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神無月の頃

 体質なのか、南本友子の美しい黒髪や体型は四十になっても殆ど変わらない。女手ひとつで浩也を育ててきた苦労は、どこにもにじみ出ていないようだ。
 化粧をして身繕いした母を浩也は横目でちらりと見た。
「おでんつくってあるから暖めて食べてね」
 友子は浩也に優しい目を投げかけると玄関を出て行った。
 浩也は高校二年になってテニスクラブを辞めた。大学受験に備え勉強に専念するためだ。浩也は母に負担をかけまいと、高校を出たら直ぐに働こうと思っていた。
 だが、母は大学に行かせるだけの蓄えはある。絶対に大学に行けと言い張った。
 そして、人間働ける内に働いておくもんやと言って、昼間のクリーニング店だけではなく夜のスナック勤めまでするようになった。
 浩也は母のスナック勤めを嫌い何度か止めて欲しいと頼んだが、母は稼ぎがいいからと言って言うことを聞いてくれない。
 母のスナックに出かける時の衣装は日毎に派手になっていった。
 一月ほど経つとタクシーで見知らぬ男の人に送ってもらったり、時々酔っぱらって玄関に倒れ込むこともあった。帰宅時間も徐々に遅くなり、特に土曜日の夜は明け方近くになることもしばしばあった。
 浩也はそんな母が心配でもあり嫌でたまらなかった。が、一方で母が生き生きとしてきたのも事実だった。
 半年ばかり経つと、一人の男とばかり帰ってくるようになった。
 貴志隆三と言う男だ。
 白髪交じりの短髪に赤銅色の顔で大柄な体格。どうかすると若い母とでは親子ほどにも見える。
 浩也は、こんな男のどこが良いのかと疎ましく隆三を思った。
 やがて隆三は我がもの顔で家の中に上がり込み、晩飯まで食べたりした。
 そんな時、浩也は部屋に閉じこもって飯も食べずに無言の抵抗をした。母は複雑な表情で浩也の部屋に夕食を運んだ。
 浩也の我慢は限界に達していた。母に対してスナック勤めを止めることと、隆三との付き合いを止めることを切り出すことにした。
 もしそれがかなわなければ、自分は高校を止めて家を出て行く決意までした。友人が大阪に出て住み込みで新聞配達をしている話を聞き、いざとなったら自分もそうしようというもくろみだった。
 土曜日の深夜、酔っぱらって帰宅した玄関先から二人の会話が聞こえた。
「なぁ、友ちゃん頼むから一緒になってくれっしょ」
「隆さん、またそんなこと言うて」
「ワイもお前も一人もん同士や。なんの支障もないやして。金かてなんぼでもある。生活で不自由なんかさせへんからよ。なっ、友ちゃん明日にでもワイの家に来てや」
「そんな急には無理やわ」
 隆三は酔ってはいるが真剣な口調だ。
「ワイにも息子の勇一がおる。お前んとこの息子と似たような年や。絶対ええ兄弟になるって。なんなら三人でワイの船に乗ってもええっしょ」
「うちの浩也は乗りませんよ」
 母の小さな笑い声が響く。
 浩也は、冗談もいい加減にしてほしいと思った。
 何で自分が漁師なんかにならないといけないんだ。それに見も知らぬ奴といきなり兄弟だなんて。浩也は二人が一緒になることが絶対嫌だった。
 翌朝、浩也は遅く起きてきた母に不満をぶつけた。
「僕絶対船なんか乗れへんから」
 虚を突かれた母は、口をポカンと開けたが直ぐに薄笑いを浮かべた。
「お母ちゃんなあ、再婚なんかするつもりないわよ」
 意外なほど明朗な答えが返ってきた。
「ほんまやな」
「ああ、ほんまや。お前にはしっかりと勉強してもろうてちゃんとした大学に行ってほしいんや。そのためにはお母ちゃん昼も夜もあれへん。働ける時に働いときたい。ただその一心や」
 友子はしっかりと浩也の目を見た。
「お母ちゃん、僕大学入ったらバイトするからその時はスナック辞めてよ」
 母は視線を逸らさず頷いた。
「それより、今度の日曜日おじいちゃんらとの焼き肉いいわね」
「うんわかってるよ」
 もっと深刻なやり取りになると思っていた浩也は、拍子抜けした。母の口から隆三と一緒になるつもりのないことを聞いた浩也は、とりあえずは安心した。不安が完全に払拭されたわけではないが、母の言葉を信じるほかなかった。
 数日後、帰宅すると食台の上に書き置きがあった。
「用事でちょっと出かけてきます。九時には帰るので、鍋のカレーを温めて食べてください」。
 その日、スナックは休みだった。
 隆三と会っているのではないのかと嫌な予感がした。何気なくカーテンの隙間から外を見た。月明かりが団地の山側の樹木を照らしている。見上げると真っ白な満月が輝いていた。浩也は冷め切ったカレーを温めて食べた。浩也は夕べの徹夜が堪えて、カレーを食べると直ぐに眠気が差した。
 目が覚めたら夜中の二時を回っている。何故か母は帰っていない。浩也は熟睡していたので、母が一度帰ってきたかどうかもわからなかった。またどこかにでも行ったのだろうか。浩也は心配しながら朝までまどろみもせず待ったが、母は帰ってこなかった。
 その朝、乗員のいない漁船が発見された。漁船は加太の潜水士、貴志隆三の隆栄丸と判明する。前の晩、隆栄丸に隆三と友子が乗り込むのを地元の漁師が目撃していた。また、その船が友が島の方に進んで行くのを釣り人が目撃していた。しかし、隆栄丸が発見されたのは正反対の雑賀崎の沖だった。
 一週間経って、埋め立て護岸のテトラポッドに漂着している隆三の死体が発見された。死因は溺死だった。
 だが、南本友子は見つからない。友が島での捜索も行われたが母は見つからなかった。
 巷では心中だと噂された。
 それは事故の可能性が全く見あたらなかったからである。
 当日の天気は波もなく良好で、おまけに満月の夜で薄明るかった。
 船には傷ひとつ無い。アンカーを降ろした形跡もなく、エンジンも止められていた。
 忽然と人間だけが海上に消えたのだ。
 浩也は、居なくなる前の母との会話を反芻した。
 明るくさばけた態度で祖父母との焼き肉会食まで口にした母が、隆三とのことで自殺を選ぶなどと言うことはとうてい考えられない。
 母が居なくなってから浩也は、松江にある母の実家に預けられた。
 事故から二週間が経っても何の手がかりもなく、浩也や祖父母らは憔悴していた。いくら考えても心中だとは思えなかった。再婚するつもりなんかないよ、とさばさばした態度で言ってのけた母の笑顔に偽りはないはずだ。
 原因は他にある、そう思ったが皆目見当がつかない。浩也には心の持って行き場がなかった。どこかで生きていて欲しいと思いながらも、半ば諦めの気持ちに押されつつあった。もしや、母が今も茫洋とした海原で彷徨っていると思うと、浩也は居ても立っても居られない。
 浩也には貴志隆三の息子勇一を訪ねるしかなかった。
 浩也は祖母に西脇にある貴志家の場所を訊くと一人電車に乗った。西脇は松江から電車で十五分ほどの距離だ。浩也は西脇の改札を出ると祖母に言われたとおりの道を歩いた。五分ほど歩くと潮風の吹き付ける松林の横に、見上げるほど立派な瓦屋根を張った家が見える。貴志の家だ。
 浩也は勇一に会うのは初めてだった。隆三の顔を想像しながらチャイムを押した。玄関に出てきた勇一は恐ろしく大柄でぶっきらぼうな男だった。ティシャツの裾から日焼けしたごつい腕が剥き出ている。赤銅色にギラリと光る釣り目が隆三とそっくりだった。無精髭のせいなのか、高校二年の浩也と二歳しか違わないはずなのに、既に大人のような感じだ。学生服を着た浩也は、臆することなく勇一に訊いた。
「僕は南本友子の息子です。二人がどこに行っていたのか知りませんか?」
 一瞬で勇一の顔色が変わった。
「おまえ馬鹿かぁ。ワイが知るわけないっしょ! だいたいお前のおかんにそそのかされてこんなことになったんやっしょ。ええかげんにしくらせや」
 勇一が怒声を張り上げる。
「ぼくにはなんの手がかりもないのです」
 浩也は訴えるような眼差しで勇一を見た。
「ワイやって知るかぁ。だいたい、心中やからって保険金もおりんのやど。おやじもうかばれんわ。帰りやがれっ」
 勇一は唾を飛ばして浩也を追い返えした。騒ぎを聞きつけた勇一の祖母が駆けつける。祖母は浩也の顔をまじまじと見るとたまらずすすり泣いた。勇一は舌打ちをすると嫌悪感を露わにしてそそくさと家の奥に消えていった。入れ替わるように若い女が姿を現す。やはり長身だが勇一のように陽に焼けてはいない。肩にやっと届く髪は淡い栗色に染められていた。姉にしては勇一と全然似ていない。女は泣き腫らしたように色白の目元を赤らめていた。浩也に近づくと女は手に下げた大きな紙袋を差し出した。
「これ、船の中に置いてあったんやけどあんたのお母さんのとちやう」
 女はか細い声で言うと、紙袋からベージュのフリースを少し出して見せた。
間違いなく母のものだ。浩也は頷くと女の差し出した紙袋を手に取った。
「あの、お母さんのことについて何か知りませんか?」
 浩也の問に女は黙って首を横に振ると、祖母を介抱しながら家の中へと消えていった。
 結局、貴志の家からは何の手がかりを得ることも出来なかった。駅に向かう浩也の身体を浜風が冷やす。浩也は母のフリースを取り出して羽織った。ファスナーを全部上げると、首をすぼめて前襟で口を覆った。母の匂いやぬくもりまでも未だ残っているような感じだ。
 駅のベンチに腰掛けた浩也は目を閉じた。幼い頃からの母との思い出が、断片的に浮かんでは消える。
 ふと内ポケットに何やら感触を得た。取り出すと折りたたまれた古びた用紙だ。全体黄ばんで朽ちている。広げてみるとミミズのはったような文字や図のようなものが書かれてあった。母が何故こんなものを持っているのか、これが何なのか、浩也には全くわからなかった。目を凝らして眺めているうち浩也の携帯が鳴る。加太の祖父からだった。直接会って話したいことがあるとのことだ。浩也は、その足で加太の父方の実家を訪ねることにし、反対側のホームに移動した。西脇から加太までは十分ほどの距離だ。
 父方と言っても、浩也の父亮作は浩也が生まれて間もなく亡くなっていた。不慮の事故だった、と母は詳しくを語ってくれていない。父の実家は漁師町の加太の端っこだ。加太は南海電車加太線の終着駅で、浩也が母と二人暮らしをしていた西庄からは電車で二十分ほどの距離だ。その途中に貴志の西脇がある。
 父が亡くなった後も、浩也は母に連れられてよく加太の実家を訪れた。小学三年にもなると浩也は一人電車に乗って、祖父母の家まで行けるようになる。特に夏場、海水浴場の近くにある実家に数日泊まり込むこともあった。その頃、浩也は何度か父のことを祖父母に尋ねたことがある。祖父母は浩也がもう少し大きくなったら教えると言葉を濁した。
 母が行方不明になってから、浩也は妙なことが気になっていた。
 それは父の命日が十一月四日で、母のいなくなったのが十一月五日と似通っていることだ。藁をも掴む思いの浩也は、数日前に父方の祖父に電話でその事を話した。祖父は、「亮作が呼んだのかもしれなっしょ」とだけ言ってすすり泣いた。
 浩也はきっと祖父が気を落ち着けて、何か思い出してくれたに違いないと思った。
 加太の実家を訪れるのは久しぶりだ。
 大きくなった浩也を見て祖父は目をしばたたかせた。ニキビひとつ無い色白の肌、短髪に濃い眉毛が精悍に浩也の顔を引き締めている。祖母が目を潤ませて浩也を居間に招き入れた。
「今から話すことは誰にも内緒にしとけっしょ」
 祖父は腰を降ろすなり、神妙な面持ちで口を開いた。
「亮作は海で死んだんやしょ」
 浩也の眉がピクリと動く。母からは仕事場での事故と聞かされていた。
「それも、雑賀崎の沖や」
 えっ! と浩也は声を上げた。母の居なくなった場所と同じだ。祖父は懐かしむような表情で話しを始めた。 
 祖父は、亮作が高校を卒業する時、漁師を継がせたいと数百万円もする釣り船を亮作に買い与えた。だが、亮作は漁師になることを拒んだ。漁師では金持ちにはなれないと言うのが理由だった。亮作は、これからは企業だと言って紀ノ川河口に林立する住友金属に入社した。亮作は間もなく林重彦と言う男と出会う。林は九州の長崎県出身で、炭坑の閉山に伴い和歌山に出てきたとのことだった。この頃は各地で炭坑の閉山が相次ぎ、全国で炭鉱労働者の鉄工業への転職が起こっていた。林も多くの仲間と共に和歌山住金に転職した一人だ。
 釣り好きの林は亮作が釣り船を持っていることを知ると、釣りに連れて行ってくれと頼み始めた。亮作はあまり乗り気ではなかったが、林があまりしつこく頼むので一度加太の沖に釣りに連れて行った。林はたいそう喜び、お礼をしたいからと言って松江にある自宅に亮作を招いた。林の自宅は通称九州人街と呼ばれる地区で、九州から住友金属に働きに来た人たちが集まって住んでいるところだった。
 林家を訪れると、そこに亮作と同じ年頃の綺麗な女が居た。林の一人娘友子である。亮作は友子に一目惚れをした。翌日になると、今度は亮作の方から林に釣りに行くことを誘った。亮作の目的は友子にあった。亮作と林は釣りを通して懇意になった。そして、亮作は思惑通り友子と親交を深め結婚をした。
 浩也も生まれ三年ほど平穏な結婚生活が続いたある日、亮作から潜水士を紹介してくれと言う相談が祖父にあった。祖父は亮作が密漁でもするのではないのかと心配し目的を訪ねると、亮作は密漁ではないと笑い飛ばしたが結局目的は答えなかった。相談口調が終始楽しそうなので悪いことではないだろうと、祖父は親しい潜水士を紹介した。
それが亮作の亡くなる一月ほど前のことだった。
 丁度その頃、スーパーマーケットで祖父母は林重彦と出会した。亮作と釣りに行っていますかと尋ねると、相変わらず休みごとに行っているとのことで日常に変化はない様子だった。
 数日後、亮作の釣り船が無人のまま雑賀崎の沖で発見された。
 捜索から一週間後、埋め立て護岸のテトラポットに漂着して引っかかった亮作の遺体が発見された。死因は溺死。
 昼間には目撃情報がないことから、夜出航して転落したのではないのかと言うことだった。十一月と言えば、チヌの夜釣りの時期ではある。が、不思議なことに釣り道具は家に置かれたままであった。そして、相方の林には声を掛けていなかったのである。
 亮作は酒が好きだったので、船上で深酒でもして誤ったのかとも思われたが、体内からアルコール類は検出されなかった。亮作は何のために暗い夜に一人船を出したのか? 
