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明治の雑誌・本の版画から

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明治の雑誌・本には木版画や石版画が掲載されています。 版画も印刷なのですが、味のあるものがけっこうあります。 オリジナルの図版を使って、版画の魅力を紹介していきます。
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#伊上凡骨

『明星』の木版:中澤弘光《榛名湖》、杉浦非水《夏の日》

 さて、久しぶりの更新である。  今回は、明治39年の『明星』から多色木版を紹介したい。  おまけに美しい多色石版も一枚紹介する。 1 オリジナル『明星』を集め始める  与謝野寛(鉄幹)が主宰で、東京新詩社の機関誌であった第一次『明星』は1900(明治33)年4月に創刊、5号までは新聞スタイルのタブロイド判、6号以降は四六倍判の雑誌スタイルとなり、1908年11月に通算100号で終刊となった。  与謝野晶子や山川登美子の新しい感性の短歌、石川啄木や北原白秋の象徴詩、上

西村熊吉「洋画の印刷」を読む③

 これまで2回にわたって、木版画の摺師西村熊吉の談話記事「洋画の印刷」(『趣味』第3巻第2号、明治41年2月1日、易風社)を読んできた。  今回は最終回で、洋画、特に水彩画の木版化における技術的なむずかしさやオリジナルの洋画を木版で複製することの意義について考えてみたい。 黒田清輝《銚子の写生の内》  西村は黒田清輝の水彩画を木版にした経験を次のように語っている。  伊上凡骨とコンビを組んで、西村は『明星』や白馬会の機関誌『光風』で活躍することになる。  「黒田先生」

西村熊吉「洋画の印刷」を読む②

 さて、摺師西村熊吉の談話記事「洋画の印刷」(『趣味』第3巻第2号、明治41年2月1日、易風社)の紹介の第2回目。  今回は、西洋画の木版画化の実際に触れる。実作を紹介しながら、何が革新的なところなのかを考えてみよう。 《五月雨》のすばらしさ  西村は洋画を手がけている同業者に刺激を受けて洋画の木版画化にのりだすことになる。  「松井」は木版業者であろうが、特定することはできていない。(注1)  「画工さん」というのは、職人ではなく画家のことを意味している。  「松

水彩画を木版にする(その3)

 さて、前回は、『明星』午歳第9号(1906年9月1日発行)に掲載された、水彩画家三宅克己の原画を木版にした《修善寺》について検討した。  今回は、三宅克己の水彩画原画を石版印刷によって絵葉書にしたものと木版画《修善寺》の比較を試みたい。 三宅克己と水彩画  三宅克己(1874−1954)は明治7年、徳島市に生まれ、同23年大野幸彦の画塾で学んだが、大野の没後は原田直次郎の鍾美館に移った。  明治24年にイギリスの画家ジョン・バーレイの展覧会を見て、水彩画の魅力に目覚

水彩画を木版にする(その2)

 明治39年午歳の『明星』には木版画がたくさん掲載されている。  今回は、一見したところ石版のようにあっさりした摺りの木版を紹介しよう。  木版の印刷法も進化していることがわかる。 三宅克己《修善寺》  『明星』午歳第9号(1906年9月1日発行)には、2点の木版画が掲載されているが、三宅克己の原画を木版にした《修善寺》を見てみよう。  伊豆修善寺温泉の桂川にかかる虎渓橋あたりの光景だろうか。  小雨が降っているらしく、湯治客は傘をさしている。  木版画に特有の、摺

『明星』の木版:和田英作《ジブラルタル》

はじめに  東京新詩社の雑誌、第一次『明星』は、誌面上で文学と美術の交流をはかり、なかでも版画の掲載を目標の一つにしていた。  主宰である与謝野寛は、「明星」終刊号(1908年11月5日)の「感謝の辞」で、「新詩の開拓と泰西文芸の移植と、兼ねて版画の推奨とを以て終始し得た」と書いている。『明星』は最後の2年、1907年、1908年は売れ行きも落ちて、版画の掲載は激減したが、1905、6年頃は、意欲的に多色木版を掲載していた。 1906年の『明星』表紙画  『明星』午歳第

水彩画を木版にする

はじめに  明治の雑誌には、木版や石版の図版が掲載されている。思いつくままに、それらを紹介していこうと思う。  雑誌は、すべて古書として手に入れたオリジナルである。撮影技術は素人レベルなので、向上努力の余地はあるが、臨場感のある図版をあげていきたい。 『光風』創刊号から 《月の出》  雑誌『光風』は白馬会の機関誌。  創刊号(1905年5月)に掲載されている木版画を紹介しよう。『光風』の目次には「月の出(水彩画木版) 長原孝太郎」とあり、目次末尾には「木版彫刻 伊上凡