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神の啓示〜ローマ人への手紙1章〜ゆっくり通読しよう

パウロからローマの聖徒たちへ書簡です。冒頭から、パウロのローマへ行きたい気持ち、共に励まし合い実を結びたい思いが、伝わってきます。

1.福音とは

さて、パウロが、ローマへ行って
「ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たち」に、ぜひ福音を伝えたいと綴っているところに目が留まりました。すでに福音を聞いたから聖徒となったのではないの?と思ったからです。

さぁ、ここに可愛い孫がいました。優しい子で、教会学校に行っています。その子がおじいちゃんに言います。「おじいちゃん、一緒に教会に行こうよ」。おじいちゃんは孫に会いたくて教会に行きます。日曜日が楽しみです。そして、信仰を持ちます。
孫はやがて大人になります。社会人になって教会に行きにくくなってきます。教会に行っても、もう可愛い孫はいません。おじいちゃんは、自分の信仰と向き合い、つぶやきました。「わしには神様が治める世なんてどうも夢物語にしか思えないなぁ」

ただただ悲しいです。これから安心して天国への道を歩んでゆけるはずなのに。でも、これがもしかしておじいちゃんが「福音」と向き合う第一歩なのかもしれません。

パウロは、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と書いています。
福音とは、『信仰に始まる』だけでなく、『信仰に進ませる』もののようです。そうか、福音とは、イエス様の十字架による罪の赦しのことだけでなく、聖書に書かれていることすべてなのだと今更ながら知りました。

2.神を知っているということ

こんな話もよく聞きます。
あるお母さんがいます。よい子になってほしいと思ってお母さんは自分の子どもを教会学校に通わせます。子どもは素直に神様を信じます。子どもはやがて大きくなります。ある日、お母さんは子どもに言います。
「あんまり、のめり込むのはよくないよ。」
このお母さんは子どもが小さい頃は嘘つきだったけど、正直者になりました。でも真実は、以前は正しいことを行ってたのに、嘘つきになってしまったということだと思います。
お母さんにそう言われて、教会から遠ざかる子どももいるでしょうし、なおも信仰に歩む子どももいるでしょう。

もし何も情報がないとしたら自然を見て人は畏敬の念を抱くでしょう。すべてを創った神を意識するように人の心の根底にインプットされているのではないかと思います。
でも、現在は違います。周りの人が神などいないと教えてくれるからです。そしてそれを信じます。ある人は盲目に、ある人は不完全でもっともらしい論説やデータから。
だからと言って心の根底にインプットされているものがなくなるわけではなく「私は神を知らなかった」という言い訳は通用しないようです。

3.人の弱さ 

📖信じる対象

神様を信じない人々も代わりに何かを信じているのだとよく聞きます。
それは、無神論自体であったり人が造った神、あるいは自分自身であったり他の誰かかもしれません。でもどれも地上においては不確かで、永遠においては悲惨です。自ら、天国を拒否したからです。
神様のいない世界を生き抜くために、地位、名誉、財産、愛などを求め、それが行き過ぎたり間違った方向に行くと、不健全な欲となり快楽となるのではないでしょうか。
そして、この地上においてでさえ、身を滅ぼしてしまうことがあるのではないでしょうか。

完全な愛、そしていずれ来る神の国では地位も名誉も財産も、それぞれにふさわしいものを神様は用意してくださっていることを心に留めたいと思いました。

📖してはならないこと

神様が『してはならない』と言われるすべてのことに潔白な人は誰もいません。人はそれぞれ、弱さを持っているからです。
神様が忌み嫌われる行為を、開き直って肯定したり容認したりする人々に対して、神の怒りが天から啓示されているのではないでしょうか。

どんな罪も悔い改めれば赦されます。究極の罪、決して赦されない罪は神様を認めないことなんだと思いました。

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参考---ローマ人への手紙1章(新改訳2017)---


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