館展覧会について言及している。絵葉書の摺りの実演がなされたとして、次のように記されている。

色摺版は這回本館にて製したる紀念絵葉書の原板又吉川弘文館の寄附によりて、其木版部の松井三次郎氏をして絵葉書を会場にて摺り立てゝ観覧者に分ちしは最も興を添へたり。

 「這回」の読みは「しゃかい」で、今回という意味である。
 図書館の記念絵葉書の原板を版元の吉川弘文館に寄贈してもらい、その印刷を実演したとあり、それを吉川弘文館の木版部に所属していた松井三次郎が担当したというのである。
 松井は本所横網に仕事場をかまえながら、吉川弘文館の仕事を集中して請け負っていたことがわかる。

 その仕事の一端を紹介しよう。

『当世風俗五十番歌合』(明治40年6月、吉川弘文館)という和本仕立ての上下本がある。石井柏亭は『浅井忠  画集及評伝』(前出)でこの本について次のように記している。

「当世風俗五十番歌合」は浅井の漫画に池辺が歌を添えたものであるが、これは 池辺の記す処によると、一緒に太秦の牛祭を見に行った、待つ間のつれ〴〵(引用者注−「ぐ」の字型の繰り返し符号)に 思ひ附いたもので、其後間もなく画が出来、 池辺の歌も一晩で成つたと云ふ 。 それで画の傍へ書き入れる詞書きを永井素岳に頼み、木村の彫りと松井の刷り で、四十年の春吉川弘文館から出版された。古来の画譜のやうに骨描きを淡墨にしてあるので版画が非常に品よく落ちついて居る。

 太秦の牛祭とは、広隆寺の境内にある大避おおさけ神社で、10月12日に行われる祭礼のことで、インド起源の摩多羅神またらじんが牛に乗って練り歩くというものだ。

 浅井は画家の浅井忠(号は黙語もくぎょ)で絵を描き、池辺は国文学者の池辺義象よしかた(号は藤薗とうえん)で歌と判詞はんしを作り、永井素岳そがくは書家で、書と詞書を担当した。それを版画にしたのが『当世風俗五十番歌合』である。

 明治のさまざまな職種の人たちが歌を競い合うという趣向である。図版はモノクロでちょっと残念であるが、国立国会図書館デジタルコレクションのものを使用した。

 奥付を見ると、彫刻は木村徳太郎のほかに吉田六三郎、大塚祐治の名があがっている。印刷は松井三次郎がひとりで担っている。吉川半七は吉川弘文館の主である。

池辺義象ほか著『当世風俗五十番歌合』下奥付、吉川半七、明40.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/873860 (参照 2023-11-16)

 下巻から二十九番の水兵と看護婦(いまなら看護師だろう)の場合を見てみよう。

池辺義象ほか著『当世風俗五十番歌合』下、二十九番 
吉川半七、明40.6. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/873860 (参照 2023-11-16)


二十九番
    左              水兵
あだの舟とりひしぎて海原のたヽへる潮に萬代うたふ
    右              看護婦
病人のやせ手をとりて搏つ脈のかず〳〵(引用者注−「く」の字型の繰り返し記号)物をおもふ夜もあり

判 水兵の勇さる事ながら看護婦のひとりものおもふはあはれにたへざるものあり

 「あだ」は敵のことで、海上の敵の舟をけちらして、海に満ちている潮に明治の御代の永世をほめたたえる、というのが水兵の歌。

 かたや看護婦は、痩せた病人の手をとって脈をはかると、多くの脈動を感じるが、その脈の数のようにさまざまに物思う夜もあるという心情を吐露した歌。

 判詞は、勇ましい水兵は当然もっとものことではあるが、看護婦の物思いにはあわれさがみちている、よって右の勝ちとする、というのである。

 詞書はそれぞれ、「此位ハ女でもこらへますよ」、「アヽ痛いナニ海国男子だ」であろうか。

 松井三次郎は、西洋的水彩画の複製としての木版画という新しい試みと、近世の画譜につながる『当世風俗五十番歌合』の両極を往還できる技能がある摺師であった。

 彫師伊上凡骨や摺師西村熊吉のように本人の談話記事が残されていて、関わりがあった人たちの証言も残されていれば、調べる人も出てくるので、輪郭がはっきりしてくる。
 しかし、松井三次郎のように、あまり知られていなくとも技能が高い職人は多数いたにちがいない。

 一條成美の木版画の彫師が吉田六三郎であることがわかり、そこから芋づる式に本所横網に仕事場を持つ松井三次郎のことが浮かび上がってきた。

 竹久夢二の「本所の松井」という日記の記述、それに西村熊吉の「松井ではづつと前に浅井さんのをやり始めまして」という談話記事に出てくる「松井」のことがこれまでわからなかったが、調べてみて、どうやら松井三次郎という摺師が該当するらしいとわかってきた。

 まだまだおぼろげなスケッチにすぎないが、未知のことが少しわかってきたのはうれしい。木版画においては、画家だけが主人公なのではなく、彫師や摺師も重要な役割をはたしている。
 また、彫師や摺師の技法が、創作版画にインスピレーションを与えているとも言える。竹久夢二が松井の摺りを見て、版を自ら修正しているのは、彼が創作版画に近い位置に立っていたことを示している。

5 その他のこと

◯国立国会図書館デジタルコレクションで見られる松井三次郎の摺りの作品

西男編、鳥井清忠画『白浪五人男  芝居文庫  第三編』(大正7年4月、興風社)
*ログインなしで閲覧可能

喜多川歌麿画、久保田米斎編『四季の花』上・下(大正5年8月、風俗絵巻図画刊行会・吉川弘文館)
*送信サービスで閲覧可能

崋山画譜 一』(明治44年6月、吉川弘文館)
崋山画譜 二』(同上)
*ログインなしで閲覧可能

◯松井三次郎の写真
 村居鋳次郎編『洋画先覚本多錦吉郎』(昭和9年9月、本多錦吉郎翁建碑会)の巻頭に「上野公園精養軒本多先生還暦祝賀会記念(明治四十四年十二月三日)」という集合写真が掲載されていて、その中に松井三次郎が写っている。礼服の人々にまじって短髪で精悍な顔つきの松井を見出せる。
*国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで閲覧可能


*【参考】彫師佐藤勘次郎インタビュー

 上記は豊島区が伝統工芸等の職人さんにインタビューを試みた映像集で、上から4つ目に「平成3年度 豊島区記録撮影「浮世絵木版画摺師 佐藤勘次郎さん」 〈1991(平成3)年制作・15分〉」がある。
 摺りの技法はもちろんのこと、版元との関係、年季のことなどが興味深い。
 ちなみに、佐藤勘次郎の名は、長谷鐐平りょうへいの労作「関東彫師、摺師名録及び諸派系図」(昭和37年3月、講談社『日本版画美術全集別巻 日本版画便覧』)にあがっている(87ページ)。佐藤の師は安井留吉で、インタビューの発言と合致している。撮影時は78歳である。

*タイトルの上のカバー画像と内容に直接の関係はない。


*ご一読くださりありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?