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画文の人、太田三郎

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このマガジンで取り上げるのは、明治大正期にスケッチ画や絵物語で活躍した太田三郎という画家である。洋画家として名をなしたが、わたしが関心があるのは、スケッチ画の画集や、絵葉書、伝承…
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#絵葉書

太田三郎の絵葉書 《すみれ》

 この記事は、下の過去記事の補足である。  《すみれ》という絵葉書の題はかりにつけたものである。  過去記事で取り上げた絵葉書の未使用のものを入手できた。  たいへん美しい。多少、スレがあるが保存の状態がよい。  未使用のものの図版を見ていただこう。  比較のために、過去記事の図版を再掲する。ただし、表と裏をならべた図版にした。  ハートや、スミレの輪郭の金色が、過去記事のものよりも、あせていないし、また、スミレの藍色も鮮明である。 金銀刷りについては下記の記事を参照さ

太田三郎の絵葉書 《羽子板を持つ少女》

1 おそらく雑誌付録の絵葉書  《羽子板を持つ少女》は、かりの題である。  右にミシン目が見られるので、雑誌の付録を切り取って使ったものと思われる。   右下に「1908」とあるので、明治41年の新年号の付録であろう。雑誌名は特定できていない。  宛名面の仕切り線は、下3分の1の位置にあるので、明治40年12月発行の新年号の付録と考えることができるだろう。  前景に松葉、うしろに羽子板を持つ、正月の装いの少女が描かれている。  石版印刷で6色か7色。転写紙を用いている

太田三郎の絵葉書 《夕涼み》

1 夕涼み  《夕涼み》という題はかりにつけたものである。  この絵葉書は、神戸の絵葉書資料館の複刻を持っていて、アール・ヌーヴォーを和に取り入れたよいできなので、いつかオリジナルを見てみたいと思っていた。  このほど、運よく入手することができたので、紹介したい。   宛名面を横置きにした場合、右辺に切りはなした後のミシン目が確認できるので、雑誌の付録絵葉書かと思ったが、下辺左にNIPPON HAGAKIKWAI(日本葉書会)の文字がある。『ハガキ文学』の付録でなけれ

太田三郎の絵葉書 女性教員

1 松聲堂の絵葉書  今回は、絵葉書専門商店発行の絵葉書を紹介しよう。  宛名面の最下段に「日本橋区通二丁目松聲堂発行」と印刷されている。松聲堂は、絵葉書を販売していた専門店である。  上京者のガイドブックである『東京案内』(森集画堂編、明治42年6月)の「東京名物案内」の章に次のような松聲堂の紹介が出ている。  松聲堂は美術出版から絵葉書発行に乗り出したことがわかる。  さて、絵葉書は子どもたちを引率する女性教員を描いている。太田の絵葉書には、きわめて尋常な対象を描

太田三郎の絵葉書 《猿曳き》

1 「猿曳き」とは  検索によって、博文館の雑誌『文章世界』第3巻第1号(明治41年1月15日)の付録絵葉書で《猿曳き》という題がついていることがわかった。  上端にミシン目の跡がついている。  雑誌の付録絵葉書は、刊行されたときの季節感を重視している。  《猿曳き》は猿回しのことだが、正月の季語としてあがっている。  また、猿が描かれているのは、明治41(1908)年が戊申のさる年であったことにちなんでいる。  『日本の歳時記』(2012年1月、小学館)では「猿曳き

太田三郎の絵葉書 《もも草の》

 太田三郎の絵葉書を紹介しよう。   1 雑誌『文章世界』の付録  宛名面の切手部分の表記で博文館の雑誌『文章世界』の付録であったことがわかる。『文章世界』は博文館発行の文芸投稿雑誌。明治39年3月創刊、大正9年12月まで、臨時増刊を含め全204冊を発行した。  太田は『ハガキ文学』で活躍した。『ハガキ文学』の発行元、日本葉書会は博文館の系列であり、その縁で太田は、博文館発行の『文章世界』や『女学世界』の付録絵葉書の絵を描いている。  付録絵葉書は雑誌巻頭に挟み込まれ、ミ

太田三郎の絵葉書 新収品から

 新たに太田三郎の絵葉書を入手したので紹介しよう。  使用済みのものであるが、花をモチーフにしたシリーズの1つであろうか。  花をモチーフにした絵葉書は、過去記事《絵葉書作者として:画文の人、太田三郎 (9)》で何枚か紹介した。 1 「郵便はがき」という表記について  今回紹介するものは、スミレを描いたものと推定される。   発行は日本葉書会である。宛名面に「日本葉書会製」とある。    葉を省略してスミレの花をのみ描いたものだろう。花の青紫色は褪色してしまっている。

太田三郎と『ハガキ文学』の関わり:補説

 さて、これまで調べつつ、太田三郎が雑誌『ハガキ文学』とどのように関わりがあったかを記してきた。  調べるうちに、新しいことがわかってきた。補説として記しておくことにする。 懸賞絵葉書当選  『ハガキ文学』第2巻第2号、(明治38年2月1日発行)の「社告」には、明治37年から投稿された絵葉書図案約千余点の中から優秀作を6作を選び、当選作が発表されている。  文字を起こすと、次のようになる。  次の頁には、四等4名が発表されており、受賞者は全6名となる。  応募した「

絵葉書作者として:画文の人、太田三郎 (9)

はじめに 今回は絵葉書作者としての太田三郎を取り上げる。  1万3千字を超えて少し長尺になったが、分割せずに一括で公開する。  わたしは絵葉書を幅広く蒐集しているわけではないので、太田の絵葉書の全容を明らかにする力はないが、なるべくオリジナルの図版を用いてその魅力を伝えたいと考えている。また、絵葉書流行の文化史的背景も視野に含めながら書き綴った。  ご一読くださればありがたい。 1 絵葉書作者としての太田三郎絵葉書の応募がきっかけ  美術雑誌『藝天』の1928年12月号に

雑誌『ハガキ文学』における活動 画文の人、太田三郎 (8)

太田三郎と絵葉書 さて、太田三郎と絵葉書の関係を考えるとき二つのアプローチが可能である。  まず一つ目は、絵葉書ブームに随伴する形で、博文館が日本葉書会を組織して刊行した雑誌『ハガキ文学』における記者としての活動である。  二つ目は、絵葉書の制作者としての活動である。  今回は、雑誌『ハガキ文学』と太田の関わりについて記すことにしたい。 『ハガキ文学』と太田三郎『ハガキ文学』について  雑誌『ハガキ文学』は日本葉書会が発行元であるが、実質は当時の大手出版社博文館が運営して