 ひとつだけ気にかかるものが、亮作の着ていたジャンパーのポケットから見つかった。ホームセンターなどで売っているチャッカマンである。レバーを引くとライターのような炎が出る道具である。普通はポケットなどに携帯するはずのないものだ。
 水上警察も不思議がっていたが何のためのものなのかはわからなかった。少なくとも船上で必要なものではない。友子に訊いても全く見覚えのないものであった。
 結局チャッカマンは謎のままだったが、何かを解く鍵に鳴るほどの発見物には至らなかった。検死の結果は転落による溺死とされた。
 祖父は釣りではないと思い直ぐに潜水士のことを思い出し話を訊きに行った。
 潜水士は亮作が死んだことを聞いてたいそう驚き、祖父の問に潜水士は沈痛な面持ちで口を開いた。
 亮作からの相談とはなんと宝探しであった。
 潜水士は、江戸時代の海賊が隠した数十億円もの金銀宝を海底から引き上げて欲しいと亮作に頼まれたのだ。
 亮作は根拠となる宝の地図らしきものを持っていたという。
 潜水士は、あまりにも話が馬鹿らしいので直ぐに断った。亮作は何度も頼みに来たが潜水士は断り通したという。
 祖父は、自分の息子が宝探しの最中に不幸にあったなどと思いたくはなかったし、世間に知られたくはなかった。
 潜水士には、宝探しの話は誰にも言わずに忘れて欲しいと頼みこんだ。祖父は、その後の警察の事情聴取でも宝探しの話は一切出さなかった。
 祖父はそこまで話すと項垂れた。
「おじいちゃんなあ、浩也から電話もろうた時に亮作の事思い出してなあ、状況が似てるなあって思うたんやしょ。まさか友子さんまで同じ事をしてどうにかなったんやないのかと。でもおじいちゃん、そん時は浩也には言わんほうがええのやないかと思うたんや。後でおばあさんと話したら浩也ももう子供やないし、ワイらの知ってることは全部話ししといたらどうやろかということになってなあ」
 と祖父は目を潤ませた。
「うん、おじいちゃん、おばあちゃん話してくれてありがとう」
 浩也が頭を下げると、祖母はハンカチで目を覆った。
 浩也は母のフリースにあった古い紙を思い出した。
 祖父母の家を出ると、浩也はまたその紙を取り出した。はらりと黄色の付箋が風に舞う。浩也は慌てて付箋を拾った。さっき取り出した時には気付かなかったがポケットの中には付箋も入っていたのだ。
 拾い上げた付箋に浩也の目は釘付けになった。
 付箋にはボールペンで「十一月五日神無月四時、十一月十一日朝六時」と書かれている。間違いなく母の字だ。
 浩也は手が小刻みに震えた。
 十一月五日は、母が居なくなった日だった。
 浩也は、電車に乗り込んでからも、古びた紙に書かれてある文字や図を解読しようとした。ミミズの這ったような文字は古典の教科書で見たような文字だ。
 目を凝らすと「つむじ風」と「金」という文字だけが読み取れた。
 帰宅した浩也はパソコンに向い、インターネットの検索サイトに「つむじ風」と「金」の文字を入力した。
 すると「つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の埋蔵金」という項目が検索された。
 それによると、つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)とは江戸時代中期の人物で表の顔は廻船問屋、裏の顔は海賊と言い伝えられ詳しいことはわかっていないが、晩年、隠し持っていた財宝を友が島に埋めたとされていた。
 これまで盗掘を試みた者は、ことごとくつむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の呪いによって謎の死を遂げ、数十億円もの金銀宝は未だ手つかずのまま眠っているとのことだ。
 そこまで読んだ浩也はパソコンを離れ呆然とした。
 浩也にある推測が起こった。
 この古い紙は宝のありかを示した古文書に違いない。父は何らかのきっかけでこの古文書を手に入れ、宝の隠された場所に行く途中で不幸にあった。
 その時、母が父の動きや古文書の存在を知っていたのかどうかはわからないが、今度は母が古文書を手にした。
 スナック勤めを始めてから客の貴志隆三と言う男と知り合った。隆三が潜水士だということを知った母は、隆三に近づき宝探しを持ちかけた。
 そして、その最中に不幸にあった。
 つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の呪い、そんな非科学的なことがあるものかと思う一方で、浩也に言いようのない不安が広がった。母が何処に何をしに行ったのかは、古文書に書かれてある内容がわかれば判然とする。そして、それは十五年前の父の足取りとも一致するはずだ。
 翌日の放課後、浩也は再び貴志勇一を訪ねた。
 浩也はどんなことをしてでも、勇一の同意を取り付ける決意だった。確かめるには、船がなければ母の足取りはつかめない。
 玄関先に立つ浩也を見て勇一は顔色を変えた。
「ま、またお前かぁ」
「相談したいことがあります」
「なんやとおっ」
 この前の長髪とは打って変わって、短い茶髪にした勇一はいつか見た隆三とそっくりだった。浩也は複雑な気持ちを払拭するように話を切り出した。
「あの日お母さんとあなたのお父さんが何をしに行ってたのかわったんです」
「なっ、なんてぇ!」
 さすがに、勇一は驚いた顔で庭に出てきた。
「海の中に埋まった江戸時代の埋蔵金を探しに行っていたのです」
「はぁ、埋蔵金?」
 勇一は表情を一転させると笑い声を上げた。押し黙る浩也の前で勇一はひとしきり笑うと煙草に火をつけた。
「その場所にぼくを連れて行ってほしいのです」
「はぁ」
「私の母は見つかっていません。とにかくその場所に行きたいのです」
「お前年いくつや」
「高校二年です」
「お前テレビかマンガの見過ぎとちやうか。だいたい海賊の小判なんて」
 勇一は吸いかけた煙草を投げ捨てると、家の中に入ろうとした。
「本当なんです。つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)って海賊が・・・・・・」
 浩也が古文書を振りかざすと勇一の足がぴたりと止まった。
「お前今なんて言った」
 勇一は口をあんぐりと開けて振り向くと近寄ってきた。
「はい?」
「お前今つむじかぜのなんとかって、その後なんて言った」
 勇一はゆるり接近すると浩也を見下ろした。
「こ、剛右衛門(こうえもん)です」
「んん、コウエモン、コーエマ。こ・う・え・も・ん。こーえま」
 勇一は腕組みをして一人思案を始めた。
 浩也には勇一の仕草が何を意味するのかはわからなかったが、とにかく興味を持ってくれて良かったと思った。
「おい、お前その話ワイにもっとちゃんと話せ」
 浩也は、古文書を見せながらインターネットで調べたことを話した。勇一が食い入るような目で聞き入る。
「で、その紙どこにあったんや?」
 さっきの剣幕が別人のようだ。
「母のフリースのポケットです」
 勇一は考え込むように黙った。
「実はな、ワイのお婆が出航する前に二人に会ってるんやしょ」
「えっ、それはどこで」
 浩也はうつむいた勇一の顔を食い入るようにのぞき込んだ。
「船着き場や。まあ偶々出会したんやけどな」
「母とはどんなことをしゃべったんですか?」
 浩也が詰め寄ると、勇一は花壇の縁に腰を下ろした。
 その日の夕方、祖母はたまたま港の倉庫に忘れ物をして取りに行くと、そこで隆三と友子が連れだって隆栄丸に乗り込もうとするところに出会した。
 隆三は長い笹のついた竹を船に積むところだった。
 不審に思った祖母は、駆け寄ってそんな大きな笹竹を持ってこんな夕方からどこに行くのだと訊いた。だが、いくら訊いても二人は微笑むだけで答えない。
 祖母は、夜の海は危険だから止めてくれと何度も頼んだ。
「どうしても行くんなら、勇一を呼んでくるわしょ」
 と、祖母はたまらず声を上げた。
「気遣いないわしょ。コーエマの呪いさえなけりゃ極楽の生活さしちゃらあ」
 隆三は高笑いすると船のエンジンを駆けた。
 祖母は、隆三の発したコーエマと言う意味不明の言葉が頭に引っかかった。
 それっきり二人は帰ってこなかった。
 祖母は隆三のコーエマの呪いと言う言葉を思い出し、隆三が若い女に狂って気でも触れたに違いないと嘆いた。そんな話を誰にも言うことができず、一人孫の勇一だけに打ち明けたのだ。
 勇一もコーエマという不可思議な言葉に首をひねった。祖母の聞き間違えではないのかと何度も訊き直す。
 祖母は、ひょっとしたら「コーエム」だったかもしれないだとか、あるいは「怖(こ)ええもん」と言ったのかもしれないと狼狽えるばかりだ。
 勇一は、コーエマという言葉を図書館にまで行って調べたが、該当するものはなかった。友人にインターネットで調べてもらってもわからなかった。
 大きな笹竹を船に積み込んでいた親父は一体何をしようとしていたのか。
 近所の酒屋で缶ビールを二箱も買い込んだばかりの親父が自殺などするはずがない。コーエマという言葉に親父が逝った原因が隠されている。勇一は、そう思って調べを続けたが手がかりすら一切得られなかったと言うことだ。
「さっきお前がつむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)って言うたやろ、ワイにはつむじかぜのコーエマってはっきり聞こえたんやしょ」
「そうだったんですか」
 勇一も父が自殺ではないと信じて調べ続けていた。見かけは荒くれだが、親を想う気持ちは一緒なのだ。と、浩也は勇一のイメージが少しだけ変わった。
「勇一ちょっと手伝ってよ」
 玄関から女が出てきた。この前、浩也にフリースを渡した女だった。女は浩也に気がつくと慌てて会釈した。
「アネキ、親父は宝探しやったみたいやで」
 勇一は鼻で笑ったが目は潤んでいる。
「宝探し?」
 勇一からアネキと呼ばれる女が怪訝そうな顔で近寄ってきた。
 浩也が話を始めると、女は口元を歪めじっと耳を傾けた。全て聞き終えると女は踵を返した勇一を見た。
「でも、もう終わった話やしょ」
 背中を向けたまま勇一はポツリと言って玄関に進んだ。
「ボクはっ、ボクのお母さんはまだ終わってません」
 浩也が声を上げる。勇一が一瞬背中を向けたまま止まった。
「もう、生きてるわけないっしょ」
 勇一はそう言うとまた足を出した。
 とっさに女が勇一に駆け寄って回り込む。
 パンッ!
