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神様からの招待状〜ローマ人への手紙10章〜ゆっくり通読しよう

1.ユダヤ人たちは何に熱心だったのか

神に対して熱心だったとありますが、何がよくなかったのでしょうか。
彼らはユダヤ教と先祖の伝承に、律法については自らの義を立てることに熱心でした。自らの義は不完全で、神様の完全な義を退けるものです。

日常生活の中で「自分が、自分が」の思いは、神様に焦点を合わせてないと、ぐんぐん頭をもたげてきます。人に認められたい自分、主張したくなる自分、人よりよくできると思ってほしい自分。でも、そんな自分は脆くて少しのことで崩れます。
私を大切だとしてくださる神様の揺るがない評価に目を向け、それゆえに自信を持つ必要に気づかされます。

天国へ行くのに、自分の正しさを主張する必要はなく、神様の方から招待状を用意し、救いの手を差し出してくださっています。

2.主の御名を呼び求めるものはみな救われる

13節から15節を逆から辿ると救いのステップが書かれていました。

①神様から遣わされた人と出会う。
②その人から宣べ伝えられる。
③宣べ伝えられたことばを聞く人がいる。
④聞いたことを信じる人がいる。
⑤信じた人は主の御名を呼び求めて救われる。

①が多くても⑤は少ないことを、
イザヤは

「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」  16節

と嘆いたのでしょう。

信仰は聞くことから始まります。
聞くことはキリストについてのことばを通して実現するのです。  17節

信仰は③から始まります。
キリストについてのことばとは、救い主についての旧約聖書の預言のことばでしょうか。イスラエルの民は聞いたのに、イエス様を救い主と信じませんでした。聞いて信じるのは聞く側の責任ということだと思います。

2017新改訳で、ひらがなで『わたし』となっているのは神様のことばです。

「わたしは、終日、手を差し伸べた。
不従順で反抗する民に対して。」  21節

神様は今も、背を向ける全ての人に忍耐し、手を差し伸べてくださっています。

⑤で救われた私たちには、①にもどり今度は自分が遣わされた者となり、受け取る人がたとえ少なくても、神様からの招待状を届ける少なくとも②までの責任はあるのだと思いました。

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参考---ローマ人への手紙10章(2017新改訳)---


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