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ダムタイプ新作 《2020》の〝穴〟を考える

こんにちは、サノです。

先日、日本を代表するアーティスト・コレクティブ「ダムタイプ」による新作パフォーマンス《2020》の上映会に参加した際の、覚書にも似た感想をここに書いておきたいと思います。

KYOTO PARK STAGE 2020
ダムタイプ 新作パフォーマンス「2020」上映会
2020年10月16日(金)~ 10月18日(日)

dumb typeとは

1984年に結成。ヴィジュアル・アート、映像、コンピューター・プログラミング、音楽、ダンスなど、様々な分野の複数のアーティストによって構成される。京都を活動の拠点とし、プロジェクト毎に参加メンバーが変化して制作される作品は、既成のジャンルにとらわれない、あらゆる表現の形態を横断するマルチメディア・アートとして国内外で発表されている。2018年にポンピドゥー・センター・メッス(フランス)で個展「DUMB TYPE: ACTIONS + REFLEXIONS」を開催、2019年には新作やアーカイブを加えてバージョンアップした展覧会が東京都現代美術館にて開催された。2022年に予定されている第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館出品作家に選出されている。(KYOTO PARK STAGE 2020 HPより転載)


新作《2020》の公演を中止、上映会で開催

本来この新作パフォーマンスは、KYOTO STEAM-世界文化交流祭-2020にて、2020年の3月に公演予定でしたが、この度の世界的な感染症の拡大を踏まえ、残念ながら直前で中止となってしまっていました。

2020年は日本にとってはオリンピックイヤーでもあり、本公演はダムタイプにとっても18年ぶりの新作でもあり、期待と希望に満ちる記念すべき年がまさかこのような状況になるとは、1月に開催された通し稽古の際にはメンバーの誰もが思っていなかったに違いありません。

感染症拡大の状況が予断を許さない重苦しい状況下でも、こうして今回KYOTO PARK STAGE 2020の一環として、無観客収録したものを上映会という形でも披露してくれたことは、関係各者の並々ならぬ御苦労の上にあるということは言うまでもありません。(客席数を減らし、運営側と観客側の双方からの十分な感染症対策も行われた。)

感想①:ダムタイプの声

《2020》は3日間にわたり2回公演ずつ、計6回の公演が行われ、各回上映終了後にはダムタイプメンバーによるトークが行われました。この記事は初日の2回目公演の薮内美佐子さんと古舘健さんによるトークを踏まえたものですので、他の公演に参加された方とは少し見方が違ってくるのかもしれません。だがそれこそがダムタイプ、ということでご容赦いただければと思います。

公演後のトークイベントでは、この《2020》が2年をかけて制作された大作であったことが、藪内さんや古舘さんから語られました。

古舘さんからは「メンバーの長い議論に基づいて作品制作を行うという、ダムタイプのディレクター不在の民主主義という半幻想をどのように作れるか」への関心が語られました。確かに、《2020》という作品タイトルを古舘さんは〝ニーゼロニーゼロ〟と呼び、藪内さんは〝にーれーにーれー〟と呼んでいたように、この作品の視点は1点に収束することなく、メンバーそれぞれの多視点によって行なわれていたことをうかがわせました。

感想②:部分の集積による作品の全体性

ダムタイプの作品に通底するテーマであるテクノロジーと身体性に加え、今回の公演にはコミュニケーションというテーマも盛り込まれていました。「テーマは決めたような気がするが、その深堀は個々人によって進められた。」という藪内さんの言葉にもあったように、作品は性格の異なるシーンが線形的に接続されており、大きなテーマによって全体のフォルムを決定するのではなく、濃密な個々人の小さなテーマの集積によって全体像が成されていました。

部分の集積による全体性の獲得。これを都市論的文脈に乗せて考えてみると見えてくるものがありそうです。ダムタイプの作品は国家や権力によるトップダウン型の近代的都市でなく、ボトムアップ型の集落的都市の成り立ちと似た構造を持っており、全体を組み上げる主義はあくまで民主にあり、本作品も「主観的な集合体のモデルとしてのクリエイティヴ・トライブ」(長谷川祐子『The Dumb Type effect,1984 to the present』より/河出書房新社/ DUMB TYPE 1984 2019)による作品であるということが、公演から読み取ることができるのではないかと思います。

感想③:穴

加えて、今回の作品の特徴は、舞台中央に配された〝穴〟にもあります。それが穴であるか、それとも床へのペインティングであるかは、フライヤーや写真では観るまで判然としないのですが、全てのシーンはこの穴の周りで展開されています。舞台中央に穴があるという構成は、振り返ってみると直接的でないにせよ、これまでのダムタイプの作品群の中にも見出すことができます。

ダムタイプの中心的メンバーであった古橋悌二さんがいた最初期には既にその萌芽が見られ、《広場の秩序》1985では空の箱という〝不在〟が登場し、《庭園の黄昏》1985では敷き詰められた砂の中心に池という〝不可侵〟が登場します。《036-Pleasure Line》1986と《サスペンスとロマンス》1987では非中心性によって逆説的に〝中心の不在〟が想起され、《pH》1990では場を拘束する強いオブジェクトが登場します。

《2020》においても〝不在〟を中心に抱え、その周りで舞う様はまさに日本の祭りの構造そのものであり、ロラン・バルトによる著書「表徴の帝国」(宗左近 訳/ちくま書房/1974)の中で日本の都市空間について指摘した「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」という言葉を引き合いに出すまでもなく、本作品は穴という空虚によって物語の骨格が成されています。それは極めて日本的な空間を作品の中に内包していると言えるのではないでしょうか。

また、高谷史郎さんは記事の中で、《2020》という作品に対して「アーカイブのような作品ではなく、昔の作品を踏み台にして、全然違うものが出てきたらおもしろい」(美術手帖2020.1.9)と述べられているように、本作品はあくまでこれまでの文脈の上にあるということを述べられています。《2020》における穴は不在そのものであり、これは先述したダムタイプの「ディレクター不在の民主主義という半幻想」の象徴とも読み取ることもできるのではないでしょうか。

ダムタイプの〝不在〟

こうしてこの穴を、私は日本的なるものと接続して解きほぐしてみようと試みましたが、おそらくダムタイプのメンバーはこの穴の意味を、それぞれ別の意味で捉えているに違いないと思います。まさにその多視点、多義的なメッセージを含んだ作品づくりこそがダムタイプたるところです。

今回もまた、とても刺激的な作品を拝見でき良い刺激となりました。


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