 乾いた音とともに勇一の巨体が揺らいだ。
「あんた、なんでいくつになっても人の気持ちがわからんねっ」
 女は手を挙げたまま勇一を怖い目でにらみつけた。
 勇一がぶたれた頬を片手で押さえたままうつむく。
「行ってやりな。この人を連れて精一杯のことをしてやりなっ」
 勇一は頬を押さえたまま丸めた背中を揺すった。それは、頷いているようでもあり泣いているようでもあった。
 三人はしばらく黙った。近所の子供らが大声を上げながら走っていく。勇一はトボトボと花壇の方に戻って腰を下ろした。
「あの、笹のついた竹っていうのは?」
 浩也が口を開いた。
「昔、浅場で餌の海老を捕る時にやりよったこともあるけんど今頃やるもんはおらん。後考えられるんは海底の位置出しやな」
 勇一はうつむいたまま答えた。
「海底の位置出し?」
「ああ、潜る所の位置の目印として沈めとくんや」
「・・・・・・」
「で、お前その場所どこかわかったんか?」
 勇一がゆっくりと顔を上げて訊いた。
「それが、全然解りません」
 浩也古文書を広げた。女が寄ってきて覗き込む。
「アネキ、学校出ちょったらなんて書いてるかわからんのか?」
 言って勇一はまたうつむいた。この女は勇一の姉らしい。
 姉は怪訝そうな顔で古文書に目を落とした。
「なんなんこれ?」
「それがさっぱりわからないのです」
 と浩也は姉の手に古文書を渡した。古文書には小さな三角や丸、大きな半円などがミミズの這った文字に囲まれるように記されている。
「なあアネキ、知り合いとかでそんなんに詳しそうなのおれへんのか」
 と勇一が顔を上げた。
「うん、黒江の鈴木ならなんとかなるかもしんないわ」
 姉は独り言のように言った。
「それって友達かあ?」
 勇一は煙草を取り出した。
「高校の時の同級生よ。実家が民芸品店で、お父さんは結構名の知れた鑑定士やって言ってたわ」
「そ、その方にぜひ」
 と、浩也が言うと姉はしっかりと頷いた。
「早いほうがいいんでしょう。今からちょっと連絡取ってみるわ」
 と姉は家の中に戻っていった。
 勇一は浩也に古文書を手渡すと、煙草に火をつけた。未だ未成年のはずだが何の躊躇もない。浩也は黙ったまま目をそらすように庭を見渡した。剪定されたつげの所々から枝が飛び出ている。いつも隆三が剪定していたのかもしれない。勇一がそんなことをすることもないのだろう。足下にいくつか煙草の吸い殻が落ちているのは勇一のものに違いない。思う端から、勇一が煙草の吸い殻をポイ捨てした。落ちていたものと同じ吸い殻だ。
「アネキのやつ遅せーなー」
 と勇一が独り言を言う。
 姉が携帯を持ったまま出てきた。
「今からでもいいって言ってるけど?」
「えっ今からか」
 と返す勇一の横で、浩也は首を縦に振った。
「じゃあ、今から行くわ。そうやなあ半時間ぐらいやから二時前ぐらいになると思うわ」 そう言って、姉は携帯をたたむと浩也と勇一の顔を交互に見た。
「あたしは鍵取ってくるから。勇一、出るまえに灯油缶だけ倉庫に運んどいてや」
 勇一は、素直に「んー」とだけ答えて家の裏に消えた。
支度が出来た姉は黒の軽四を家の前に出した。
 助手席に勇一が、後部座席に浩也が乗り込んだ。ボンネットにピンクの猫の縫いぐるみが置かれ、ルームミラーからは派手なウサギのアクセサリーが吊られている。甘い香水の匂いが鼻をついた。姉の泣き疲れた顔と車内の鮮やかさとのギャップが、隆三の死の突発性を表しているようだ。勇一が煙草を取り出すと、「禁煙やで」と姉が釘を刺しす。勇一は無言で煙草をしまうと、CDデッキのボタンをさわり始めた。CDが入っていなかったのか、今度はCDケースをしきりに捲っている。
「アネキってろくなCDないなあ」
 そう言って、勇一は選んだ一枚をデッキに挿入した。突然エレキの大音響が鳴った。とっさに姉の手が伸びる。
「あんたなー、お客さんおるんやからじっとしときいや」
 勇一はふてくされて座席に深く身をもたせた。車は、密集した家に挟まれたすれ違いも出来ないほど狭い道をすいすいと進んだ。踏切を渡ると道が大きくなった。
「お前高校どこや?」
 勇一が振り返って訊く。
「K校です」
「すげーお前かしこいんやなー」
「あそこって毎年東大に何人も通ってるんでしょう」
 今度は姉がデッキの音量を下げながら言った。
「来年受験なんでしょう?」
「ええ、でも・・・・・・受けません」
 姉は小さな声で、「そう」とだけ言った。
「K校やったら高卒だけでも凄いやんか。なんぼでも働き口あんで」
 勇一が言うと、姉もこっくりと頷いた。
 三人は暫し黙った。
 浩也はポケットから古文書を取り出すとまた眺めた。
 母と隆三もこの古文書を何度も眺めたことだろう。そして解らずに、自分たちと同じように誰かを訪ねたのだ。父も同じく解読に奔走したはずだ。
 今、自分も同じ事を繰り返している。それも、あれほど嫌いだった隆三の息子らと一緒に。
 この一枚の古文書は、これまでも人を替えながら同じ行いをさせてきたに違いない。誰一人として最後までたどり着かせることなく、ただ災いだけもたらすために。
 つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の呪い、本当にそんなことがあるはずはない。
 父も母も偶然不幸に巻き込まれたのだ。いや、母は生きている。友が島での大規模な捜索は行われたが、それ以外の場所に立ち寄って母はどこかで取り残されているはずだ。浩也はそう信じて古文書を見た。
 黒江は和歌山市南隣の海南市にある。
 車は、国体のために整備された広い道路を進み海南市に入った。毛見のトンネルを抜けると、黒江の漆器と書かれた大きな看板が現れた。
「おっ黒江って書いちゃらあっしょ。その下なんて読むんや?」
 勇一の問に「シッキ」と姉が答えた。
「シッキぃ? 何やねそれ」
 首を傾げる勇一に姉は即答できず少し間を置いて、「ほら、お椀とかよ」と言った。
 浩也は漆器を知っていたが、確かに漆器を勇一に言葉で理解させることは困難だ。
「へー、お椀のことシッキって言うんか。知らんかった」
 勇一はお椀と聞いて興味を削がれたのか、CDケースをめくり始めた。
 道が突然狭くなり、車はスピードを緩めて路地を這うように進んだ。
 黒江は時代を感じさせる古い町並みだ。古くは熊野霊山への入り口と見なされ熊野古道として親しまれた。また、江戸時代には漆器の街として栄え全国に黒江の名が知られている。
「ここの漆器はもともとは根来寺からきたんやんか」
 姉がさらりと言った。
「えっおじいちゃんとこの」
「そうよ、あんた小さい頃おじいちゃんから何回も聞かされてたやん」
「そうやったっけなー」
 紀ノ川沿いにある根来寺は鉄砲伝来でよく知られている。この寺を豊臣秀吉が焼き討ちした時、多くの漆器職人が全国に逃げ散らばったとのことだ。
「輪島塗かて根来から逃げ延びた職人が始めたんや言うてたやん」
「へー、アネキくわしいんやな」
 勇一は選んだCDを入れ替えると、座席に深くもたれた。
 黒江の通りは、格子戸が張り付いた低い家が並び白い提灯が所々に吊されていた。車は歩くほどの速度になった。
「もうすぐか?」
 姉はウンと言って、ハンドルにしがみつくように前屈みで慎重に車を進めた。
 窓外の風景に浩也は変なことに気がついた。
 通りがまるで鋸の歯のようにギザギザになっている。家が道に平行ではなく斜めに建っており庭や駐車場が三角形なのだ。
「なんか家が全部斜めに建ってますね?」
 浩也は姉の背に問いかけた。
「ああ、これね。結局どうしてかはわからないみたいですよ」
 専門家の研究でも結局わからないとのことだ。
 大八車を止めやすいように斜めに車庫をつくったという説や、この辺りがもともと干潟で潮によく浸かったので潮が引きやすいようなつくりにしただとか、この鋸状の通りには諸説あるらしい。
 姉が説明を続ける内、座席に埋もれていた勇一も体を浮かして家並みを眺めた。
「ここや、着いたで」
 大きなガラスの引き戸に鈴木民芸品と白字で書かれていた。
 ガラス戸越しに大きな壺や置物が所狭しと並んでいる。車はそのまま行き過ぎて、家の裏の空き地に止まった。
「ユウコォ」
 車から降りると、姉は家の裏の二階に向かって声を上げた。二階のサッシが開いて若い女が顔を覗かせた。
「早かったね」
 短髪でふっくらした顔の女が覗いた。
 度のきつそうな黒縁の眼鏡を掛けている。姉は慣れた様子で勝手口から入った。浩也と勇一も後に続いた。
 中に入ると黒っぽい作務衣を着た白髪男が居た。白髪は天然なのか縮れている。背は高くないが、二重顎に合ったふくよかな体躯で足下は素足だ。
「おおリエちゃんかすっかり大人になったなあ」
 男は目尻に皺を寄せ笑顔をつくったが、直ぐに口元を結んだ。
「お父さんがほんまに大変なことになったなあ。何でも手伝えることがあったら遠慮無くユウコに言うてよ」
 そう言って男は居間に三人を招いた。
 ユウコがコーヒーとお菓子を持って入ってきた。姉が早速古文書の件を切り出した。白髪男は鼈甲の眼鏡を外すと、浩也の差し出した古文書に顔を近づけじっと見入った。
「そうやなあ三十分ほど時間くれるかな。ユウコ、資料館にでも連れてっておやり」
 男は顔を上げるとまた眼鏡を掛けた。
 三人は、ユウコの案内で近くの酒造りの資料館に行くことにした。
 細い路地を五分程歩くと資料館に着いた。「温故伝承館」と言う看板が掛かっている。 ユウコの説明では、創業百三十年の「名手酒造店」が、実際精米所として使っていたところを資料館に改造したとのことだった。
 中にはいると酒製造器具や道具が所狭しと展示され、大型の精米機や酒槽がそのままの状態で残っていた。酒販用ポスターや蔵人の生活用具も展示されており、当時の生活文化がうかがえる。
 勇一は、一人早足で資料館を見て回ると外に出て行った。浩也ら三人が資料館を出ると、勇一は向かいの酒造店のテーブルで、冷や酒をあおっていた。
「あんたなあ」
 姉の剣幕にも勇一は苦笑いだ。ユウコも目を丸くしている。ほろ酔い加減で店の主人と知り合いのように話している。
「なあ、親父にこの黒牛買うていっちゃろうや」
 勇一がビール瓶ほどの大きさの酒瓶を掲げた。黒牛とは名手酒造の代表酒である。姉は急に怒った顔を緩めると、黒牛を一本購入した。隆三が無類の酒好きだったのだろう。
 骨董品屋に戻ると宝の地図の解読がほぼ終わっていた。
 白髪男は、四人を座敷に上げて説明を始めた。ほろ酔いの勇一は、三人の後ろで肘をついて壁にもたれた。
 古文書は江戸時代のものだった。寛政十一年神無月の夜に、つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)が自らの財宝を海に投げ入れ隠匿したと書かれてあった。古文書が正しければ、財宝は言い伝えられている友が島ではなく海の底に眠っていることになる。
「古文書に記載された金銀宝を時価に換算すると数十億円にも上ります」
「すっ、数十億円!」
 と、勇一が壁にもたれた身を起こした。
「ええ、でも財宝を投げ入れた場所ははっきりとはわかりません」
 白髪男は古文書と自分の書いた説明の用紙をみんなの前に広げた。
 簡単な図が記されてあるが、消えかかって判然としない。見ようによっては、和歌山の海岸線を上空から見たような形にも見える。特に、向かって左に伸びた天狗の鼻のような図とその先にある大小の半円二つ。
「この天狗の鼻は和泉山地から連なった加太岬で、その先の大小の半円二つは間違いなく友が島でしょう」
 白髪男は確信めいていった。
「そしたら天狗の鼻の下に平行に伸びる線は紀ノ川ですか」
 浩也が言うと白髪男は頷いた。姉のリエも覗き込む。
 その紀ノ川の直ぐ下には十円玉程の円が書かれており、円の真下にはそれとほぼ同じ大きさの三角形が書かれてある。白髪男は、三角形の横に添えられた文字を指さした。
「神無月に虎の伏す、そう書かれています」
 白髪男はみんなの顔を見渡した。いつの間にか勇一が前のめりで首を突き出している。
「おそらくこれは和歌山城と満月を示しているものだと思います」
 リエだけが理解したように相槌を打つ。
和歌山城は別名虎伏城と呼ばれている。
 それは、城全体の形が虎が伏したように見えるからだ。つまり、図の三角形は和歌山城の天守閣、その上の円は神無月の満月を示したものだという。
「もう一つがさっぱりわかりません」
 白髪男は両手を大げさに広げた。
 天狗の鼻の先にある大小の半円は、向かって左が大きく右が小さい。正確には両方の円が接したところでやや重なっており、ひょうたんを立てに割って寝かせたとような形だ。
 白髪男はこれは友が島に違いない、というがそこで首を傾げる。
 これがね、と言って半円の交わったところに指を置いた。
「このシミみたいなの」
 半円が接したところには米粒ほどの塗りつぶしが縦に並んでいる。
「最初は、単なるシミだと思ったんですがね、拡大鏡で見るとどうやら意図的に描かれたもんなんですよ。これが何を示すのかさっぱりわかりません」
 と言って今度はその横の文字を指した。
「それとこれ。二匹の狐出会うたりって書かれてます」
「二匹の狐出会うたり」
 勇一がゆっくりと反復した。
「これが解れば宝の埋まっている場所が明らかになります」
 浩也は息を飲んだ。ただ、何故明らかになるのかは解らなかった。
「そ、そんなんでどうしてわかるんや」
 勇一が訊いた。
「山立てですよ」
 白髪男がにやりとするが早いか、ぬあーっと勇一が奇声を上げた。
「や、山立てぇ」
 勇一の横でリエがえっと小さく言った。
「山立てって漁師の子しか知らんかなあ」
 白髪男が口元を緩めてユウコを見る。ユウコは首を斜めに傾けるだけだ。
「山立てって何です?」
 浩也が白髪頭に訊くと後ろから勇一が説明し始めた。が、よくわからない。
「勇一、それじゃあわからへんわ」
 リエの言葉に勇一は口を尖らせた。
 白髪頭はやおら立ち上がると、傍にあったペン立ての中からボールペンや色鉛筆を取った。四本用意すると、ユウコに二本持たせた。
「こうやって、自分の目の前にボールペンを一本ずつ持って前後に立てて」
 白髪男がお手本を見せるとユウコも真似た。白髪男とユウコは立ち上がって部屋の端と端に移動した。
「いいかい、私の二本の色鉛筆が重なってひとつに見えて、なおかつユウコの二本のボールペンが重なってひとつに見えるところに立ってみなさい」
 白髪男は部屋の真ん中に座っている浩也に言った。
 浩也は言われるとおり、白髪男の鉛筆とユウコのボールペンを何度も振り返りながらうろうろと部屋の中を移動した。
「ここです」
 と浩也は立ち止まった。
「もう解っただろう。海で言うと君が船だよ。私の鉛筆は陸上に立つ煙突、ユウコのボールペンは二つのビルとでも思ってくれ」
 浩也は口元を緩めて頷いた。
山立てとは、漁師が陸の目標物を頼りに船の位置を定める方法だ。
 たとえば陸の目標物を煙突とする。
 二つの煙突が重なって見える延長線は海上に一つしかない。その時、別の方向でビルとビルが重なって見えたとする。二本の煙突も重なり二つのビルも重なって見える場所は、海上にたった一点しか存在しない。
