『合議制によるデザイン』について

「合議制によるデザインは概してつまらないものになる」というのは、大方はそのとおりだと思います。

会議で決まったデザインはAとBとCと…Nの平均点になって面白くないと良く言われる。それぞれのよさを生かす、際立たせるよりはむしろ曖昧にしてしまい、すなわち角を矯める結果になることが多いのだろうとも考えます。

たぶんそのせいもあってか、スティーブ・ジョブスはマーケティング・リサーチをまったく信用していなかったらしい。

ただ、「合議によるデザイン」がだめだと言うのは、やり方がうまくなかったからとも言えるのではないかという気もするのです。

たとえば、クラシック音楽に於ける室内楽の演奏(とくにソナタやトリオ、カルテットなどの小編成)においては、その方向性はどのようにして決められているのだろう。必ずしも、第一バイオリン奏者一人が決めているわけでもないのではないか(映画『カルテット! 人生のオペラハウス』ではどうだったろう。こうしたことを書いた小説を読んだ気がするのだけれど)。

AとBの2つのデザイン案が出た時に、うまく議論することができたなら(A+B)/2ではなく、 より魅力的なC案へ辿り着くことができうるのではあるまいか。

たぶん、創造行為あるいは芸術でさえも単なる個性の表現ではないはずだから(そして、それを実現しようとした人や人々は、現実のありように飽き足らず新しいものの見方や表現のし方を実現しようと務めたに違いない。すなわち異議申し立て)。

だとすれば、恊働(協力しあう分業も含めて)という新しい創造主体の形があってもよいし、ありそうだと想像(あるいは夢想)するのです。たとえば、ルネサンスの絵画や彫刻の工房や現代のウォホールの工房、そして個人として描きはじめた近代的な画家のアトリエの中間に存在するようなものが。

また、恊働と言いながらも、その作業は各人にとってはそれぞれの自己の確認作業でもあるだろう、とも考えます。

そしてもうひとつ、実業の世界での制作のやり方と、教育の場での差もありそうな気もするのだけれど。

もしかしたら、こんな風に考えるのは、自身が創造や創作の現場に足場がない、身を置いていないせいなのだろうか。

ただ今のところの、とりあえずの所信表明。(F)

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