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画文の人、太田三郎

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このマガジンで取り上げるのは、明治大正期にスケッチ画や絵物語で活躍した太田三郎という画家である。洋画家として名をなしたが、わたしが関心があるのは、スケッチ画の画集や、絵葉書、伝承…
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#木版

太田三郎と『少年世界』

 ヤフーオークションで博文館の『少年世界』が出品されていた。太田三郎の絵があるものを数冊落札することができた。  表紙画や口絵を紹介したい。  太田三郎は、博文館系列の日本葉書会『ハガキ文学』で活躍したが、そのかかわりから、博文館の雑誌の表紙画や口絵、挿絵を描く機会が多かった。  女学生向けの『女学世界』での活動は知っていたが、少年向け雑誌での活躍についてはその絵を見る機会があまりなかった。  太田三郎そのものが、埋もれている存在なので、数点でも絵を紹介することに意義

太田三郎と創作版画(上)

 今回は、創作版画と太田三郎の関係について取り上げてみたい。  本来は、もっと細部を詰めてから公表するつもりであったが、清須市はるひ美術館で、2024年11月〜12月に太田三郎展が開催されることとなり、これまでにわかっていることを整理するのも意義あることだと思い、公開することとした。 1 創作版画とは  太田三郎は短い期間であるが、創作版画の領域で活動している。  創作版画が認知されるまで、版画は、複製の工芸品と見なされることが多かった。創作版画とは、〈複製〉ではない

《新古小説十二題(二)》田山花袋『蒲団』:画文の人、太田三郎(11)

1 芳子の帰郷  『ハガキ文学』第4巻第2号(明治41年2月1日)の口絵木版、《新古小説十二題》の2回目は、田山花袋の『蒲団』を取り上げている。  『蒲団』は、雑誌『新小説』の明治40年9月号に発表された。太田はこれを読んで、《新古小説十二題》に取りあげたものと推測される。  中年にさしかかり人生に迷いを感じ始めている竹中時雄という小説家が『蒲団』の主人公であるが、文学を学びたいという希望を持つ横山芳子という若い女性を下宿させることから、単調な生活に波乱が起きることにな

竹久夢二と太田三郎:生方敏郎『挿画談』を読む

 このタイトルで、今の知名度を考慮すると、竹久夢二はほとんどの人が認知できるが、太田三郎はほとんどの人が知らないのではないかと思う。  しかし、1910年前後では、このふたりは印刷された絵画の領域で活躍していた。  わたしは、このふたりがならべて言及されている事例を探していた。 竹久夢二、太田三郎は併称されるか ブログ《神保町系オタオタ日記》の「竹久夢二や妖怪を愛した廣瀬南雄の『民間信仰の話』(法蔵館)——大阪古書会館で出口神暁の鬼洞文庫旧蔵書を発見——」とい

太田三郎と『ハガキ文学』の関わり:補説

 さて、これまで調べつつ、太田三郎が雑誌『ハガキ文学』とどのように関わりがあったかを記してきた。  調べるうちに、新しいことがわかってきた。補説として記しておくことにする。 懸賞絵葉書当選  『ハガキ文学』第2巻第2号、(明治38年2月1日発行)の「社告」には、明治37年から投稿された絵葉書図案約千余点の中から優秀作を6作を選び、当選作が発表されている。  文字を起こすと、次のようになる。  次の頁には、四等4名が発表されており、受賞者は全6名となる。  応募した「

画文の人、太田三郎(2) 白馬会洋画研究所

『日本美術年鑑』から 今回から東京文化財研究所のサイトに掲載されている『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)の記述を紹介引用しながら太田三郎の生涯をたどってみたい。この年鑑にはその前年、1969年に亡くなった画家についての記事が掲載されている。太田は1969年5月1日、心不全で亡くなった。84歳であった。  青物問屋の子として生まれたが、父が風雅を好み、そのために家が傾いたこと、太田が日本画と洋画の両方を学んだ画家であったことがわかる。洋画については黒田清輝に教えを受

画文の人、太田三郎(1) 鴫沢宮の顔のかげ

「画文の人」とは 「画文の人」というのは、画家でありながら文章をよくする人のことを指している。太田三郎(1884ー1969)はコマ絵、スケッチ画、挿絵など印刷された絵画はもとより、日本画、油彩画、版画でも活躍した画家であるが、知る人は少ないだろう。今なら、同姓同名で切手をモチーフにした表現を展開している現代美術作家の方を思い浮かべる人もいるかもしれない。  私は太田三郎を研究しているわけではないが、コマ絵、スケッチ画の丸い独特の線描が好きで古書を見かけたら購入するようにしてき