「ワイは加太岬の木と雑賀崎の突端の岩での山立てを親父から教えてもろうてた。アワビのようけ取れるところやった。それが、開発で岬の山が削られて山立てができんようになったんやしょ。正確なGPSが出来たから言うても、結局昔から引き継いできた漁場は山立てでしか語り継がれてないんやから探すまでが一苦労なんや」
 と言って勇一は古文書を手に取った。
 古文書が山立てを表しているとすれば、和歌山城の真上に満月が乗り、同時に友が島で
狐が出会った所に財宝が眠っていることになる。
「でも友が島に狐なんておらんやろぉ?」
 勇一がリエに問いかける。
「狐ったって何かを暗示してるのよ。岩とか木とか」
 リエは正座したまま背筋を伸ばして腕組みをした。
「でも神無月って言うたら夜でしょう。夜に見えるんかな」
 ユウコが言う。
「満月の夜やったら見えるんじゃないですか」
 浩也は勇一の方に顔を向けた。
「無理やしょ」
 夜海に出たことのある勇一はにべもない。
「そしたら早朝か夕方の薄暗い時じゃないの」
 ユウコが言う。
「早朝は月は西よ。東は夕方出た時やわ」
 リエの言うとおり海から見て城は東にある。
「おいおい明るかったらつむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)さまは、莫大な財宝を隠すところを地元の漁師や誰かに見られるんとちやうか。誰にも見られん暗い時やないとあかんやろぉ」
 勇一はからかうようにリエを見ると庭の方に出た。
 白髪男は腕組みをして考え込んでいる。
 勇一は煙草をくわえるとポケットをまさぐり始めた。ライターが見つからないようだ。
「あのぉすいません、ちょっと火ぃ貸してもらえません」
 片手を切って覗く勇一をリエがにらみ返した。
「なるほど、わかったっ」
 白髪男は腕組みをほどくとにんまりと笑った。
 皆が白髪男に振り返る。
「火ですよ、火ぃ」
 白髪男はみんなの顔を見まわした。
「あっ」
 浩也が声を上げる。
「狐の送り火」
 リエとユウコが顔を見合わせて言った。
 勇一がくわえ煙草を外し、口をポカンと開けた。
 思いついてみれば当たり前のことだった。古文書には、半円が接したところに米粒ほどの塗りつぶしが縦に並んでいた。それは間違いなく、つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)が家来に焚かせたかがり火だろう。
 暗闇の海で、友が島方面の二つのかがり火が縦に並ぶ。そのかがり火を縦に並ばせた状態で南進し、和歌山城の上に満月が乗ったところで船を止める。
 当時、和歌山城は夜中でも灯がともり明るかったのではないのか。あるいは、満月なら白光して見えたのかもしれない。
 船術に長けたつむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)は、夜の海から見える四つの明るい目標物をあらかじめ想定していた。
 莫大な財宝を陸に埋めようとすれば、数人の家来を要し盗掘のリスクが高まる。海ならば財宝を家来に船に積み込ませ、暗くなるまで出航を待てばよい。後は、目的地に行って海に投げ込むだけなのだ。労せずともやがて紀ノ川の土砂が埋めてくれる。こんな楽な埋蔵方法は他にない。
 ただし、この場合でも山立てを知っている家来なら、かがり火を焚いた四カ所さえわかっていれば宝の在処がわかる。
 だから、四つの目標物の内二つは、家来に用意させなくても明るく見通せるものでなければならなかった。
 江戸時代の夜、和歌山沖からでも確認できた陸の目標物。それが和歌山城と満月だったのだ。
 皆の推測はほぼ一致した。
「ほんまに親父はそんな事しに行ったんかいなあ」
 勇一があぐらをかいて項垂れた。リエも口を真横に結んだ。
 浩也は、あの晩の目映いほどの満月をはっきり覚えていた。母と隆三があの満月を頼りに、古文書に記されている山立てをしようとしたに違いない。それに祖父から聞いた父のチャッカマン、これもかがり火に火をつけた道具に違いない。
「あのぉ、この端にも何か書かれてますよね」
 リエが古文書を指さして訊いた。古文書の左端にミミズの這ったような文字が二行書かれている。
「まあ、これを書いた者が財宝が盗掘されるのを牽制するために書いたものでしょうが」
白髪男はそう言って少し口を歪めた。
「なんて書いてあるんですか?」
 浩也が訊いた。
「財宝に手をつけし者、剛右衛門(こうえもん)の呪いにより末代まで地獄へと堕ちる」
 白髪男は、カチャカチャと音を立ててコーヒーをすすった。浩也の眉間にしわが寄る。その後ろで勇一が舌打ちをした。
「けっ、昔の野郎がいい加減なこと書きやがってよ」
 勇一は首枕をして寝っ転がった。
 この文章の解説をしなかったのは、白髪男が自分たちの心情を気遣ってのことだろう。 重苦しい場の雰囲気に浩也らは暫し押し黙った。白髪男は、冷めたコーヒーをわざと音を立ててすすっているようだ。
「ただ・・・・・・」
 と、白髪男は何かに気付いた表情で腰を上げた。
 部屋の隅の書棚を探ると小さな冊子を取り出した。
 表紙には平成十七年の旧暦と書かれてある。白髪男は忙しく捲るとある頁を開いて首を小揺すりした。
「今年の神無月は十一月ではありませんよ。今年は旧暦の閏年にあたります。閏文月があり、神無月は例年より一月遅れの十二月上旬になります。」
 白髪男は新暦と旧暦の違いや閏年をたとえて旧暦の閏文月の説明をした。
 が、浩也は直ぐに理解できない。リエや勇一も首を傾けて聞き流しているだけだ。
「一月ずれると場所が大きく変わるんですか」
 説明が終わるのを待ちかねたように浩也が訊く。
「多少変わりますがそんなに大きな差ではありません。計算も出来ますよ」
 白髪男は皆の顔を見渡しただけでその説明はしなかった。
「親父らの行った日は違う日やった言うことか」
 寝ころんだまま勇一が言う。
「断定は出来ません。古文書に書かれている神無月が、今ここで私達が特定した満月とちゃんと合っているかどうかはわりません。まあ一月二月のずれはあっても、とにかく神無月の頃には違いないでしょう」
 白髪男はそう締めくくった。
「神無月の頃」
 と、浩也は白髪男の目をしっかりと見返した。
 鈴木民芸品を出ると既に陽が傾いていた。
「やっぱりユウコのお父さんはすごいわ」
「あのおっさん何者やねん。ただの鑑定士やなしに学者みたいやんか」 
 勇一が助手席に身をうずくめたまま言う。
 リエの話では近畿の有名国立大学で数年前まで研究員をしていたそうだ。
 車が国体道路に差し掛かった。渋滞で車が全く動かない。
 間違いなく母と隆三は宝探しに船を出した。
 十一月五日、加太の漁港を出航した二人は、いったん友が島に上陸し何らかの方法で火を焚いて離島し船を南進させた。
 そして、和歌山城に神無月が乗ったところでエンジンを止め、錨を降ろそうとしたところで何らかのアクシデントに遭遇し海に転落した。予定通り事が運んでいれば、付箋にあった六日後の十一月十一日に潜水して宝を探すことになっていたのだろう。
 浩也の頭の中に、その日の情景がうっすらと浮かんできた。
 浩也はとにかく母と同じ経路を辿りたいと思った。
 同じ行動を取れば、母の手がかりが得られるかもしれないし、母の気持ちもわかってくるような気がした。
 母だけでなく、十五年前海に散った父の事も同様にわかるのではないのか。浩也はじっとしておれなくなった。積もっていた焦燥感が、古文書の解読によって一挙に加速した。後は船を持っている勇一に頼るしかない。
 浩也は勇一が言葉を発するのをじっと待った。
「で、どないすんやしょ?」
 勇一が後ろに首を振る。
「ぼく明日学校休みます」
 浩也は待ちかまえたように答えた。
「明日船出せってかよ」
「昼間に下見が必要です」
「私も行くわ」
 リエが運転をしながらポツリと言った。
「アネキ、大丈夫なんか?」
 勇一が身を起こして訊いた。
「久しぶりやし。船に乗りたいんや」
 勇一は猫背になると、また座席に身を沈めた。
「じゃあ九時やな。朝の九時に西脇漁港に来いや」
 勇一にとっては二週間前に父親が死に至った経路を辿るのは、辛いだけで何の意味もないのかもしれない。
 勇一は自分のために付き合ってくれているのだろうか。それとも、数十億円もの財宝が気に掛かっているのだろうか。リエはどうなのか。
 正直、自分とて数十億円もの大金が気にならないわけではない。が、こんな状況でも金は有るに越したことはないと思う自分が疎ましくもある。
 今は母を想う気持ちだけで行動しているが、気持ちが一段落した後で古文書の存在を知ったとしても、やはり誰かに相談を持ちかけていただろうか。
 大金は人間の行動原理をあっさりと支配してしまう。大金のために衝動的殺人を犯してしまうことなど日常茶飯事として報じられている。
 父や母が大金に目がくらんだとは思いたくないが、このことが原因で不幸にあったのは事実だろう。
 そんなことを思いながら、浩也はハッとした。
 まさか・・・・・・。
 隆三や母が誰かに殺められた可能性だってあるのではないか。
 同じ宝を探していた者がいないとは限らない。
 昨日までは自分しか知らなかった宝の地図を、今は自分以外の四人もの人間が知っている。それも自分とは顔見知りでも親しい人間でもない。
 昨日今日会った人間たちばかりだ。数十億円もの大金を前にして、裏切りや抜け駆けなどあるのが当たり前だ。
 勇一やリエが何を考えているのか、白髪男やユウコは見たとおり善人なのか。
 浩也は唇を軽く噛んだ。
 翌日、浩也は西脇漁港に向かった。
 勇一は既に隆栄丸に乗り込んで出航の準備をしていた。
 隆栄丸は、所狭しと並ぶ漁船の中でも大きい方だった。定員五名とある。
 船体周囲には車のタイヤが取り付けられてあり、中央からやや後方にガラス戸の付いた小さな操船室があった。
 そこから船尾にかけとはテント生地が屋根のように張られている。操船室の両側から長いアンテナのようなものが数本立っており、小さな旗が巻かれていた。
 浩也は、これが母が最後に乗った隆栄丸かと胸が締め付けられる思いになった。
 勇一が、顎をしゃくって浩也に乗船を促す。リエが躁船室から顔を覗かせ会釈すると、忙しそうにロープをたぐり始めた。
 この姉弟は小さい頃から隆三に連れられてこの船に乗っていたのであろう。
 浩也は隆栄丸に飛び乗ると、船縁にしゃがみ込んで木造の船体を撫でた。木製の船縁は朽ちた表面が丸みを帯び、その上に塗られた白いペンキが塗りたてのような光沢を放っている。
 隆栄丸は突如大きなエンジン音を発した。下腹に響くエンジンが体内の血液まで揺さ振ったのか、浩也の顔は紅潮した。
 船はゆっくりと離岸すると、鏡のような水面に波紋を広げて滑り出した。
 港を出て視界に外洋が開けたかと思うと、船は舳先を友が島に振って速力を上げた。
 青い海と空の間に、島とは思えないほど大きな淡路島が居座っている。その左手へと伸びる水平線は地球の曲率をくっきりと表していた。
 海原を半時間ほどつききると、隆栄丸は友が島の南側に達した。
 友が島は、西側の沖の島と東側の地の島の二つの島から成り立っている。南側から北側に位置する両島を望むと、向かって左手に沖の島、右手に地の島がある。
 沖の島の方が少し大きい。お互いが隣接する側は、沖の島が奥の方に引っ込み地の島が前面に出っ張っている。
 従って、船の位置を右手の地の島側に進めるほどに両島が接近するように見えてくる。
 隆栄丸は、スピードを緩めてまず沖の島の東端へと接近した。
 目の前に、沖の島の断崖が落ちてきそうに迫り上がっている。
 断崖からの返し波が隆栄丸を繰り返し突き上げる。
 不気味なほど青澄んだ海水は、競り合う大岩にぶつかって轟々と白く砕けていた。
 隆栄丸を塩辛い気泡が包む。もはや立っていられない。浩也は、塩辛い唇を舐めるとしゃがみ込んだ。
「お、おいっ」
 勇一が目を剥いて断崖の一角を指さした。
 その方向には、生い茂る樹木を突き破って巨大な岩が東に剥き出ていた。
 その岩にしか気付かない浩也に、勇一ほどの驚く顔は現れない。
 しかし、目を細めてじっと岩を望んでいたリエまでもが、驚きの表情に変わった。
「鉄筋やあっ」
 勇一の大声が風に流される。
 船が波で押し上がった時、浩也の目に鉄筋でつくられた冷蔵庫ほどの箱形の物体が見えた。その中から何本かの黒い木の燃えかすのようなものが突き出ている。
 三人は交互に顔を見合わせた。
 これがかがり火なのか。無人島に不自然に置かれた人工物。
 古文書の山立てのことを知らぬ者が見かけても、全く見当などつかないだろう。
 つくったのは隆三か、それとも十五年前の自分の父なのか。火をつけたのは母なのか。
 かがり火の根拠を目の当たりにして、隆三や母が宝探しをしたということがいよいよ現実味を帯びてきた。
 三人は暫し呆然と鉄筋籠を眺めた。
 勇一は、鉄筋籠をしっかり見届けると腰を落として忙しく舵をきった。
 隆栄丸が舳先を東側の地の島に向け速力を上げる。
 地の島は沖の島と向かい合う側はほとんどが岩場だ。海鳥が同じ方を向いて風に耐えている。隆栄丸が近づくと、海鳥たちは強風に煽られて紙くずのように散っていった。
 岩場には朽ち果てた松の残骸が枝を広げ、夥しい流木の山が積もっている。
「あ、あそこに」
 浩也が大声で指す。
 こちらにも同様の鉄筋でできた籠があった。勇一が隆栄丸のエンジン音を上げる。
 古文書によると、沖の島と地の島のかがり火が出会った所が一つの見通し線となる。
 その見通し線を沿って南に進み、和歌山城の真上に満月が差し掛かったところに財宝は眠っている。
 隆栄丸は東進した。
 徐々に、沖の島と地の島が接近する。浩也は沖の島の鉄筋籠と地の島の鉄筋籠を交互に見ながら縦に並ぶ地点を待った。
 中瀬戸からの強い下げ潮で船が揺れまくる。まるで大河を横切っているようだ。
 三人はろくな示し合わせもしていないのにお互いの役割がわかっていた。船の艫からじっくり友が島を眺めることの出来る浩也が、鉄筋の籠が縦に並ぶところを知らせなければならない。
 勇一が、鵜の目鷹の目で岩礁を避けながら舵をきる。その間にしゃがむ伝達役のリエが、浩也と勇一を忙しく交互に見る。
「もう少しです、もう少し」
 浩也がリエに向かって繰り返す。
「で、出会いましたぁ」
 船縁にしがみついたまま浩也が叫ぶと、リエが勇一に駆け寄って耳元で反復した。
 勇一が慌てて舵をきる。隆栄丸は大きく左に傾き舳先を南に振った。隆栄丸が速度を上げる。
 揺られながら、浩也は遙か太平洋へと続く紀伊水道を遠望した。
 光の粒をはじく海面を眺めるうち、妙にすがすがしい気持ちになってきた。海は何もかもをいやしてくれる目に見えない粒子を発しているのかもしれない。
 母も隆三に船に乗せてもらって何度となくこの気持ちを味わったのだろう。
 父が亡くなってからずっとふさぎ込みがちだった母。
 今から思うと、母が貴志隆三という男と出会ってから明るく生き生きしていたのは、この茫洋たる海原を眺めたからなのかもしれない。
 勇一は、直ぐに山立ての要領を得た。しきりに振り返りながら鉄筋籠が縦に並ぶ見通し線上を器用に南進する。
 加太の半島を過ぎたところで、住友金属の溶鉱炉が見えた。
