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明治の雑誌・本の版画から

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明治の雑誌・本には木版画や石版画が掲載されています。 版画も印刷なのですが、味のあるものがけっこうあります。 オリジナルの図版を使って、版画の魅力を紹介していきます。
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#木版

太田三郎と『少年世界』

 ヤフーオークションで博文館の『少年世界』が出品されていた。太田三郎の絵があるものを数冊落札することができた。  表紙画や口絵を紹介したい。  太田三郎は、博文館系列の日本葉書会『ハガキ文学』で活躍したが、そのかかわりから、博文館の雑誌の表紙画や口絵、挿絵を描く機会が多かった。  女学生向けの『女学世界』での活動は知っていたが、少年向け雑誌での活躍についてはその絵を見る機会があまりなかった。  太田三郎そのものが、埋もれている存在なので、数点でも絵を紹介することに意義

西村熊吉「洋画の印刷」を読む①

 今回は番外編になるが、摺師西村熊吉の談話記事「洋画の印刷」(『趣味』第3巻第2号、明治41年2月1日、易風社)を紹介したいと思う。雑誌『趣味』は復刻版もあり、国立国会図書館から複写を取り寄せて一読したところ、たいへん興味深い内容であった。  記事は、摺師がどのように西洋絵画の木版画化に対応したかについて語っており、手持ちの木版画の図版を添え、簡単な注釈を付けて紹介すれば、木版画に関心を抱く人々に寄与するものがあり、また筆者の学びともなると考えた。  長くなりそうなので、分

水彩画を木版にする(その3)

 さて、前回は、『明星』午歳第9号(1906年9月1日発行)に掲載された、水彩画家三宅克己の原画を木版にした《修善寺》について検討した。  今回は、三宅克己の水彩画原画を石版印刷によって絵葉書にしたものと木版画《修善寺》の比較を試みたい。 三宅克己と水彩画  三宅克己(1874−1954)は明治7年、徳島市に生まれ、同23年大野幸彦の画塾で学んだが、大野の没後は原田直次郎の鍾美館に移った。  明治24年にイギリスの画家ジョン・バーレイの展覧会を見て、水彩画の魅力に目覚

水彩画を木版にする(その2)

 明治39年午歳の『明星』には木版画がたくさん掲載されている。  今回は、一見したところ石版のようにあっさりした摺りの木版を紹介しよう。  木版の印刷法も進化していることがわかる。 三宅克己《修善寺》  『明星』午歳第9号(1906年9月1日発行)には、2点の木版画が掲載されているが、三宅克己の原画を木版にした《修善寺》を見てみよう。  伊豆修善寺温泉の桂川にかかる虎渓橋あたりの光景だろうか。  小雨が降っているらしく、湯治客は傘をさしている。  木版画に特有の、摺

『明星』の木版:和田英作《ジブラルタル》

はじめに  東京新詩社の雑誌、第一次『明星』は、誌面上で文学と美術の交流をはかり、なかでも版画の掲載を目標の一つにしていた。  主宰である与謝野寛は、「明星」終刊号(1908年11月5日)の「感謝の辞」で、「新詩の開拓と泰西文芸の移植と、兼ねて版画の推奨とを以て終始し得た」と書いている。『明星』は最後の2年、1907年、1908年は売れ行きも落ちて、版画の掲載は激減したが、1905、6年頃は、意欲的に多色木版を掲載していた。 1906年の『明星』表紙画  『明星』午歳第

黒に黒を重ねる:『方寸』の石版《りんごの花》

雑誌『方寸』  『方寸』という雑誌がある。1907年5月に創刊され、1911年7月まで35冊を刊行した。創刊時の同人は太平洋画会系の画家、石井柏亭、森田恒友、山本鼎の3人であった。  刊行2年目から倉田白羊、小杉未醒、3年目から織田一磨、坂本繁二郎が加わった。  創刊時の同人3人はヨーロッパの『ユーゲント』や『ココリコ』を手本にして、エッセイや詩に豊富な図版を挿入した雑誌を目指した。同人たちは木版や石版にジンク版などさまざまな版式を試み、「文画併載」(小野忠重)の雑誌を安価

水彩画を木版にする

はじめに  明治の雑誌には、木版や石版の図版が掲載されている。思いつくままに、それらを紹介していこうと思う。  雑誌は、すべて古書として手に入れたオリジナルである。撮影技術は素人レベルなので、向上努力の余地はあるが、臨場感のある図版をあげていきたい。 『光風』創刊号から 《月の出》  雑誌『光風』は白馬会の機関誌。  創刊号(1905年5月)に掲載されている木版画を紹介しよう。『光風』の目次には「月の出(水彩画木版) 長原孝太郎」とあり、目次末尾には「木版彫刻 伊上凡