死は美しいか?地元大空襲の日に思う戦争のこと。

夏になると私は、「先の戦争」に強い関心を抱くようになる。最近はそれに関する小説を物しているため、関連書籍を読んだりするので余計にその傾向は加速している。そんな私が、この時期についつい口ずさむ歌がある。
この記事を開いてくださったあなたは、次の歌を知っているだろうか。

海行かば
水漬くかばね
山行かば
草むすかばね
大君の
辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

太平洋戦争時に第二の国歌の位置付けとして軍首脳部が積極的に用い、戦意高揚ないしは、戦局が悪くなってからは戦死の美化のために利用された『海ゆかば』。
私は、誤解を恐れずに言えばこの歌がものすごく好きなのである。戦前の日本で作られた西洋音楽は、どこか日本らしさが隠れており、西洋と大和のないまぜになった、玉虫色した美しい旋律を持っている。聞くと心が揺さぶられ、自分でも熱唱してしまう。学生時代合唱部に所属した私の場合、歌うことが好きなのも手伝い、その歌声にはいっそう熱がこもる。
もとは大伴家持の長歌の一節であり、切り取りだ。奈良時代の公家だった彼は当然、千年以上後になって自分の歌がこんなふうに切り取られて戦意高揚のプロパガンダのための歌として流布するとは思っていなかった。天皇のために尽くして働きますという意味で歌ったものに違いはないが、最終的に悲惨な特攻隊にまで若者が駆り出され、前途あったはずの命を散らしたことを知ったら、家持公も草葉の陰で泣くだろう。
戦時中の文脈によると、こういうことになろう。

海軍に応召すれば、船が轟沈されて溺死して屍になるとも。
陸軍に応召すれば、敵との白兵戦や銃撃戦で負傷してそのまま帰らぬ人となり、屍には草が生すとも。
天皇陛下のために、心は常におそばに、そうして死んでいけるのであれば。
後悔はないのである。

おお、ここに来てやはり悍ましいと思う。
私は、自分の曽祖父母あたりの世代の人が、全員とは言わないまでもその多くが、この歌の価値観を当然のように受け入れていた事実を考えるにどうも釈然としない。
それは私たち日本人が、世代を三、四世代降り、民主主義を表面上獲得し、全体主義を拒絶することを自明の権利として与えられ、自由主義者であることや、個人主義者であることを許されるようになったからだ。天皇陛下のために死ぬということを到底理解できないのは当たり前なのだ。

しかし、私はこれを当然と思う価値観のあった時代を見てみたかったと思う。その時のひとびとのメンタリティ(仏語でマンタリテ: 日本語では心性)はけっして生けるものとして私たちに蘇ってくることはない。
ではそうした心の持ち主になりたいかと言われれば、答えは激しく「否」となる。だって私は、誰か他の人のために生きてはいないからである。大好きな人のために生きたとしても、その人のために死ねとまで言われたら実行できるか怪しいくらいに、私は自分ファーストの人間になった。しかし現代人ならそれが普通だろう。

それでも、いいようのない美しさを覚えるのはなぜか。
ここに危うさがあると思う。
大日本帝国海軍中佐の広瀬武夫はかっこいいのかもしれない。日露戦争時、指揮していた船が敵軍に轟沈させられそうな時、見つからない部下の杉野を探して回り、非業の戦死を遂げてしまった。仕事柄どうしても、軍人は非情にならざるを得ないところがある。部下の命など顧みない者も多い中その人情深さは人々の胸を打った。
そして大日本帝国最初の軍神としてもてはやされた。
死は美しい。
とりわけそれが、なにか一本筋が通った思想のもとに行われた死ならば。
数年前、偉大な保守思想家であった西部邁氏が自らの命を絶ってこの世を去った。随分前から計画していたもので、老いて体が言うことを聞かなくなってきた彼は自裁するつもりでいた。「自裁」することは、古来よりの日本人の美学だ。三島由紀夫の死は美しいものとされる。彼は真正保守の人たちには烈士と呼ばれる。
特攻隊に多くの若者を送った司令官の一人大西瀧治郎中将は、敗戦のとき、多くの若者たちを死に追いやったことを悔やんで切腹した。このとき介錯を拒んだという。ふつうは腹を切るとなかなか絶命しないので、介錯者に首を切ってもらって無理やり命を断つのである。それがないのだから、最期まで腹の痛みと失血の苦しみにのたうち回ることになる。それはそれは壮絶な死であったという。
壮烈と思った死の数々を羅列してきたが、私は一本筋の通った自裁死を美しいと思うような傾向があるのだ。

さて、特攻は美しいか?
答えは否、ただ悲惨である。
なぜなら、特攻に散った若者たちは、自らの確固たる意志のもと特攻していったわけではないから。
彼らの多くは短かった大正年間の後半の生まれで、十代おわりから二十代の若人たちである。
彼らが多感な思春期にいたるころには、日本はすでに日中戦争の泥沼の中にあった。それ以前には1931年の柳条湖事件が起こっていて、たとえば学徒出陣のボリューム層である1922年ごろ生まれの若者たちはまだ小学生。もはや記憶の一番初めのあたり、善悪の判断おぼつかない頃から軍部の暴走が始まっており、世の中は戦争一直線の状態である。
そんな中で、彼らが完全に自由意志を封じられ、國體護持カルト(私は勝手にこのように呼んでいる)に洗脳されながら育つことは無理からぬことだった。
特攻隊として出撃した若者たちは、ほとんどはそんな生まれながらの犠牲者たちであったと私は思う。

だから、ときどきその「壮烈さ」に感動を覚えることがあっても、絶対にこれを美化してはならない。

私は自己中心的な人間で、その自分の自己中さに嫌になることがある。そんなとき、折に特攻隊に行った若人たちのことを考える。少しは爪の垢を煎じて飲まねばならないと。
同じようなことを、小泉純一郎が言っていたらしい。
しかし理性を以て考えたら、私はやはりこれは違うと思う。
外から強制されて自由意志の発現を我慢することと、自由がある中で自分を律することは異なる。
自由意志の行使すら阻まれた時代に生きた彼らのことを忘れてはならないし、生き残った者の子孫として、我々は世界の平和を目指してたゆまぬ闘争を続けねばならないと思う。


そんな思いで筆を執っている。
平和主義者は左派か。
それでは右派が名乗る保守とはなにか。
古き良き日本を守ることで現在の日本を危うくするとしたら、それは悪しき懐古主義に過ぎない。古き良き日本は滅び去った。その悲しみは、私にもよくわかる。集合的な意識として手放した「おおきみの辺にこそ死なめ」に私は不思議と強いノスタルジーを感じる。
渡辺京二『逝きし世の面影』を読むと胸が潰れる。
私たちは、その心性を持っていた彼らからたしかにバトンを受け取っている。彼らはきっと、靖国ではなくいわゆるあの世で、私たちが平和の中に生きることを祈願しているだろう。旧きを知りながら、新しきを切り拓いていきたいと思う次第だ。

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