 その遙か向こうに和歌山城が微かに見えたが、まだ山立てが出来る大きさではない。
 リエが地図を広げた。
 かがり火の見通し線は埋め立てる以前の海岸線とほぼ並行だ。船が住友金属の魚釣り公園に差し掛かる。ここまで来ると、和歌山城がはっきり見えだした。隆栄丸はエンジン音を落とした。
「この辺りから雑賀崎までやしょ」
 そう言って、勇一は和歌山城の方をじっと見据えた。
 浩也は手摺りを伝って、勇一の立つ躁船室の方に移動した。
「ここらは深いんですか?」
「航路で深いんやしょ。掘ってないとこは埋まって浅いけどよぉ」
 勇一はやたら詳しい。隆三から教わったのだろうか。
「ワイはな、学校は中学しか出てへんけど港湾のことはくわしいんや。親父について潜りやっとったからな」
「潜りって?」
「潜水士のことや。親父は潜ってこんな大きな石を平らに敷いたりしてたんや。ワイは親父に替わって二年前からやけどな」
 勇一は両手を広げ豪快に笑った。
 てっきり漁師だと思っていたのに、と意外な顔をする浩也に勇一は話を続けた。
 加太から雑賀崎までの間は紀ノ川の扇状地で、港湾開発によって大型船のための航路を掘っている。底は巨大な溝のように深い。それ以外の海底は、河川からの土砂が海に堆積して表面は浮泥だ。細かく軟らかな土で歩くこともままならない。
 勇一は、真っ暗な海底で何度も腰まで埋もれ、空気調節でなんとか脱出したが生きた心地がしなかったと言う。
 更に海底には夥しいゴミが堆積しているとのことだ。
 河川は出水時に、土砂だけでなく大量のゴミも排出する。浮泥に埋もれた自転車に足を取られたり、ワイヤーロープに絡まったりと潜水士は命がけだ。
「まあ二百年以上も前やったらどんだけ埋まってるかわからんわしょ」
 勇一はまた舵を握った。
 防波堤に沿って少し南進すると、南海電車の和歌山港駅に隠れ和歌山城は見えなくなった。南海電車は土手の上にある。むろん江戸時代には南海電車はないが、そこには松原が広がっていてやはり見えなかったはずだ。
 和歌山城が確認できたのは、住友金属の埋立地の西端から本港地区防波堤の北端付近までだった。
 和歌山城が見えなくなると、隆栄丸は雑賀崎の沖でUターンした。
 リエが頭を下げて合掌するのを見て浩也も合掌した。船は一定の音量を上げながら、西脇漁港に向け一直線に進んだ。
「けっこう船に強いんやね」
 リエが艫に座る浩也に近寄って声をかけた。
「一応酔い止めを飲んできました。でも、ちょっと酔ってますけど」
「実は私弱いのよ」
 リエははにかんだ。
「なんか全然平気そうですけど」
「皮肉なもんやわ。何で酔わへんのやろ」
 リエはため息をついた。
 浩也は座ったままリエを見上げた。リエの短い髪がパサパサと風になびく。近くで見ても、隆三に似たところはどこにも見あたらない。
 きっと母親にそっくりなのだろう。
「ほんまはお父ちゃんは私を送気員として船に乗せ、勇一に潜らせて三人で潜水士船をやりたかったんやけど、私が船に弱いばっかりに何もかもが狂うてしもうたんや。それが何で今頃酔わへんようになったんやろ」
 リエは唇の端を噛むと、水平線の方に視線を移した。
 浩也は黙って耳を傾けた。
「お父ちゃんは仕事はようしたけど毎日酒ばっかり飲んで、リエが船に弱いんはお前のせいや言うてお母ちゃんをいっつも責めたんや。小学六年の頃、私はお母ちゃんのために船酔いに強うなろう思うて友達と遊ぶのもやめて何度もお父ちゃんの船に乗った。それでも私はいつも酔って吐いてぐったりなって、帰ったらいつもお母ちゃんが介抱してくれた。私は洋服のデザイナーになるのが夢やったんや。お母ちゃんはそんな私の気持ちをようわかってくれてて、ついに耐えきれんようになって私だけを連れて家を出たんや。勇一はお父ちゃんがどうしても離さんいうて一緒に連れて行かさんかった。今はあんなに厳つい勇一が、お母ちゃんについていきたい言うて泣き続けたわ」
 リエは舵を握る勇一を虚ろな目で見た。
「じゃあ今は」
「お父ちゃんがこんな事になって、おばあちゃんがちゃんとした生活もできへんようになってるから、私がお母ちゃんの家とこちらの家を行ったり来たりしているんや。ほんまにどうしようもないお父ちゃんやった。最後は宝探しやなんて」
 リエは堪えきれなくなったのか、細めた目を潤ませた。
 いつの間にか船は速度を落として港内に入っていた。
 今年の神無月の満月は十二月五日。
「貴志さん、ありがとうございました」
 浩也は下船して丁寧に頭を下げた。
「で、十二月五日行くんか?」
「はい、お願いします!」
 深々と頭を下げる浩也の足下に、舫ロープが飛んできた。
「それ、結んでくれや」
 勇一は浩也に指図したが、浩也は結び方を知らない。リエが教えようとすると勇一が上がってきた。
「こんくらい知っといてもらわなぁ神無月の夜に足手まといにならあ」
 白い歯を見せると勇一は浩也に結び方を教えた。
 浩也は十二月五日が待ち遠しかった。その場所に行けば、何となく母に会えるような気がした。
 数日後、浩也は松江から自転車に乗って、久しぶりに西ノ庄の山手にあるハーブ園に行った。母と西ノ庄のグリーン団地にいた頃に、二人でよく散歩に来たところだ。
 母はハーブが好きでここに来たのではなかった。
 ここから和歌山の海を眺めるのが好きだったのだ。
 浩也は幼い頃を思い出した―――。
 ハーブ園の眼下には、市街地から続く海原が広がっていた。母はしゃがむと自分の肩に手を置いて顔を寄せた。
「浩也、あの船見ておっきいでぇ」
 住友金属に向かう大型の貨物船だった。
「お父ちゃんなぁあそこで働いてたんやで」 
 母は、市街地の中に林立する大きなタンクや煙突の方を指さした。それは住友金属だった。
「何してたん?」
 浩也は小学生の低学年だった。
「鉄よ、鉄。鉄っていう大事なもんつくってたんよ」
「テツ?」
「もうちょっと大きいなったら学校で習うわ。世の中のためになる大事な仕事や。お父ちゃんはな、あの和歌山の住金で毎日一生懸命鉄をつくって、今の日本の便利な世の中をつくったんや。日本だけやない、世界中のためになったんやで。ただ、お父ちゃん働き過ぎたんや。お父ちゃんまじめで仕事一筋やったから。浩也やお母ちゃんのためにいうて昼も夜もずっと、ふらふらになるまで・・・・・・」
 母はそこまで言うと涙を流した。
「お母ちゃん、ぼくが大きいなったらテツいっぱいつくったるから泣かんといてや」
 浩也は、遂に母からは父の死因を聞かされずじまいだった。
 親戚のおばさんから、ある日突然逝ってしまったと言うことだけ聞かされただけだ。
 浩也は、どんな死に方でも人間死んでしまえば皆同じだと思った。
 眼下の和歌山の海は、いつもと変わらずただ青々とした海水をたたえているだけ。浩也は、平然となずむ和歌山の海にもどかしさを感じた。 
 十二月五日の夕方、西脇漁港に集まった三人は山立ての道具を隆栄丸に積み込んだ。
 道具は灯油の入ったポリタンク二つと笹竹。笹竹の端にはロープで結わえられたおもりのブロックが二つついている。
 リエは父への供養の花束と酒を下げていた。酒は黒江で買った黒牛だ。
「その笹竹、位置出しして沈めるんですか」
「ああせっかくやからなあ」
 浩也の問に勇一がにたりと答えた。
 笹竹は、定めたポイントの目印として沈めるためのもの。
 やはり、勇一は数十億円もの財宝を探すつもりなのだ。浩也にはそこまで付き合うつもりはない。母の手がかりを得ることで頭がいっぱいだ。
 この航海で何も得られなければ諦めざるを得ない。その後、勇一が誰と財宝探しをしようと浩也の知ったことではないと思った。
 隆栄丸が薄暮の港をゆっくりと滑り出す。陽は西の海に落ちきっていた。
 沖の島に着くと、浩也がポリタンクを持って船から降りた。
 浩也は崖を這って鉄筋籠に達すると、流木を集めて詰め込んだ。浩也を下船させた勇一はリエと共に地の島に向かう。
 三人は、それぞれの島で暗くなるのを待った。
 浩也は沖の島を選んだ。理由は沖の島の方に母が上陸した可能性が高いからだ。それは鉄筋籠の位置が地の島より低いことと、沖の島の方には船をつなぎ止める木が近くに生えていない事。
 おそらく隆三は母を沖の島に降ろし、一人で地の島の方に行って磯の傍らに生える松の木に船をつなぎ止めた。二人はそうして紀伊水道が暗闇になるのを待ったはずだ。
 風が強い。浩也の身体は一挙に冷やされた。しゃがみ込むとフリースのフードをすっぽりとかぶって膝を抱えた。吹きさらされた岩が浩也の腰を冷やす。たまらず立ち上がって松の木にもたれた。少しだけ風が遮られる。
 西の空の夕焼けが眼球だけを温めているようだ。
 それは美しいというよりかは不気味な赤さだった。水平線に墨筆を真横に引いたような雲が広がっていて、その水平な裂け目から漏れる夕日が、ちょうど火のついた炭火の芯のように赤らかと燃えている。
 母はここでどんなことを考えていたのか。
 浩也は中学二年の時、母に東京の大学に行きたいと漏らしたことがあった。
 通知票の成績が良く、先生からほめられて有頂天になっていた学期末の日だった。
 母は喜んでくれると思って言ったのだが、喜びの笑みではなく真剣な顔つきになった。 どんなことをしてでも東京の大学に行かせてあげる、と母は自分の手を強く握った。
 お金のことなど考えもせずに、浩也はつい軽はずみなことを言ってしまったことを後悔した。
 そのことがずっと重荷になって、高校に入ってからやはり就職したいと言い直しても母は言うことを聞かなかった。
 母が学費のことで悩んでいるのではないのかと思うと、辛かった。お金のために、本当はあまり好きでもない隆三と付き合っていたのではないのだろうか。自分を東京の大学に行かせるためにあんな男と一緒になろうと考えていたのではないのかと。
 浩也は急に居たたまれなくなって、立ち上がると大きな奇声を上げた。奇声はあっけなく潮風に消された。
 見下ろすと怖気立つほど濃い海水が、音もなく砕け散っている。
 浩也は、眼下の遙か海水の奥深くに吸い込まれそうな気分になり怯んで後ずさりした。 眼下でゆっくりと同じリズムでうねり返す海水は、いつの間にか黒と白の二色になっていた。
 腕時計が六時半を指している。勇一と示し合わせた時間だ。
 浩也は、鉄筋籠の流木に灯油をかけた。マッチを一本すってその籠に投げ入れた。ぼわっと火がつく。浩也は全ての流木に火が回ったのを確認すると、急いで岩場を降りた。
 隆栄丸の灯りが東の方から近づいている。
 浩也は海に背中を向けると這い蹲って岩場を下りきった。意外にも隆栄丸は既に岩場に着岸していた。
 浩也はさっき隆栄丸だと思った船の方を見た。真っ暗な海には明かりはない。やはりさっき見たのは隆栄丸だったのだろう。暗闇なので距離感がないのかもしれない、と浩也は思い直した。
「ど、どぅや上手く火ぃついたかっしょ」
 勇一がせかすように言う。
「はい」
 浩也は答えると隆栄丸の艫にしゃがみ込んだ。
 隆栄丸が真っ暗な海を東に進み始める。
「わぁ」
 浩也は東の空を仰いで思わず声を上げた。
 地の島の切れ間に黄金色の満月が浮いている。
 浩也は今日の天気を何日も前から願っていた。
 和泉山脈から黒いちぎれ雲が流れているものの、空全体からすればたいした量ではない。 天気予報では夜半前から下り坂らしいが、黄金色の満月は見事なまでに夜空をスッパリと切り抜いている。
 あの日の月と同じだ。
「すげー満月やしょ」
 勇一の声が弾む。
「星もすごいわ」
 リエの声に、浩也は真上に首を折った。満天下の星が眼に落ちてくる。刹那、隆栄丸が宇宙船になっておびただしい星の中を遊泳しているように思えた。
「おい、星やなしにかがり火もちゃんとみとけよ」
 躁船室の明かりに勇一の横顔が浮かぶ。
 かがり火は、真っ暗闇の海にくっきりと浮かんでいた。
 あれ? 浩也の目にかがり火の色とは違う明かりが見えた。それは沖の島の南側で揺れて直ぐに消えた。勇一に告げようと振り返るとリエと視線があった。
「見た?」
 リエは少し眉を吊り上げている。
「何の明かりです」
 浩也が問う。
「船の明かりやと思うわ」
 リエは舵を握る勇一に近寄ってそのことを告げた。
「チヌの夜釣りやしょ」
 勇一は薄笑って動じない。
「ここは禁漁区よ」
「密漁やっしょ」
「まさか・・・・・・」
 リエは怯えた表情で浩也に振り返った。浩也もとっさに思いついたが、口には出さなかった。
「つけられてるんじゃないの」
 リエの語尾が震える。勇一は目を丸くしてリエを見返すと、首を左右に振って辺りを見回した。
「どういうことやぁ」
 勇一がリエに振り向く。
「他にも同じ事をしようとしている人がいるんやないの」
「お、脅かすなって」
 勇一が吐き捨てる。
「あり得るわ」
 リエは辺りを見回した。
 今日同じ事をしようとしている者が他にもいるのなら、それは母や隆三に手をかけた者の可能性が高い。
 大金は人間を一瞬で邪悪な魔物に変える。漆黒の闇の中で言いようのない不安が隆栄丸を包む。突然手が伸びてきて海中に引きずり込まれるようなあらぬ恐怖、それはやがて入れ替わるように、巨大な憎悪となって浩也の身体に満ちてきた。
「やったらあこいやっ」
 勇一の怒声が鳴った。驚いたリエが首をすくめる。
 自分が想像しているところまで、勇一の想像も膨らんだのだろう。本当にそんな相手がいるのなら、掴みかかって殴り倒してやる。
 浩也の中で、ぶつけようのない怒りが焦点の定まらないまま膨張を続けた。
 だが、その明かりは二度とは見えなかった。勇一の言うとおり密漁船だったのかもしれない。
 かがり火が隆栄丸の東進によって徐々に接近する。
「どないやしょ」
 勇一が大声で振り向く。
「あと少しです」
 浩也は立ち上がって答えた。
 かがり火はいよいよ接近した。もう少しだ。
「もうちょっと、もうちょっと・・・・・・はい、出会ったぁ」
 浩也が叫ぶ。
 勇一が慌てて舵をきった。
 隆栄丸は左に大きく船体を傾け舳先を南に振った。
 勇一が、かがり火を縦に重ねて見ながら南進の速度を上げる。
 やがて前方に、加太から連なる和歌山の夜景が見え始めた。
 星が降り積もったような夜景。その上には見事なまでの神無月が浮かんでいる。
 二百年前につむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)が見た月も、今浮かんでいる月も変わりない。時間と共に移り変わっていくのは、地表だけだ。
 隆栄丸が住友金属の高炉の南側に差し掛かった。
「おぉ見てみい、城が光ってらっしょ」
 勇一が言った。
 遠くに白光する和歌山城が浮かびあがった。
 和歌山城は観光シーズン中はライトアップを行っている。浩也はそんなことも計算済みだ。南進と共に神無月が徐々に城の上空に近づく。
「僕は艫でかがり火を見ます」
 と浩也。
「私は神無月と城を見るわ」
 とリエ。
「よっしゃ、一致したらワイが竹落とすっしょ」
 勇一は片手で舵を握ったまましゃがむと、笹竹についたロープを確認した。ロープの先にはおもりのブロックが二ついている。
「かがり火は出会ったままです」
 浩也が繰り返す。
「後ちょっとよ」
 リエの甲高い声が上がる。
 えっ? 
