今後のために

恩人の無事が確認できた。
ご家族も無事とのことでお話が聞けたので、明日は我が身と書き留めた内容を雑ながらここに残しておく。

※1/1から1/4までの話です。

回線が使えなかった(使えたのは一部のみ)

  • 震災直後から恩人のスマホはずっと圏外で、固定電話も使えず、その時点で外部と連絡とれていたのは家族のスマホ(他社)のみ

  • Wi-Fiも使えない上に緊急時用に公開されてるというフリーWi-Fiも、大きな店舗がない田舎のどこで解放されていて繋がるのかわからなかった

  • しばらくは家族のスマホから連絡できる範囲でのみやりとりしていて、県内外に住む親戚にだけは安否を伝えられた

  • 1/3あたりで回線が復旧。LINEやディスコ等で繋がってる友人・知人に連絡することができた

  • 入れ替わりになぜか家族の回線が繋がらなくなった(復旧したのは1/8)

家と車の両方でテレビが見れず、情報はラジオのみだった

  • 家は停電の影響、車の方は不明だがテレビがまったく見れない状態だった

  • かろうじてラジオだけ聞けていて、地震直後は「津波がきているから逃げて!東北の震災を思い出して!」というアナウンサーの声がずっと流れていた

  • 最大予想で5mと聞いて急いで車にのって現場からさらに高い場所へ一時避難

  • 道はヒビ割れやマンホールの隆起でボコボコになっていて綺麗な道はほぼゼロ。ただそこしか道がないので避難してきたらしき車がたくさんいて立ち往生する車と構わず突っ切る車で分かれていた
    (誰も何もわからなかったので通るかどうかは自己判断・自己責任という状況だった)

  • もともと山側の高い位置にいたのもあって津波の影響はなく、集まっていた見知らぬご家族と情報共有して30分後くらいに家に戻った

電気と水が使えない

  • 家の中がぐちゃぐちゃになったものの建物自体は無事だったため、家族が寝られる分の場所だけ確保して一夜を明かした

  • 1・2日は震度3〜5の余震が5〜10分置きにくるためほとんど眠れなかった

  • 停電だったためライトはただの板と化した自分のスマホか、ぐちゃぐちゃの物置から引っ張り出してきた懐中電灯一個のみ。

  • 電気が使えずホットカーペットやヒーターが使えないので、家中の毛布と布団をかき集めコートを着たまま布団を被った

  • それでも冬の北陸は寒く、物置を漁った時にたまたま見つけた未開封の貼るカイロを腰と足に貼ってなんとかした
    (何度も貼り替えながら、最終的に首の後ろから背骨あたりが温まるように服に貼り付けた時が一番効果を感じたらしい)

  • 数泊する分の着替えはあったが洗濯がいつできるかわからないため1/4まで同じ服を着ていた(真冬で汗をかかなかったのもあり)

  • 車で過ごすことも考えたが、ガソリンが供給されるか不明なまま今減らすのはよくないだろうと家族で話し合い、我慢した

避難生活

  • 被災の翌日、ボコボコで走れる道路が限られているため運転に自信のある身内が車で近隣の様子を見に行ったり情報集めに走った

  • トイレは水がこないので小の時だけ使った(大はもう使ってない畑へ)

  • 飲料は備蓄していた2Lのお茶や箱買いしているジュース等で凌ぎ、それ以外に使う水は農業用水や川から汲んで使った

  • 外に出ていた身内が電気が通っている地区に住む知人からストーブを借りてくれたおかげで二日目以降は暖が取れた

  • 三日目あたりにかろうじて連絡が取れていた加賀あたりに住む親戚に水とストーブを買ってもってきてもらえないか確認した時に、初めて今回の地震がかなり広範囲だと知った(先方も地震の影響で必要物資が枯渇してた)

  • お皿にサランラップやナイロン袋をかぶせて洗い物がでないようにした

今回の地震について

  • 地震速報が2回あり、1回目の揺れは短く、震源地から家族は『いつものやつ』だと思っていた

  • 2回目の速報で流石におかしいと思い、熊本地震の映像を思い出して玄関を開けに走った。ドアを開けたあたりで揺れが激しくなり家の置物が落ちるガラス音が響いたところで震度6強クラスがきたと思った

  • 激しい横揺れでつかまり立ちするのがやっと。玄関だったので外の様子が見え、少し離れた場所にある空き家が崩れて電信柱から垂れ下がった電線がずっと揺れていた

  • 2回目の地震は体感で1分弱くらいに感じたが実際はどうかわからない

  • 震源地が志賀町で震度7だったと知ったのは高い場所に避難して見知らぬご家族と会話した時

  • 1回目と2回目で震源地が違うため、前震かも、余震かも、といわれてもどっちの?と困惑。また10年くらい前にあった能登沖地震とも震源地が違うことが気になっている(そういうものなのか?)

