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画文の人、太田三郎

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このマガジンで取り上げるのは、明治大正期にスケッチ画や絵物語で活躍した太田三郎という画家である。洋画家として名をなしたが、わたしが関心があるのは、スケッチ画の画集や、絵葉書、伝承…
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#土佐派

太田晶二郎のエッセイ「「鶉籠」描法」

太田三郎の次男太田晶二郎について  妻はまの追悼本『厨屑』(1955年7月31日)で、大田三郎は3人の息子について記していて、次男の晶二郎が歴史学者であることを知った。吉川弘文館から『太田晶二郎著作集』全5冊が刊行されていて、年譜を国会図書館の遠隔資料請求で取り寄せて、わからなかったことがいくつか判明した。  下記ブログ記事にそのことは整理してある。  繰り返しをおそれず、要点をまとめておこう。 太田晶二郎(1913ー1987)は日本漢籍史に詳しい歴史学者で、京城帝国大

画文の人、太田三郎(5) 日本画について

 今回は、太田の日本画を集成した『沙夢楼画集』を取り上げる。太田は、洋画とともに、なぜ日本画を学んだのだろう。書き進めるうちに一つの答えが浮かび上がってきた。  わたしには、洋画は展覧会で見る絵というイメージがあるが、日本画のイメージはどういうものだろう。ある時期まで、日本の家庭には掛け物の1本や2本あるのが普通だった。掛け軸、襖絵、扁額、屏風など、日本美術は生活空間に密接に関連していた。太田は日本美術の実用性と装飾性を認めていた。そのことが絵葉書やスケッチ画での活躍につなが