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雨の日の羨望_木村彩子_10

 わたしの兄は、一年前に失踪した。そのさらに半年程前、兄は長く付き合っていた恵さんという恋人を交通事故で亡くして、ひどく塞ぎ込んでいた。恵さんと兄は結婚を約束していた。一度挨拶に来てくれたときにわたしも話したことがある。だからわたしもかなりショックだったが、将来を共にする約束をしていたパートナーを突然失うことになった兄の心情は計り知れなかった。
 仕事も休みがちになってしまって、さすがに心配だったわたしは頻繁に食事を作りに兄の家へ通った。

 恵さんの話題は避け、なるべくいつも通り接するように心がけた。その頃はもう兄はずっとぼんやりしていた。
 それまで、仕事ではバリバリ働いて会社にも重宝されていたようだし、わたしにとっても頼りになる兄だった。その兄が、わたしが話しかけても「ああ」とか「うん」とかあいまいな返事をするばかりで、まともな会話もできない状態になっていた。わたしは正直いたたまれなかった。兄の家を訪ねて兄のやつれた姿を見るたびに心が痛んで泣きそうになった。

 どんどん弱っていく兄をそのままにしておくわけにはいかないと思い、わたしは兄にクラシックを聴かせることにした。いわゆる音楽療法にならないかと考えたのだ。CDやレコードはいくらでも持っていた。ラヴェルやチャイコフスキーなど、なるべく明るい曲を聴かせた。時々コンサートにも連れて行った。ずっと引き篭もらせているわけにはいかないと思って、無理やり外に引っ張り出した。
 その頃わたしは、わりと献身的に兄に尽くしていたと思う。恵さんの後を追ってしまうんじゃないかと、正直気が気じゃなかったのだ。

 ただ、時間というのも、現実を受け入れるには必要だし、実際それは兄を少しずつ復活させていたように思う。恵さんが亡くなってから半年余りが経ったころ、兄はだんだんと会話が通じるようになっていった。
 はじめは訪ねる度に荒れ放題になった部屋の中を片付けるところから開始しなければならなかったが、洗濯も掃除もある程度自分でできるようになっていた。もう少しで兄は、恵さんがいなくなった現実を正面から受け入れて前に進めるかもしれない。そう思っていた。しかし兄はわたしのそんな期待(少々勝手な話だが)を裏切っていった。

 外出も抵抗なくできるようになり、わたしとの会話も弾むようになって、むしろ兄の方から積極的に話すようになっていた気がする。

 ただそれは、いま思えば少し異常だった。会社へはその少し前に完全に行けなくなってしまっていたので、もうすでに退職の手続きを済ませていた。しかし、兄は仕事の話をよくした。自分はもう少しで昇進するところだったのに。きっとすぐに自分が必要になって会社の方から声をかけてくるはずだ、などと何度も話していた。また、今後の収入のあてがなくなったのにも関わらず、衝動的に高いバイクを買って、学生時代のやつらとツーリングに行くんだ、と張り切っていた。

 当時のわたしはそれを見て、少し鬱陶しいが自信も取り戻してきたようだし、積極的に出掛ける意欲も出てきたのはいいことだ、と呑気に思っていた。

#小説 #雨の日の羨望 #失踪 #雨

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