「食卓に仕事を広げ」ることについて
生煮えの考えですが、ちょっと思いついたので*(ま、よく考えたところで、あんまり変わらないのかもしれませんが)。
この問題を考えようとして、3つのことが思い浮かんだ。
すなわち、ひとつは仕事の仕方。ふたつめは、仕事(をすること)の意味。みっつめは、恊働との関係。
まず、仕事の仕方が関係するというのは、住宅の外で仕事するのが基本かどうかということ。それが基本というのは、サラリーマン(産業革命以降に主流となった**)が多いはず。彼らは、主に私的な生活圏の外で仕事をする。蛇足めいたことを言えば、外での仕事の時間は、生活のためにお金と引き換えにした時間だから、家に仕事を持ち帰るのは、やむなく、ということになる。
その逆はフリーランサー(組織に属さない自由業)。彼または彼女は、自身で自分の時間をコントロールできるから家で仕事をすることを積極的に選ぶことができる(ま、クライアント等からの制約はあるにしても)。
ふたつめのことについては、仕事と生活は別ものというふうに考えるのか、仕事は私的生活の一部であるとする(大雑把にいえば、産業革命以前の働き方)のか。前者は、オックスフォードでよく聞きました(とくに、事務の人たち。仕事は、生活のためと割り切る人が多いようだった***)。
後者は、主にフリーランサーだと思うけれど、仕事が大好きという組織人の場合もあるかもしれない(今のぼくとは全く無縁だけれど、ワーカホリックという人たち)。積極的に仕事をしたい人たちは、 当然家でも仕事をするでしょう。
最後の恊働か役割分担かについて。役割分担というのは、これも産業革命以降に顕著だけれど、たとえば生活費担当か家事担当かが基本的に分かれている場合。この場合は(共働きでも、それぞれの仕事に関与はしないという時は、こちらに入るような気がする)、何も好んで家で仕事をすることもなさそう。
逆に、(うんと昔の、川に洗濯に出かけたおばあさんと山へ芝刈りに出かけたおじいさんのように)緩やかな分担があるにしても、積極的に夫婦や家族が互いの仕事に関与する(恊働)というような場合は、家で仕事をするのは当たり前だし、さらには食卓でやるのもごく自然のような気がするのです****。
で、ワタナベクンの場合は、仕事と(私)生活をあんまり分けたくなさそう(というか、地域社会と私生活を仕事の場を通じて積極的に関連づけたいよう)に見えます。でも、ぼくの場合は……と考えたら、ちょっとねえ、困った。
明日までに片付けなければいけないことが、まだ終わらない!
* それよりも5回連続が重要だ。 ** 生活のありようと産業革命の関係については、昔黒沢隆の本に教えられ ました。 *** と言って、彼らの仕事の仕方がいい加減だったというのではありません。
**** ただ、自立した個人の実現とは、また別の話し。
(F)