見出し画像

ばあちゃん

祖母が他界した。92歳の大往生。
こじんまりとした家族葬で、涙々というよりも笑顔で思い出話に花を咲かせた。

通夜前日、祖母についてたくさんの事を聞かれた。
告別式の司会原稿作成に必要なようだった。
さながらクイズのようで、親戚同士で回答権を押し付けあった。

たとえば、こうだ。

好きな食べ物は?
好きな飲み物は?
好きな色は?
趣味は?
性格は?
毎日していたことは?
夫婦でよくしていたことは?
思い出の旅行先は?

何気ない質問が、頭を悩ませる。
自分の知っている祖母が、すべてではなく、そして真実でもない気がする。

晩年はほぼ寝たきりで、呼吸も食事もすべてチューブからだった。
呼びかけにも反応は薄く、意識が混濁している時間が少しずつ長くなっていた。
らしい。

自分自身決しておばあちゃん子ではなく、ろくに見舞いもせず連絡もとらず不義理な孫だ。
入院している、一時退院した、危篤状態から脱し安定した、すべて伝聞。
学生時代の約10年、同じ家で過ごしたが、学校・部活・塾と学生ながらに忙しく、祖母との思い出なんて少ない。
ましてや実家を出てからは、顔を合わせることもなくなった。
そのうち、介護ができる親戚の家に祖母が居を移し、実家から祖母の部屋がなくなった。
ゆるゆると関係が薄れ、またそれを自然なことだと思っていた。

告別式当日、司会者が故人を偲ぶスピーチをしはじめた。
質問も回答も事前に知っているし、特に驚くこともない。
声色が絶妙で、時間も正確、すごい技術だなと別事に感心していた。

そんな最中、ふと、祖母との思い出が蘇った。
小学1年生の学校からの帰り道。毎日のように通学班でいじめられていた。
泣きながら家に帰り、もう学校に行きたくないと必死に訴えた。
そんな日々が数か月続き、ある朝父が私の左頬をぶった。
お前は心が弱い、自分は悪くないと思うなら泣くな、戦え、学校に行きなさい、と。
理不尽な叱責に唖然とした。

その直後、そのやりとりを見ていた祖母が父の前に走り寄り、父の左頬をぶった。

「女の子の顔をぶったらいけん!
 この子が毎日どんなけ泣いて帰って来とるか知らんやろ!
 私が迎えに行って、いじめっ子をぶち殴ってやる。」

あまり祖母に好かれていないと思っていたのに、
お互い疎ましささえ感じていると思っていたのに、
救われた。

故人を偲ぶとは、こういうことなのか。
そういった出来事を、皆がすこしずつ話して、故人を形作っていくのだ。

そんなことを、四十九日の段取りをしながら考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?