 と浩也の絶句。
 視界からかがり火が忽然と消えてしまった。そんな馬鹿な。
「二つともかがり火が消えました」
「なっ、なんやてっ」
 勇一が船を減速する。
「ちゃんと見えてるやないかあ」
 勇一の言うとおり、振り返るとかがり火は二つとも見えていた。
「すいません見間違えました」
 浩也は見間違いはないと思ったがとりあえずそう言った。
「あっ、消えた」
 今度はリエが言った。
「なんてよぉ」
 勇一は上げたエンジンをまた下げた。
「勇一、エンジン切って」
 リエが駆け寄って早口で言うと、勇一は素直にエンジンを切った。
 隆栄丸から一切の照明が消える。
 タイミングを合わせたように黒いちぎれ雲が神無月を覆った。漆黒の闇。ザワザワと波の音だけが騒ぐ。右手に伸びる和歌山の夜景、その左手は暗闇で微かに淡路側の灯が点在するだけだ。
 浩也は、不規則に揺らぐ船底を這い蹲って躁船室までたどり着いた。
 三人は躁船室で寄り添うようにしてかがり火の方を見た。
 かがり火はひとつになったり二つになったり、全部消えたりしている。
 時折船底を突き上げる小さな揺れが恐怖心をあおり立てた。
「なっなんなんやしょこれぇ」
 勇一の声が裏返った。
「船よ、船が近づいてるんやわ」
 リエが震えた声で言いながら、浩也のフリースを掴んだ。
「そんなあほな、あのかがり火が隠れるっちゅうたら何百トン、いや何千トンもあるほどのよっぽどでかい船やないと隠れんどぉ。だいたい音が全然きこえんやっしょ」
 勇一がリエにくってかかる。
 リエも勇一も言っていることは正しい。
 かがり火の点滅はそれ意外に説明がつかない。
 だが、二人の話を両立させる巨大な船が明かりもつけずに夜航行などするはずはない。 密漁目的にしても船が大きすぎる。
 一体なんなんだ?
 神無月から暗雲が流れて切れた。うっすらと海上が煌めく。
「きゃーっ」
 リエが悲鳴を上げ浩也にしがみつく。
 リエは、ただ小刻みに身体を震わせ言葉を発しない。浩也は辺りを見回した。
 えっ。
 縦に伸びる細い一本の線がくっきりと見える。
 それは電信柱が暗い海の中で建って揺らいでいるようだ。
「な、なんなんやっしょあれ。ば、化けもんかっ」
 勇一が慌てて足下を探り始めた。
「ハッカーどこいったハッカー」
 勇一が狼狽える。
「確か艫に」
 リエにしがみつかれ動きの取れない浩也が言う。勇一は素早く船尾に移動すると長い竹のハッカーを槍のように持ち構えた。
「の、呪いなんかあるはずねえんじゃ」
 勇一は大きく息を吐いた。
 電信柱のようなものは、揺らぎながらこちらに近づいてくる。音は全く聞こえない。
 浩也は気がどうにかなりそうだった。
 と、再び暗雲が神無月を覆った。漆黒の闇が再び周囲を覆う。電信柱のような化け物の姿が消えた。隆栄丸はひたすら姿を隠すように静まり続ける。
 エンジンをかけた瞬間、見つかって一飲みされるのではないのか。あらぬ想像で浩也の恐怖心はつのっていく。
 勇一も同様なのかエンジンをかけて逃げることをしない。リエはただしゃがんで震えているだけだ。
「親父の敵うったる」
 押し殺した声で勇一が言った時、暗闇の向こうでヒューッと風を切る音がした。
 それは上空の方から聞こえたようだった。
隆栄丸を今までにはない大きな波が押し上げる。
 近くに何かがいる。
 規則的な押し波で二、三度船が隆起した時、浩也の目前に見上げるほどの白い鉄柱が降りかかってきた。
「うぉーっ」
 勇一が悲鳴を上げて転んだ。

 隆栄丸が軋みながら大きく傾く。浩也はバランスを崩しながらも、しっかりとその巨大な物体を凝視した。
 ヨット! 馬鹿でかいヨットだ。
 そびえる鉄柱に張り付く三角形の黒帆。船尾に二人の人影が見える。その一人が綱を持って大きく仰け反った。目出し帽から白目がぎょろりとこちらをにらむ。
 浩也は腰が抜けたように動けなかった。
 ヨットは隆栄丸を掠めるとそのまま通り過ぎてしまった。
 勇一がコトンとハッカーを手放す。
 暗闇の向こうからドルルルというエンジン音が鳴った。ヨットにエンジンがかかったのだ。照明のついたヨットが遠ざかっていく。
「ヨットのくそ野郎!」
 勇一が慌ててエンジンをかけた。
「やめてー」
 リエが声を張り上げる。勇一が船を進めるのを止めた。
 やがてヨットの明かりは小さくなって、エンジン音も聞こえなくなった。
 勇一の荒い息が聞こえる。リエはひれ伏したまま動かなかった。船の揺れが徐々に収まっていく。
 三人は暫く押し黙ったままだった。海のざわめきだけが隆栄丸を包む。
「ただの夜航海?」
 半泣きのリエの声。
「ただの夜航海が電気を全部消すかぁ。どっちにしたって、ぶつかっとったら大事故やったいしょ」
 勇一が語気を荒げる。
 浩也の目に目出し帽の姿が焼き付いていた。あのヨットの動きは不自然きわまりない。
 ヨットの明かりは雑賀崎の沖を掠め見えなくなった。
 勇一が天を仰ぐ。浩也とリエも月を望んだ。ちぎれ雲の去った高い夜空に、神無月が浮いている。
「山立てや、山立てぇ」
 勇一は乱暴に言い放つと舵を握った。浩也とリエも所定の位置に戻った。
 三人はまた山立てを再開した。 
「もう少しやわ」
 勢いのないリエの声。
 じわりと和歌山城の上に神無月が迫ってきた。
「かがり火は出会ってます」
 艫で浩也が繰り返す。
 隆栄丸はエンジン音を小刻みに上げ下げして、位置の微調整に入った。短い周期の揺れが身体を震わせる。
「今よ」
「かがり火も出会ってます」
 浩也とリエが同時に叫んだ。
 勇一は傍らに置いたブロックを結わえたロープを瞬時に掴むと、一回後ろに反動をつけて海中に投げ入れた。
 ドッボン! と言う音の直後、勇一の短い悲鳴が上がった。笹竹が海中に強引に引き込まれる時、その笹竹が立ち上がって勇一の顔を叩き上げたようだ。
 リエが慌てて駆け寄る。勇一は左眼を押さえたままうずくまった。
 その手からどす黒い血がトロリと落ちた。
「きゃぁ」
 リエが悲鳴を上げた。
「眼ですか?」
 浩也が慌てて近寄る。
「眼やない。まぶたやと思うっしょ」
 勇一は片手で押さえたまましっかり答えた。
 浩也が勇一を照明のところに連れて行った。
 勇一の顔を覗き込んだリエは、今度はさっきより大きな悲鳴を上げた。
 勇一の左まぶたの上が真横にざっくり割れていた。
「へへ、剛右衛門の呪いやしょ」
 勇一はタオルを取り出し眼を押さえた。
 勇一はリエを安心させるための冗談だったのだろうが、暗闇でぼんやりと照らしだされた勇一の姿は妙に不気味だった。
 何故か一瞬、勇一が勇一でないような気がして、浩也はブルルと背筋が震えた。
 勇一は血で染まっていくタオルを何度も押しつけ直した。
「血が止まるまで横になっといたほうがいいわ」
 リエは散らかっていた小道具を隅の方に寄せた。
 暫くすると勇一の血は止まった。
 なにやらゴーという低音が耳に入る。
 浩也は暗闇の中を見渡した。その音の方向に規則的に並んだ大きなライトが幾つも見えた。
「向こうからでっかい貨物船やしょ」
 勇一が顎をしゃくる。
 隆栄丸は和歌山港の航路の近くにいた。
 隆栄丸の北側には、防波堤と護岸がへの字型に配置されている。隆栄丸は壁に背を向けるように、への字のくぼみの中央付近に停泊していた。
 勇一が立ち上がってエンジンをかける。隆栄丸を先に進めて貨物船をかわすつもりだ。
 隆栄丸は勢いよく進んだ。二、三分エンジン音が高鳴りした後、隆栄丸はまたエンジン音を下げた。
「もう大丈夫やしょ」
 貨物船が隆栄丸の前方をゆっくり通り過ぎていく。
 直後、隆栄丸が空中に浮いた感じがした。
「あかん、三角波やぁ!」
 勇一の声が早いか、浩也は一瞬で海に放り投げられた。方向感覚が全くない。気が付いたら冷たい海の中。大きな力で体が押し上げられる。
 顔が水面に出た。大きく傾いた隆栄丸が見える。今度は海中に引きずり込まれるほど降下した。浩也の体が冷たい海に翻弄される。
 やがて上下の感覚を掴んだ浩也は、頭だけ何とか水面に出した。
 勇一が何か叫んでいる。塩辛い水が鼻に入って咳き込んだ。が、何とか息は出来ている。
 ザッバーンと大きな音がした。二、三度大波に没した後、髪の毛を後ろから鷲掴みにされた。
「じっとせい」
 耳元で勇一の声。
「息溜めて上向け」
 浩也は言われるとおりにした。
 何度も何度も息を吸って仰向けになろうとした。が、下半身が沈んでいく。
 幸い波は徐々におさまってきた。
 勇一は、浩也のベルトの所を掴んだまま立ち泳ぎをしていた。勇一の荒い息が耳元で聞こえる。二人の体は上下しながらも隆栄丸に近づいていた。
 ごん! と頭に固いものが当たった。隆栄丸だった。
 勇一が隆栄丸についた車のタイヤにしっかりと手をかけていた。リエの細い手が伸びる。
「も、もう大丈夫やしょ」
 切れ切れの息で勇一が言った。
 二人は何とか隆栄丸に這い上がると、死んだように仰向けになった。荒く早い息が交錯する。時折、リエのしゃくりあげる泣き声が聞こえた。
 暫く全くしゃべれなかった。
 不思議なことに寒さも感じない。
 どれだけ時間が過ぎただろう。 
「おい、生きてるか」
 やっと勇一が言葉を発した。
 浩也はか細い声で「はい」とだけ答えたあと、激しく咳き込んだ。リエが寄り添って背中をさする。
 満天下の星空がグラリと揺らいだ。
「これやったんかっしょ、ワイの親父とお前のおかん」
 勇一の言うとおりかもしれない。
 さっきと同じような状態で母が海に落ち、隆三が助けに入った。船になれていない母や自分が、高波でバランスを失って海に投げ出されるのは当たり前だ。
 生死を分けたのは若さだろう。五十才を過ぎた隆三に、助けるほどの体力は無い。隆三自身も、夜の冷たい海に入ればどうなるかはわかっていただろう。
 隆三は命も省みず母を助けようと飛び込んだのだ。
「あんながいな三角波はじめてやしょ」
 勇一がポツリと言った。
 浩也は三角波を知らなかった。
 三角波とは、大きな船が進む時に出来る航跡波と、その波が防波堤にあたって跳ね返ってくる波とが重なった波のことだ。
 二つの波が重なるため倍以上の高さになる。隆栄丸のいた場所は、漁師仲間でもよく知られる三角波の発生場所だった。勇一も知ってはいたが、山立てに夢中になってそのことを忘れていた。
「剛右衛門の呪いってほんまにあるんとちやうか。さっき笹竹沈める時もワイの足にロープが絡まって海中に引きずり込まれるところやったんやしょ。はずれんかったら今頃ワイは海の底で沈んだままやしょ」
 そこまで言って勇一は何かに気づいたように血相を変えた。
 まさか・・・・・・。
 勇一の話では、隆三と母が出航する時にもオモリのついた同じ笹竹が積み込まれていた。
 浩也は、起き上がると船縁にしがみついて真っ暗な海面に顔を落とした。
 勇一もリエも言葉を失った。
「貴志さん、明日潜ってください」
 浩也の絞り出すような声に、勇一は「おぅ、わかった」とだけ答えた。
 その晩、浩也は勇一にすすめられて貴志家に泊まることになった。
 貴志家は祖母と勇一の二人暮らしで、今はリエが夕食の手伝いなどに通っている状態だ。
 リエは、今夜は母の家に帰り明日の朝出てくるとのことだ。
 時計を見ると十時を回っている。祖母は既に床についていた。
 勇一と浩也は順番に風呂に入った。風呂から上がると広い和室に布団が並べられ、勇一があぐらをかいて煙草を吸っていた。
 勇一のまぶたには絆創膏が貼られている。
「喉渇いたら冷蔵庫にジュースあるから飲んどけや」
 と勇一が振り向いた。
「ありがとうございます」
 浩也は濡れた髪をタオルで丁寧に拭いた。
 床の間の横に豪華な額縁が掲げられている。人命救助の感謝状だった。
「まあ、凄い親父やったわ」
感謝状を見る浩也の視線に気付いた勇一が口を開いた。
 四年ほど前、和歌山港で貨物船のスクリューにロープが絡みついて動かなくなった。ロープを取り除くため、近くで潜水作業の待機をしていた隆栄丸に声がかかった。
 貨物船の船尾で準備をしていると、前方の方からけたたましい声が上がった。
 人が落ちたと叫んでいる。
 どうやら貨物船と岸壁の隙間に釣り人が落ち込んだらしい。隙間は防舷材の幅の一メートル程しかない。とてつもなく大きな貨物船は防舷材を軋ませて揺れている。
 落ちた釣り人は、井戸の中に落ち込んだようなもので掴まるところがない。
 未だ潜水服を着ていなかった隆三は、そのまま飛び込むと素潜りで貨物船の船底をかいくぐり釣り人に到達した。
 もがく釣り人を背後から捉えると落ち着かせ、ロープの投げられるのを待った。
「船底に消えた親父が浮いて来ないんやないかと、ワイは足が震えたっしょ」
 と、勇一は煙草を灰皿に押しつけて話を続けた。
「上がってきた親父は、あんぐらいの素潜りやったら神崎一門なら誰でもやらあって、豪快に笑い飛ばしてな」
「神崎一門?」
 浩也が訊く。
「ああ潜水士集団のことや。親父はもともと徳島の人間なんやしょ」
 勇一は浩也を見上げた。
 隆三は、徳島県南部にある伊島と言う小さな島の出身だった。
 伊島は外洋に面し、アワビやサザエ、海鼠などの海産物が豊富に取れる。このため、島の住人は男女問わず潜水作業に長けていた。
 高度経済成長期に入ると港湾開発が始まり、伊島の男たちは給料の高い港湾開発の潜水士として近畿の各地に出て行った。
 潜水に長けた伊島の強者たちは瞬く間に一大勢力を結成し、いつの頃からか神崎一門と港湾関係者の間から呼ばれるようになった。
 隆三は神崎一門に属し、独身の頃は大阪港で働いていたが、やがて和歌山港に居着いてしまった。
 その潜水方法は、浩也の全く知らないカブト式と呼ばれるものだ。
 カブト式は、小さな丸窓のついた真鍮製のヘルメットを潜水服と連結し、空気をゴムホースで船上から送り込む潜水方式だ。
