見出し画像

2023.10.31 岡山へ/もうすぐ1周年

岡山みやげセット (〜11/3)

先日、岡山の親族のところへ数年ぶりに行ってきた。なんだかこの頃、ふとした瞬間に(山に行きたい……)と繰り返し思う時があり、自然に飢えているような感じだったのだが、岡山に行って帰ってきたらその気持ちはある程度おさまった。実際に山に登ったわけではないので、山に行きたいという気持ちを宥めるのに必要なのは、別の何かだったらしい。田舎の空気に触れることなのか、東京からある程度離れた土地に行くことなのか、いつもと違う場所で過ごすことなのか。なんだったのかはっきりとはわからないけれど、自分はおそらく似たような日々を繰り返すことや、都会があまり得意ではないのだと思う。だからたまに旅に出たくなる。
じゃあなぜずっと同じ場所に居続けることとなる「店」というものを、わざわざ東京でやっているのかと問われそうだ。もちろん毎週同じ時間、同じ場所に通い続けるということは状況としてあるけれど、それ以上に常に「次は何をしようかな」というわくわく感がある。また、それらを実行することを誰かに止められず、自分の思うままとりあえずやってみることができる、という自由もあり、おかげで飽きずにたのしく続けられているのだと思う。そして何より、ころころと変わり続ける店を面白がって足を運んでくださるお客様がいるから続けられる。改めてこのような機会に恵まれたことをありがたく思う。11月4日で1周年。あっという間だったなあと感じられるのは、それだけ楽しんでできたということだろう。重ね重ね、ほんとうに、ありがたいことである。

今のところまだ続けていきたいと考えているし、閉店の予定もないけれど、急に気が変わって、さてそれでは今日でおしまいです、なんて言うかもしれないので、ぜひ店のあるうちに立ち寄っていただけたらと思う。こういう何周年という節目の時、普通はこれからも末永くよろしくお願いしますと言うものなのかもしれないが、ひとりで店をやっていると、自分が死んだらこの店もおしまいなわけだし、何も確かなことは言えないなあというのが正直なところである。せっかく1周年だというのに話がこのような方向に来てしまったのは、少し前に大好きだった店が店主の死去により閉店し、人の死=店の死、となることについてこの頃ずっと考えていたからかもしれない。先日この話について友人は、閉店後に話題になるのって、死後評価される画家みたいだよね、と言っていた。しかし絵はモノとして残る一方、店はその空間・時間ごと消滅してしまい、モノとしては何も残らないので、こっちはなんていうかほんとうにほんとうの手遅れだよねという話になった。気になっている店はできるだけ早いうちに行くのがいいというのは確かなことだと思う。行けなくなってから行きたかったと惜しんでも遅いのだ。

長々と書いてしまったけれどこの「店の死」の話に特に結論はないので、このあたりで岡山の話に戻る。夏に金沢に行った時に、兼六園に心動かされ、日本三大庭園を制覇しようという計画を密かに立てていた。というわけで今回は後楽園へ。


天気にも恵まれ、庭園全体が樹々で囲われて外の建物などが見えない(岡山城だけは見える)おかげか、ここだけぽっかり別の世界が広がっているような感じがあり、なんだかどこにいても解放感があった。

どこかにあった巨大な石(岩?)を90個に割って、庭園の中まで運んで、もう一度組み立てたというもの(大立石)があり、薬剤などで石同士が接着されているわけではないのに崩れることなく組み立てられてここにあることに驚いた。城の石垣を作る人たちにとっては、こんなのは簡単なことだったのだろうか。

大立石

個人的には流店という、川の中に設られたお休み処のような建物が気に入った。
靴を脱いで座って休めるスペースの合間に川が流れていて、その川にはきれいな色の石が配置されている。川のゆらめきに反射した光が建物の扉や天井に映って、なんとも安らぐ空間だった。

流店からの眺めと扉に映る川のゆらめき
流店

年末年始のどこかで茨城の偕楽園に行けたらと思っており、それをたのしみに今年も残すところ2ヶ月、ゆるりとがんばろうと思う。

それではまた、cafe gで会いましょう。

cafe g の運営費用に充てさせていただきます。