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いのち短し筆執れ我。

自らのことはあまり多くを語りたくない。
学生時代は生身の人間との付き合いもあったが、学生を終えてそれなりに長い月日が経ってくるとネット上で人と話すことが増えた。その間に年齢なりに深い悩みも増え、自分のことをあけすけに語ることのデメリットを強く感じるようになった。
このnoteアカウントはブログのように使おうと思うが、あまり自分自身の情報を提示したくないという気持ちがある。
ただ、創作のことについて語る上で避けて通れない自分語りというのがあると思う。したがって、自らが許せると思う範囲においてのみの自己開示を行うことを自らに許し、また(出来るかどうかわからない、稀有な)読者の方においても、このスタンスを了承されたい。

さきほど、学生を終えて年月が経過したと書いた。いわゆる高等教育の類を受けたので、私の学歴は日本人の平均からいっても長い。したがって、私は決して若くはない年齢に差し掛かっている。
突然だが、私は「ゴンドラの唄」が好きだ。それは私にとって、なかば行き倒れのようして亡くなる下町の高齢引きこもりニートの男と、その老齢の母親の悲喜交々を描いたとあるドキュメンタリーをYoutubeで見ていた時に、終盤に差し掛かって不意に流れたBGMだった。私はこうしてこの歌と出会った。

命短し、恋せよ乙女。

タイトルだけではわからなくてもこの歌詞で始まる歌、と言われれば、ああ、あの歌か。と思う人も少なくないのではないだろうか。
このエントリーのタイトルはこの歌の冒頭歌詞のもじりである。
私は最近、祖父母の死に直面した。大体の年齢がわかるのではなかろうか。人の寿命の長短はそれぞれだが、平均寿命のこと、平均的な産児年齢のこと、これらを考え併せれば、祖父母を見送るおよそ平均的な年齢というのは推し量られよう。友人の中には早くに両親とも喪った者もあるが、私の両親は生きている。その両親は、親の看取りに直面した。
ここに至ってはじめて私は、自分の人生の終わりというものを強く意識している。
感受性が非常に強い私は、幼い頃より「死」を過剰に恐れてきたきらいがある。だが、それは「自分自身の死」よりも、「他者の死」への恐れだった。平均寿命で言えば人生の三分の一以上を浪費した最近になってやっと、「自らの死」を意識するようになった。
死そのものを私は恐れない。死へ向かう過程がなによりも恐ろしい。
どんどん弱っていくこと。なにか病に罹り、治しようもないことが明らかとなっていくこと。体の自由が効かなくなること。
そして、最も恐れるものーー生きた証を何も遺さないということ。
私は臆病者である。幼い頃から、すぐに怖気付いてチャレンジをやめる奴だった。受験や論文執筆などで毎度病んだ。それは次のステップに行くには避けられないものであり、しぶしぶ完遂こそしたが、そのたびに落ちる不安から神経衰弱に陥って生きていることを後悔した。
小説の執筆に関しても、そうである。
今書いているものを世に出して、評価を受けなかったら悲しい。だからやめておく。そうやって自分の書いたものたちを不出世のものにしたことは数知れず(ところで不出世というのは、すぐれているが世に出ないものという意味らしい。自分が書いたものが別にすぐれているわけではないと思うが、この言葉を選んでみた)。
しかし、命は短いのである。
このまま臆病でいて、私という稀有な人間が生きた証を残さなくてどうするのだろう。

稀有。

私は珍しい人間である。
それは自他ともに認めるところだ。
私は発達障害者である。昔からかかっている精神科医にはいつも、面白がられている。感受性が非常に高いのだそうで、私が見た景色を(心象風景のたぐいである)書き留めて世に出すべきだと言われる。
鋭敏すぎる感受性によって、傷つきながら生きてきた。
HSPという概念がある。いわゆる敏感な人、ということであるが、HSPの中でも文章が書ける者として、私はやはり何か書いて出しておくべきだろう。
高すぎる感受性は孤独をもたらす。
自分が感じている苦しさを人に話しても、共感されることは少ないからである。共鳴してくれる人がいない中で、私は自分で自分を慰める方法をいつも模索しては、病んで床に臥すことを繰り返してきた。
私は仕事をしていない。ちょっとしたことで臥せるために、できないのである。途中で仕事ができなくなりひと様に迷惑をかけたことは枚挙にいとまがなく、もうこんなことはやめようと思って人に雇われて仕事をすることを一切やめることにした。
しかし、この齢に立ち至って、私は気がついた。命は短いということに。
ただでさえ頑健ではない私はいったいいつまで生きられるだろう。現在何か大病を患っているわけでもないが、歳を取れば取るほど病の発症リスクは上がるわけで、あと十年も無理だろうと思っている。
私は筆を執る。そして、人がどう思うか知らないが、たとえ人に馬鹿にされようが嫌われようが、私の思うことを書いていきたい。
それは生きた証のためである。
私と似た人が私の文章を読んで、救われる可能性のためにである。

これから書き付けていく文章の想定読者は、私と似ている人である。
そして、書くのは私自身が生きていく上で、何かを遺していると思う自己満足のためである。
自己中心的であることをあらかじめ断っておく。究極的に自己中心的な自閉脳の持ち主であるため、こんな文章しか書けないのだ。

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