 空気は、ヘルメットと連結した潜水服の中にも入るため大きな浮力が生じる。このため、総重量九十キロにも及ぶ鉛靴や鉛ベルトなどが装着された。この状態で一個数百キロもの大石を、畳を敷いたように海底に積んでいく。
 この防波堤の基礎づくりが隆三の得意の仕事だった。
「親父はワイに後を継がせようとしてな、厳しかったで小さい頃から船に乗せられてよ。お姉ちゃんも大変やったわ」
 と、勇一は頭をポリポリとかいた。
「船に弱かったんですね」
 浩也はリエから聞かされた話を思い出した。
「ああワイも最初は吐いて吐いて、でも直ぐに慣れよったわ。お姉ちゃんは全然強うならんでかわいそうなぐらい弱かったんやしょ。ほんで船なんか乗れへん言うて中学の時家出て行きおってな。ワイはそん時はこんな親父なんかおらん方がましやって思うた。明けてもくれても海の話ばっかしでとにかく潜水士になる事以外は許してくれんかった。まあそんな親父が海で死ぬやなんて、ほんまに親父らしい最期かもしれんけどな」
「実は、僕のお父さんも海で死んだんです」
 言って浩也はうつむいた。
「・・・・・・」
 勇一は浩也を凝視するとごくりと息を飲んだ。
「僕が二歳の頃なので、お父さんの記憶は全然ありませんけど」
「おまんの親父、漁師やったんかしょ」
「いえ違います」
 勇一は下唇を噛んで視線を泳がせるとそれ以上は訊かなかった。
 浩也が精一杯会話に応じているという雰囲気をくみ取ったのだろう。
「疲れたからもう寝るか」
 勇一は浩也の返事も待たずに電気を消して床についた。
 翌日、海は少し時化ていた。
「潜れますか」
「こんくらいやったら大丈夫やしょ」
 勇一は、肩に掛けていたタオルの両端を持ってねじると頭に巻き付けた。
 三人を乗せた隆栄丸は西脇漁港を出航した。
 ポイントはGPSが覚えている。淡路島の方にまとまった漁船群があり、近くには釣り遊びのプレジャーボートが点々と浮いていた。それも、ポイントに近づくにつれ殆どいなくなった。目の前を南海フェリーが通り過ぎていく。その航跡波を、隆栄丸は大きく上下しながら乗り切った。隆栄丸の速度が落ちる。ポイント付近に到着したのだ。ポイントは昼間見ると思っている以上に陸寄りだった。この時期の透明度は高い。だが、目を凝らしてみても海中で笹竹は確認できない。意外に深いようだ。
「こんなとこやったっけなー」
 勇一がまぶたの絆創膏をさすりながら独り言のように言う。隆栄丸は、船を固定するために前後にアンカーを張る作業にはいった。隆栄丸はポイントから一端南に五十メートルほど離れた。
「アンカーデッコウ」
 勇一の声が飛ぶとリエが重たいアンカーに手をかけた。要領を得ずに所在なく見ていた浩也が慌ててリエに駆けつける。が、リエは細い腕で大きなアンカーを引きずるように持ち上げると、船縁を擦りながら海上に押し投げた。アンカーは繋がれたロープを強引に引き込みながら一挙に海中に消えた。アンカーが固定されたのを確認すると、隆栄丸は今度は北に進み、ポイントを五十メートルほど過ぎた辺りで泊まった。勇一の合図を待って、今度は浩也がアンカーを投げ入れる。勇一がウインチを巻き上げると、隆栄丸は南北に張られたロープの緊張に従って斜め横に動いた。そして、ついには船位を固定した。
 船上で勇一の潜水準備が始まった。勇一は、体にぴったりと張り付くような毛糸製のつなぎを着ると腰を下ろした。
「これがカブトやしょ」
 勇一は宇宙遊泳で見るような潜水服を広げた。潜水服は煤けたオレンジ色で、首の所に頑丈そうな金具がついていた。リエが潜水服を着せ始めた。勇一は、時折にこやかな顔をしながら窮屈そうに潜水服の足から体を入れていった。潜水服の中にすっぽりと収まった勇一の顔を、リエがタオルで拭き、そのタオルを折って頭にかぶせた。リエは、真鍮製のヘルメットを抱きかかえると勇一の頭に慎重にかぶせた。ヘルメットが勇一の顔にすっぽりとはまり、潜水服の首の輪っかに着座すると、リエはきゅっとヘルメットをひねって固定した。勇一は宇宙遊泳の姿になった。立っていられないほど船は揺れている。
 リエが腰を落として勇一の脇を支える。浩也も見真似て反対側の脇を支えた。勇一はゆっくりと立ち上がると、リエに手を添えられて船縁の梯子までたどり着いた。潜水服の靴底に張り付いたオモリがコツコツと船床に響く。勇一は向きを変えると梯子を下り始めた。梯子の下半分は海中に没している。勇一は海底に首だけ出た状態になると、ヘルメットの丸窓からリエと浩也を交互に見た。勇一は視線を上空に移すと、一気に泡を出して海中に消えていった。
 暫くして交信が始まった。ザーッとスピーカーの音が鳴る。
「こちらリエです。視界はどうですか。どうぞ」
「ああ、暗いけどなんとか見えてます。どうぞ」
 リエは手慣れた様子だ。浩也は真一文字に口を結んだまま、勇一のはき出す泡を見つめていた。勇一の見つけようとしている笹竹は、自分たちのものと母達が入れたものとの二本あるはずだ。浩也は昨日は勇一に対し絶対に潜って欲しいと頼んでおきながら、今更怯んできた。何度考えてもこうするより仕方なかったと思いながらも怖かった。最悪の事態に耐えうる自信など全くないのだ。想像するだけで背筋をぞっとしたものがはい上がってきて気がどうにかなりそうだった。母がこんなところにいるはずはない、と浩也は祈りながら揺れる海面を見つめた。
 勇一が海底の状況を伝えた。海底は浮泥の場所で、一歩歩くたびに舞い上がって視界を塞ぐ。勇一は暫く濁りの収まるのを待つとのことだった。
「目印の竹は発見されましたか。どうぞ」
「まだ見えません。どうぞ」
 雑音混じりだが、勇一の声ははっきりと聞き取れた。
「ロープが見つかったら連絡を下さい。どうぞ」
「了解しました。どうぞ」
 海面上に沸き上がる泡が勇一の位置を示している。泡は、まっすぐ進んだり戻ってきたり斜めに移動したりと動き回わると、やがて一カ所に止まった。
「見つかりましたかどうぞ」
 リエが訊くと暫く間を置いて返事が返ってきた。
「見つかりました。どうぞ」
 リエが浩也に振り向いた。浩也の顔が曇る。勇一からの報告を待つしかなかった。スピーカーがガーガーと鳴った。
「自分たちの入れた竹ではなかったです。どうぞ」
 リエは絶句して返事を返せなかった。
「竹だけが沈んでます。どうぞ」
 立て続けに届いた勇一の言葉に、浩也は大きなため息をついた。
「自分たちの竹を探します。どうぞ」
「了解です。どうぞ」
 勇一の泡がゆらゆらと蛇行して行ったり来たりする。勇一からの連絡はなかなかなかった。リエはマイクをおくと浩也に近寄った。
「もう、引き返す?」
 リエがしんみりと言う。
「いえ、せっかく潜ってもらったんですから」
 浩也は船床に腰を下ろした。
「あたしねえ、お父ちゃんがほんまに欲しかったんは宝もんやないと思うの。お父ちゃんは宝物を見つけるということにがむしゃらになっていたんじゃ無いと思うのよ。正直誰だってお金は欲しいわ。でも結局お金って何かを得るための手段にしか過ぎないでしょう。今朝勇一に、あんたのお母さんの手がかりが得られなかったら止めましょうって言ったの。そしたら勇一は、親父は宝物を手に入れたらワイやお母ちゃんやお姉ちゃん、そしてあんたのお母さんつまりはあんたのために使うはずやったんやから、それを探してやるんが親父の供養になるんやないかって言うのよ」
 浩也はリエの顔を見上げた。その遙か上空にカモメの群れが流れていく。ガーガーとスピーカーが鳴った。リエはマイクのところに引き返した。
「自分たちの竹を発見しました。どうぞ」
リエはちらりと浩也の方を見た。
「それでは、半径五メートル以内の探索をお願いします。どうぞ」
「了解しました。どうぞ」
 勇一は潜る時三メートルほどの突き棒を持っていた。リエの話では、埋没物を探す時には、その突き棒を海底面にゆっくりと差し込みながら探すのだという。経験を積めば、突き棒の感触で埋没物の材質までわかるとのことだ。
 勇一は、丹念に突き棒を使って半時間ほど探査したが、五メートル半径内にはそれらしきものはなかった。
「目的物らしきものはないです。どうぞ」
「了解。続いて十メートルまでをお願いします。どうぞ」
「了解。そやけど、船が流されてないか。どうぞ」
「了解。ちょっと見てみます。どうぞ」
 リエは和歌山側と加太岬の方を遠望した。陸上の目標物で山立てをしていたのだ。船に乗り慣れた人間は常に自分の位置を確認するために陸を見る。勇一の言うとおり、隆栄丸は紀ノ川の流水の影響なのか潮の加減なのかはわからないが、西に流されていた。リエが、アンカーを引っ張る機械の前に座りエンジンをかけた。リエは、歯車の横から二本突き出ているレバーを握って倒した。
「はずれてるわ」
 リエはエンジンを切って、またマイクを取った。
「北のアンカーがはずれてます。どうぞ」
「了解。暫く待って下さい。どうぞ」
 三人は暫し勇一からの連絡を待つこととなった。勇一の吐き出す泡は北の方に移動して、右往左往した。
「底が緩すぎてアンカーがききません。どうぞ」
 海底面が浮泥で緩く、アンカーが引っかからないのだ。
 アンカーを打ち直すことになった。が、何度か打ち直しても北側だけがどうしても海底面に刺さらない。船が固定できなければ潜水作業は出来ない。
「少し東の方に捨て石があるのでそれに結わえます。どうぞ」
「それは危険ではないですか。どうぞ」
 勇一の、アンカーの一方を捨て石に結わえる提案にリエは反対した。勇一は捨て石の所まで移動すると状態を報告した。捨て石とは、港湾工事に使用する大きな石のことだ。隆栄丸の東側に伸びた防波堤の基礎石が、先端付近で崩れたものらしい。捨て石は数十個ほど転がっていて大きなものは畳ほどの大きさがあるとのことだ。長年の放置でどれも半分は埋まっているという。その内の、四方の石にかみ合った冷蔵庫ほどの大きさの石にロープを結わえ付けるとのことだ。
「他にやりかたはないです。どうぞ」
 勇一は口調を強めた。
「了解です。どうぞ」
 リエは仕方ないといった感じだ。捨て石付近で泡が出続けた。
 作業終了の勇一からの連絡を待って、リエは慎重にウインチを巻いた。
「全然大丈夫です。どうぞ」
 勇一が、捨て石のビクともしないことを伝える。リエが不安な表情でレバーを少しずつ倒した。ワイヤーロープが軋む。沖に流されていた隆栄丸が、ポイントのほうへと徐々に移動した。浩也は見えもしない捨て石のあろう方向をじっと睨んだ。やがて隆栄丸はポイント上に船位を固定した。
「再開します。どうぞ」
「了解しました。どうぞ」
 リエは大きく息をはき出した。勇一は、ゴミをかき分けこまめに探査を繰り返しているようだ。突き棒がそれらしきものをなかなか捉えることが出来ないのか、暫し連絡が途絶えた。半時間ほど経った時スピーカーが鳴った。
「何かの木箱がいっぱいあります。どうぞ」
 リエは目を丸くした。
「いったん上がります。どうぞ」
 勇一は状況報告に上がることになった。泡がはしごに近づき勇一がゆっくりと上がってきた。リエと浩也が手を貸す。リエは船床に椅子を置いた。温泉などにある木製の椅子より大きめのものだ。勇一はそれに腰を下ろした。リエがヘルメットのネジを緩めゆっくりと脱がした。現れた勇一の顔は汗だくで息も荒い。リエが勇一の顔をタオルで丁寧に拭く。勇一は息を整えると口を開いた。突然、穴ぼこにがくっと体が落ち込んだらしい。慌てて浮力を確保するために船上に伝えようとしたら、握ったまま埋まった突棒の先にこつこつという感触があった。そのままの状態で突棒を何度も突いた。間違いなく木箱の感触だという。
「最低でも五個はあるっしょ」
 勇一は真顔で言った。
「お姉ちゃん、エアリフトの用意してくれんか」
「よっしゃ」
 リエは、畳半畳ほどの船床の板を取り除いた。中から、身の丈ほどもある直径二十センチ程の黒い塩化ビニールのパイプや、ロープを取り出した。エアリフトとは、大きな管に空気を送り込み、その空気の吐き出る力で海底に穴を掘る装置だった。リエは要領よくエアリフトを組み立てた。
 勇一はエアリフトを持つと再び潜水した。
 箱は、現地盤から三メートルも下に埋まっているとのことだ。コンプレッサーのエンジンがかかった。空気を送るパイプが振動する。直ぐに音吉丸から少し離れた海面に、黒い泥が濛々と沸き上がった。よく見ると、ビニール袋などのゴミも一緒に沸き上がっている。海底に穴が掘られているのだ。
「エアリフトを止めて下さい。どうぞ」
 五分ほど経つと海底の勇一から、エアリフト作業の終了が告げられた。リエがエアリフトを船上に引き上げようとするのを、浩也が加勢した。二人は、泥にまみれたホースを海水で洗い落としながら船上に引き上げた。やっと引き上げ終わって額の汗を拭う広也の目が沖の一点に釘付けになった。黒い帆のヨットが浮かんでいる。隆栄丸からかなり沖の方に離れてたところをゆっくりと南進しているようだ。横のリエは声も上げずに呆然とそのヨットの動きを見守っている。黒い帆が異様に聳えて、隆栄丸を威嚇しているようにも、また監視しているようにも見える。ヨットは何事もないように等速で南進を続け、やがて雑賀崎の岬に消えていった。
「あの夜のヨットに違いありません」
 浩也がそう言うと、リエは訝しそうな目で振り向いた。
「ただのヨットなんやろか。マリーナシティの方に行ったみたいやけど」
 リエはヨットの消えた雑賀崎の岬を睨み付けていた。
「そうでしょう。でもあんな黒いヨットがあるんですね」
 浩也は大きく息を吐いた。
「私もあんなヨット初めて見たわ」
 リエは雑賀崎の岬を睨んだままだ。スピーカーがガーガーと鳴った。
「木箱は全部で七つです。ロープを降ろしてください。どうぞ」
 リエが慌ててマイクを握る。
「了解です。どうぞ」
 海面の泥の濁りはすっかり拡散していた。
 リエはアンカーを緩めて、木箱のポイントへと船位を移動した。浩也が、錘を付けたロープを海底に降ろす。
