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子供の頃にいじめられてても、人生意外と何とかなるよ、という話。

今年で24になる。
でも、いまだにあまり、というか誰にも打ち明けてこなかったことがある。

私の「いじめ遍歴」

私は小・中学生のころ、よく『いじめ』を受けていた。
なぜだか、小さい頃はどの環境にいても『いじめ』の対象になることが多かった。
通っていた学校でも、習っていた空手の道場でも、場所を問わず私のことを気に食わない、面白く思わない人間が必ずと言っていいほど現れるのである。
このnoteを通して、「僕ってこんな風にいじめられてたんだよ!」と言いふらしたいわけではないので、具体的な内容については割愛するが、
『いじめ』というものとの向き合い方について、自分なりに書いてみようと思う。

どうやって『いじめ』を乗り越えたか

…という表現は少し事実とは異なるかもしれない。
「耐え抜いた」「逃げ切った」といったほうが的確かもしれない。
というのも、実のところ私のことをいじめていた連中に何か反撃したわけでも、一矢報いる事に成功したわけでもなかったからだ。
当時の私には、そんな力も度胸も余裕もなかった。

どれくらいの人が共感してくれるか分からないが、いじめられていた当時、私が最も嫌だったのはいじめを受けていることそのものではなかった。
両親やいじめに直接加担していない同級生、学校の先生などといった「第三者」に、「私がいじめを受けている」という事実を知られてしまう事だった。
そして、傷ついている自分を見せることだった。

いや、いま冷静になって考えてみると、
最も嫌だったのは、「いじめられている自分を受け入れること」だったのかもしれない。
どこにいても標的にされる自分、嫌なことをされても何もやり返せない自分、そんな様子を同級生に目撃される自分。すべての「自分」が大嫌いだった。情けなくてしょうがなかった。

当時の私には居場所がなかった。
いっそ、しんでしまうのが楽なんじゃないかと考えることもあった。

人生の転機は思わぬところで突然訪れた

中学校に入学してすぐ、私は隣町にある学習塾に通うようになった。
隣町ということもあり、出会う人出会う人が新鮮で、私という人間とゼロから向き合ってくれる人たちとたくさん出会うことができた。

入塾したばかりの頃は、周りの子の学力にもノリにも圧倒されていたが、少しずつ授業にもついていけるようになり、奇跡的にその学年の選抜クラスのようなクラスで授業を受けられるようになった。
冗談のようだが、私の成績に比例して声をかけてくれる人も増え、話のできる友達も増えていったのだ。

不思議な感覚だった。人付き合いに困っていた私は、勉強というものに逃げた。なるべく学校にも家のリビングにもいたくなかった中学生の私は、塾の自習室や家の自室に籠り、日常から逃げるように勉強していた。

その結果、塾では一緒にいて楽しいと思える友達に出会うことができた。
「ただの偶然だ」と思う人もいるかもしれないが、これは紛れもなく私が勉強というものに逃げた結果なのだ。
勉強がなければ出会えなかった人はたくさんいるし、今の自分もきっとなかっただろう。

その頃からか、学校でいじめを受けても、別のところにいる友達の存在が心の支えになり、それまでのように凹むことはなくなった。
私に対するいじめそのものがなくなったわけではなかったが、うまく対処して、いじめと付き合っていくことができるようになった。

その結果、いじめは徐々に減っていった。
いじめている側のモチベーションは、いじめられている側が嫌がっている様子を楽しむことにある。
いつものようにいじめても以前ほど嫌がらなくなった私を見て、きっと面白くなくなったのだろう。
高校入学とともに(隣町の高校に入学したこともあり)、私はいじめから「解放」されることとなった。

苦しみの先にあるもの

ここまで書いてきて今さらではあるが、私はいじめをする人間を擁護するつもりは断じてない。

いじめは絶対的に「悪」である。

だが、ヒトとして生まれ、ある程度の集団生活を余儀なくされる現代社会の仕組みの中でいじめを根絶するのは、違法薬物を根絶するのと同じくらい困難を極める。
実体がない分、それ以上なのかもしれない。これは紛れもない事実である。

だが、本来その根絶に全力を尽くさなければならないはずの大人たちは何もしてくれやしない。自分たちの身を守ることに躍起になり、他人の苦しみなどには興味のない大人たちには期待をしてはならない。

だからこそ、もし運悪く自分がいじめられる側に立たされた時、うまく「対処」していかなければならないのだ。

対処ができなかったことによって、自ら「し」を選ぶようなことが絶対にあってはならないのだ。

どれだけ今が辛くても、
いじめっ子が憎くても、
不遇な環境におかれていようとも、
ヒトに生まれてきたことを後悔しても、

しんでしまっては「負け」なのだ。


いま、現在進行形でいじめを受けている人がどれくらいこのnoteを読んでくれているか定かではないが、
もしいれば、これだけは約束してほしい。

絶対に自ら命を断つようなことはしない、と。


「時間」というものはとても働き者で、じっと待っているだけで色々なものを変えていってくれる。
その時の状況、見える景色や視点などだ。
今では考えられないような「未来」を見せてくれる。

耐えて、耐えて、耐え続け、生きていれば必ず、生きていて良かったと思える時は必ず来る。
あなたの身体中にまとわりついているその「苦しみ」は、いつか必ず時間と共に消え去ってくれる。
無責任だと思われるかもしれないが、そう断言したい。

私は、あなたに生きていて欲しい。
生きたその先にある希望を捨ててまでする選択など、この世には存在しない。
生きて生きて、生き延びて、その先にいる自分や周りの人たちをいつか、目一杯幸せにしてほしい。
自分が受けた苦しみの分、人を幸せにできる人間になってほしい。

この腐ってねじ曲がった世の中、あなたが生きた不自然すぎる世の中、違和感を感じない方がおかしいのだから。
自分が受けた苦しみも、抱いた憎しみも全て経験とエネルギーに変えて、この狂った社会のケツをしばいてやってほしい。

その時が来るまで、ひたすら待ち続けよう。
そのためなら、逃げたっていい。気が済むまで泣き叫んだっていい。

心の底から生まれてきてよかったと思える、いつかの未来の「あなた」を守ってあげられるのは、今のあなたしかいないのだから。


うまく伝わったはわからないが、少しでもこの声が、その痛みに耐え、もがき苦しんでいる方のもとに届けばと思っている。


ここまで読んでいただいてありがとうございます。
ご意見、ご感想等コメント欄にてお待ちしております。


2020.02.24
takemaru


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