見出し画像

選びの器、あわれみの器、怒りの器〜ローマ人への手紙9章〜ゆっくり通読しよう

パウロは、イスラエルの人たちに重荷を持っていたようです。自分が救われなくてもいいから、救われてほしいとまで思っていました。パウロ自身がかつて同じようにキリストを拒否する者でありあわれみにより救われたからでしょうか。

1.三つの器

神は絶対的な創り主、陶器師にたとえられています。
三つの器が出てきます。
選びの器
あわれみの器
怒りの器です。

選びの器は、神様があらかじめアブラハムの子孫と定めた人たちで、時代時代で固く信仰を貫いた人々です。イサク、ヤコブと続きます。必ずしも長子でなくて神様が定めた約束の子です。
尊いことに使う器です。
この人たちがいたから、イスラエルはソドムやゴモラのような全滅を免れました。

あわれみの器は、選びの器以外のユダヤ人や異邦人の中から、神様があわれみにより救おう定めている人々です。
普通の器です。

怒りの器は、神様を信じない滅ぼされるべき人々です。神様はファラオを頑なにされたようにこれらの人々の心を頑なにされたとあります。

すべてが神様の意図なら人に責任はない、と非難することはできません。神様が絶対的な創り主だからです。理由は作り手の領域で、作品には分からなくて当然ということです。

2.あわれみの器に心を砕かれる神様

あわれみの器と怒りの器は、イエス様を信じるか信じないかで分けられました。信じない人にとってイエス様はつまづきの石、妨げの岩となりました。

二つの器を分けるものは、神様のご意思であると同時に、人の自由意志による選択でもあり、この二つはなぜか必ず一致するようです。
神様は怒りの器を忍耐をもってあわれみの器に変えることもできる方です。私たちには、目の前の器が、どんな器なのかはわかりません。神様が定められています。なので、結果はおまかせで、キリストの愛を伝えていっていいのだと思いました。

また、神様は選びの器も怒りの器も用いて、あわれみの器のために栄光を現わされるとあります。
欠けの多い私たちあわれみの器を、特に愛し、いつくしみ、心を砕いて下さっていることがわかり、心に迫るものを感じました。

3.神の栄光

さて、神様が現わされる栄光とは何だろうと思いました。

弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
ヨハネの福音書 9:2-3

この箇所を思い出しました。

わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ   15節


このことばが、問いの答えに通じるのではないかと思ったからです。

神の栄光とは、神様が、あわれまれること、いつくしまれること、滅ぼされること、そして愛されること、退けられること、さらに神様のなさるすべてのことでしょうか。
それは絶対的な主権に基づくものなのだと思いました。

-----------------------------------------------------------------------------------

参考---ローマ人への手紙9章(新改訳2017)---


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?