「それでは上げて下さい。どうぞ」
 浩也は、そろりそろりとロープを手繰った。水面近くに古い木箱が姿を現せた。ビールのケースほどの大きさだ。浩也に体を寄せてリエもロープを掴んだ。木箱は結構重たい。何とか水面を切って木箱は船上に上がった。二人はまじまじとその木箱を眺めた。。
 木箱は古いがしっかりした作りだ。リエが木箱を開けようとした。が、蓋が頑丈に固定されていて空かない。リエは立ち上がると浩也の肩に自分の顔が当たったのも気にせず、蓋を開けるための道具を操舵室に探しに行こうとした。
「ロープを下ろして下さい。どうぞ」
 勇一からの連絡があり、リエははっとした顔で引き返してマイクを取った。
「ハイわかりました。どうぞ」
 リエは早口で答えた。
 木箱の中身が本当に時価数十億円もの財宝だったら大変なことになる。浩也に嫌な予感が持ち上がった。
 木箱は順次引き上げられた。全く同じ大きさの木箱で七つある。
「もう木箱はありません。最後に、ポイントの竹を撤収するので、船を移動してください。どうぞ」
「了解、船を動かします。どうぞ」
 リエはマイクをきっちりとスピーカーの横に掛けもせず、小走りでウインチのところに駆け寄った。浩也は落ちたマイクを拾うとスピーカーの横に掛けた。リエは慌ててウインチのレバーを握ると、手前に倒した。隆栄丸がギシギシと音を立てて徐々に移動し始めた。 舳先が少し斜めに沈んだ様な気がした時だった。
「巻き過ぎてるっしょ止めー」
 勇一の叫び声がスピーカーから聞こえた。
 リエが両手でレバーを握って全体重をかける。が、ウインチの巻き上げは急には止まらない。
 船体が海中に引き込まれるようにぐぐっと沈んだ。と思ったら、今度は一転して船体がドーンと言う音と共に跳ね上がった。リエが悲鳴と共に跳ねとばされた。浩也も船縁に体をたたきつけられ転がった。
「はずれたぁ」
 リエは呻きながら小さくそう言った。ウインチがゆっくりと止まった。浩也にも状況は想像できた。ウインチに巻かれすぎ、耐えきれなくなったアンカー代わりの捨て石が、周囲のかみ合わせの石を蹴散らし外れたのだ。アンカーロープに繋がれた捨て石は、ウインチに巻かれながら海中を切り裂くように移動しているはずだ。冷蔵庫ほどの石にぶつかったらと思うと、浩也は体が震えた。
 浩也は祈るような気持ちで船縁にしがみついて、泡を凝視した。その泡は見たこともない早さで船の方に近づいている。強制的な力で動かされている不自然な等速運動だった。泡は、浩也の目前まで来るとあっさりと船底を横切った。浩也は顔をしかめて立ち上がった。同時に、リエの絶叫が響いた。
「ゆ、勇一ィー」
 パンパンにふくれあがった潜水服が船縁の傍に浮いていた。浩也は無我夢中で服を脱ぐと飛び込んだ。リエがケンツキを伸ばす。無言の勇一が船上に引き上げられた。
 丸窓の中の勇一は目を閉じたままだ。リエが半泣きでヘルメットを外すと、勇一の目がゆっくり開いた。リエが勇一の鼻血をタオルで拭った。勇一はうつろな目でリエと浩也を交互に見た。
「つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の呪いやしょ」
 と勇一は精一杯の笑みをつくった。リエがしゃくり上げる。とにかく病院に急がなければならない。西脇漁港までは全速力でも半時間以上はかかる。
「救急車を呼びましょうか」
 浩也の言葉に勇一は、「大げさなことすんな」と力を入れた。浩也に介抱を頼んでリエはウインチを全力で巻いた。錨を上げると操船室に駆け込みエンジンをかけた。隆栄丸のエンジン音が上がる。浩也は、勇一の顔にかかる飛沫を遮るように背中をかがめた。十分ほど走った所で、勇一の顔色が心なしか戻ってきたように感じた。勇一が無言で上半身を起こした。操船室のリエが「寝ときなさい」と叫ぶ。勇一は薄笑いをつくって言うことを聞かない。
「もう、大丈夫やしょ。ちょっと気い失うてただけやしょ」
 心配そうな浩也の手を勇一は振り払った。頭を左右に何度か振ると自立しようとしたが、直ぐに尻餅をついた。隆栄丸はゆっくりとカーブしながら西脇漁港に入った。まだ、朝の漁が終わっていないのか漁港はがら空きだ。
 隆栄丸が着岸するのとほぼ同時に、白の乗用車が目の前に止まった。リエは船を着岸させると舫を取るため、小走りした。岸壁にロープを投げると、乗用車のドアが開いて二人の男が現れた。二人とも野球帽をかぶってサングラスをしている。一人の男がロープを拾い上げて急いで船を係船金具に結わえ付けた。もう一人は辺りを窺いながらピストルをつきだしている。
「騒いだら撃つで。本物やからな」
 ドスの利いた声ではなかった。細く高い声で語尾が震えていた。船上の三人の動きはピタリと止まった。ピストルを持った男が顎で指図すると、もう一人の男が船に飛び乗ってきて木箱を車へと運び出した。トランクには収まらず後部座席にも積み込んだ。ピストルを持った男は、腰をひいた体勢で銃口を代わる代わる三人の方に向けている。大声でも上げようものなら本当に撃ち殺されるだろう。浩也は、まだ潜水服を着て身動きの取れない勇一の傍らで身動きひとつ出来なかった。
 男らは全部積み込むとタイヤを鳴らして走り去った。あっという間の出来事だった。浩也はふと昨夜のヨットの連中ではないのかと思った。勇一が船床を叩いて悔しがった。呆然としていたリエが気付いたように勇一のもとへ駆け寄った。浩也と二人がかりで勇一を車に乗せると病院へと直行した。
 西庄から大阪の岬町へと抜ける山道に猿坂峠という人気のない場所がある。その峠のため池の横で白いの乗用車が発見されたのが翌朝のことだった。地元の老人会が朝のウォーキングで偶々脇道に逸れて発見したらしい。不審に思って通りざま覗き込んでみると二人の男が寝ていたと言う。ナンバーは和泉ナンバーであった。老人会は、バス釣りで溜め池にでも訪れたのかとそのままやり過ごしたらしい。が、次の日の朝もそのままの状態でその車はあった。老人会が警察に連絡したが、二人は既に死んでいた。一人は、大阪市内の有名進学高校に勤める国語の教師、もう一人は、和歌山市木本で歯科医院を営んでいる者だった。
「あ、親父の行ってた歯医者やんか」
 勇一があんぐりと口を開けた。
「なんと木箱の中身は、旧日本軍の毒ガスでした」
 ワイドショーのキャスターが興奮気味に伝える。
「ど、毒ガス!」
 三人は絶句した。浩也は勇一の見舞い訪れていた。リエと三人で休憩室のテレビに釘付けになった。番組は解説を加え詳しく報道をした。
 車内では、木箱が二つ開けられており、栓の開いたビール瓶が二つ転がっていた。分析の結果、瓶の中身はホスゲンという旧日本軍の毒ガスだった。平成六年、世間を騒がせた宗教団体が女性ジャーナリストのアパートにまいた物と同じだ。吸入すると体内の水分と反応し、肺の中で塩酸が生成される。呼吸困難で死に至るほどの猛毒だ。
 昭和二十年八月十五日、日本の敗戦が知らされると、軍事裁判での処刑を恐れ全国各地で砲弾や毒ガスの隠蔽工作が始まった。和歌山でも、進駐軍が和歌山港に到着するまでの一ヶ月間、多くの砲弾が処理されたことが記録に残っている。砲弾の手っ取り早い処分方法は海洋投棄だ。船で運んで投げ捨てるだけ、労力の軽さは陸上埋設の比ではない。現在でも、日本の海には回収し切れていない旧日本軍の砲弾が多数残存している。また、米軍から投下された不発弾も多く眠っている。昭和四十七年には、新潟港で港湾工事中の浚渫船海麟丸が不発弾によって爆沈し、死亡事故まで起きているほどだ。毒ガスもどこに埋まっていても不思議ではない。
 毒ガス製造は罪が重たく裁判にかかればまず処刑になる。そのことから、開発製造も敗戦後の処理も極秘裏に行われた。
 現在、政府も調査中だが、実態はほとんどわからない状態だ。番組は、最近、九州の苅田港で三十九発の毒ガス弾が出て、港湾工事が中止になった。解説者は図表を使って丁寧に説明を続けた。
「あっあのヨット」
 勇一が声を上げた。浩也も目を丸くした。テレビは歯医者の贅沢な私生活に焦点を当てていた。
「こんなんでまだ金が欲しいってか」
 勇一が言うと、傍に座っていた老患者が相槌を打って笑った。ニュースは次の事件へと移った。
 三人は病院の中庭に出た。おそらく、亡くなった歯医者は隆三から相談を持ちかけられ、古文に詳しい知り合いの高校教師に頼ったのだろう。二人は解読をすると隆三らに伝え、後は・・・・・・、浩也はそれ以上想像することを止めた。
「ワイもあの木箱は、お宝なんかやなしに米軍の捨てた何かやないかと思うたんやけど、まさか毒ガスや何て思いもよらなんだわしょ」
 勇一は淡々と語った。
 終戦後間もなく、和歌山港に進駐軍が到着した際、アメリカ兵達は沢山の物資を海に投げ捨てた。長旅で古くなった食料品やゴミを、船の上から投げ捨てたのだ。漁師達は船上からその様子を見ていた。日本は、食料も物資も枯渇した時代である。進駐軍が大阪に向かっていなくなったのを見計らって、潜水士たちは海中に潜ってそれを拾い上げた。物資は、コンビーフの缶詰やビールの詰まった木箱だった。勇一は、そんな話を親父や潜水士仲間の年配者からよく聞かされていた。だからそのたぐいの物資ではないのかと、海底で最後の木箱にロープを結わえる時に思いついたと言うことだ。
 上船したら、そのことを言って中身を確認するつもりでいたらしい。が、その後に捨て石の直撃を食らって気を失ってしまった。
 後は、勇一の捨て石直撃騒動でみんなの関心がすっかり木箱から遠のいた。
 勇一の捨て石直撃がなかったら、もっと別の展開になっていただろう。下手をすると自分たちが同じ目に遭っていた可能性だってある。
 浩也は勇一が気が付いた時、「つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の呪いやしょ」と言ったことを思い出した。そして、捨て石が飛んできたから良かったのではないのかと思い始めた。
 あれは、剛右衛門の呪いではなく、まっとうな人生を遅れという忠告ではないのか。恐らく剛右衛門は財宝を隠したのではなく捨てたのだ。浩也はその時の状況を想像した。
 表の顔は廻船問屋、裏の顔は海賊の親分として悪事の限りを尽くしてきたつむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)。
 表の世界も裏の世界も、結局世の中金による世界で人間関係が成り立っている。それは金を奪おうとしての、ドロドロとしただまし合いや殺し合いの世界だ。
 つむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)の時代も、今の時代も大金を前にして生じる人間模様に変わりはない。 浩也は、時代こそ違え未だに変わりのない人間の心にやるせなさを感じた。死期を悟った剛右衛門は自らの人生を顧みて、莫大な財宝をめぐる親族の末路を憂えたのではないだろうか。こんなものは誰にもわからないところに捨てたほうがよい。人間は汗水垂らして働いて、自分が生きていけるだけの糧があればよいのだ。そう考えたにちがいない。
 だとしたら、あの山立ては剛右衛門には必要なかった。剛右衛門と財宝を乗せた船に必要だったのは、行き帰りの見通しだけ、つまり狐の出会う友が島への行き帰りの目印だけでよかった。神無月と和歌山城を山立てたのは、その船を漕いだ地の漁師だろう。やはり、財宝の欲に目がくらんだのだ。漁師は、真っ暗な海で櫓を漕ぎながらもう一線を決めるための二つの明かりを探した。目に入ったのは、神無月と和歌山城だ。漁師は、友が島のかがり火を一致させながら、神無月が和歌山城の真上に来るまで櫓をこぎ続けた。
「剛右衛門さま、この辺りが潮も速く紀ノ川の土砂も埋まりやすいところです」
 漁師はそう言って、神無月が和歌山城の真上に差し掛かった所で船を泊めた。
 そして、それを誰かに言って書き留めてもらった。それが、あの古文書ではないのか。
「ワイは石に当たって良かったんやしょ」
 リエが怪訝そうな顔で勇一を見上げる。
「そんなもん見つける暇があったら働けって。親父も天国でわかったんやしょ」
 勇一はガラにもなく目を潤ませた。
「馬鹿な親父を許いちゃってくれえや」
 勇一は浩也に頭を下げた。
「やっ止めてください。誘ったのは私の母の方なんですから」
 浩也が言うと、リエが二人の間を割るように進んでベンチに腰を下ろした。浩也と勇一がリエに目を移す。リエは中庭の色づいた楓を見上げていた。
「四十九日に行く?」
 リエは独り言のように言った。
「行きましょう」
 浩也が言うと勇一も頷いた。
 隆三の四十九日が行われた後、三人は再び隆栄丸に乗り込んだ。浩也と勇一は、隆三の好きだった酒と鯛の刺身、友子の好きだったコーヒーとメロンを積み込んだ。リエの手には花束が持たれている。浩也は手慣れた様子で舫ロープを外すと船に飛び乗った。隆栄丸は心地よいエンジン音を立ててゆっくりと離岸した。
 澄み切った高い夜空に、上弦の月が浮かんでいる。浩也は揺れる船に身を任せて空ばかり眺めていた。隣に座ったリエも膝を抱えて同じように空ばかり見ている。
 港外に出ると、隆栄丸は大きく船体を傾け雑賀崎に舳先を振った。リエの体が遠心力に押されて浩也に寄り添う。船が傾きを取り戻し直進体勢に入っても、リエは浩也に寄り添ったままだ。リエはゆっくりと浩也の肩に顔をもたれかけた。リエの細い髪の毛が浩也の頬を撫でる。浩也は刹那母の匂いを思い出し、リエの髪にそっと手を添えた。気付いたリエがゆっくりと顔を上げる。
 三人を乗せた隆栄丸は、一定の隆起を繰り返しながら山立ての場所へと向かっていく。
 それは前進するというよりかは、むしろ水平線の向こうに浮かぶ夥しい星空に向かって登っているようでもあった。

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