不幸中の幸いだったこと

  • 家(建物)・車・家族が無事だったこと

  • 震災発生時はまだ積雪がなかったこと

  • モバイルバッテリーを満タンで持っていたこと

  • 未開封の貼るカイロが見つかったこと

  • 圏外になっていたのは自分のみで他社のスマホだった家族は繋がったこと

  • 年末に、もらったまま放置されていた大容量の除菌シートを見つけて開封したばかりだったので手拭きと除菌ができたこと

  • 年始のために大鍋で準備していた正月料理と買い置きの餅や野菜があったおかげでひとまず数日分の食事は確保できていたこと

  • 他所様からもらったお土産のチョコやお菓子があったこと

  • 真冬なので野菜や飲み物などは冷蔵庫の外でも多少の保存が効くこと

困ったこと

  • 一番足りないのは水。農家なので米の備蓄はあるが研ぐ水と炊く水がない。どうしても飲料が優先されるため風呂に入れない。田舎ゆえ山や井戸から水を得ている家もあるが、組み上げるポンプは電動なので電気がないと使えない。

  • 電気。停電から回復しないので暖をとる手段がストーブか車。家には普通のヒーターしかなかったのでストーブを借りられただけ良かった

  • 燃料。灯油は年末に買ってあったのでなんとかなったが、ガソリンは車にある分しかないので補給の目処がたたないうちは下手に消費できない

  • 情報。回線が遮断されまくっていて得られる手段がラジオしかないが車でないと聞けなかった。近隣でさえ誰が無事なのかわからなかった(同郷の友人が亡くなったことを後で知った)

  • 1/4時点でも物資が届かなかった。おそらく大小さまざまな避難所が各所にあって大きい場所にはきていると思われるが集落レベルの小さい場所には届いていない。連絡網もないのでいつ来るのか、そもそも気づいてもらえているのかも現地じゃわからない

  • ひとまず金沢まで出ようと思っても、どの道が通れるかの道路状況がわからないため車があっても下手に動けない

道路状況がかなり悪い

  • タイヤがパンクしてもおかしくない鋭利な亀裂が多く、乗り越えるにはゆっくり走るしかないのでどうしても渋滞する。三角コーンが全部に置かれているわけじゃなくどこが通れるかは現時点では目視。目で見てわかりやすく陥没してるわけじゃない

  • かろうじて走れた道はコンパクトカーがギリギリすれ違える幅の道路。片側通行も標識や信号があるわけではなく譲り合いでなんとかしている

  • 少なくとも奥能登から内灘方面までコンビニもSAもトイレが封鎖されていて使えない。通常は1〜2時間程度の道も2倍以上かかっているので、片道4〜6時間ほどの道のりをトイレなしで行く状況

  • 家族の支援に物資を揃えて戻りたいが、道路がもう少し回復しないと厳しい(被災地に家族がいる人をマイナンバー等で判別して通してくれるなら助かるが、そこに人員が割けないのもわかるから悩ましい)

備えておいたほうが良いと思ったもの

  • 最低でも一週間は賄える飲料水と食料。正月だったので保存が効く食べ物があったが普段ならおそらくなかった

  • ラジオ。ネット回線・電話回線・テレビが使えない状況が起こり得るとわかった今となっては必須アイテムになった

  • 水のいらないシャンプー、顔・体を拭くシート。実はシャンプーは防災用に買ってもっていたが、まさか正月に被災するとは夢にも思わなかったので持参していなかった

  • 内にも外にも使える服装一式(軍手など手袋も)。帰省だったので今回は服一式とそれを運ぶカートがあって助かった

  • バッテリー系。回線が復旧するまではただの板と化したものの繋がるタイミングは必ずあるのでモバイルバッテリーは必須

  • 懐中電灯。スマホにもあるけどバッテリー消費に影響するので専用で一本はあったほうがいい

  • 貼るカイロ。この季節ならいる。

  • 浄水器。仮に水道が使えても濁っている可能性が高いので飲料用にするための浄水器は携帯しておいて損はない