味のイメージを作り上げる(構成する)出発点

味わいのイメージを自分のなかで作り出していく過程(=「味覚表象構成」)として一番よくある誤解は,
主体(呑み手)と客体(酒)が別々に(二項対立的に)存在していて,主体が客体を認識する,というものである.
この二項対立的なモデルは,近代自然科学の当然の基礎というように思われている節があるが,単なる一つの「モノの見方」に過ぎない.

これに対して,僕が提唱している味覚表象構成の出発点は,「味(がする)」という事態あるいは経験,直接的体験である.

単純な例として,車と車の衝突をイメージしてみよう.
二項対立的なモデルは,出発点が二台の車(の存在)である.衝突がどのように起きるかというと,

車Aと車Bがある→二台の車が走ってくる→衝突する

という流れである.一方で,事態あるいは直接的体験から出発する認識というのは,

「何かが起きた!」→衝突だ→車と車だ(→車Aと車Bだ)

というものである.この衝突が自分の体験であれば,

「何かが起きた!」→ぶつかった!→自転車だ!

となる.まだイメージできない人のために,視覚を奪われたお化け屋敷を例にしてみよう.

「何かが起きた!」→ひんやりした!→こんにゃくだ

このお化け屋敷の体験において「私」と「こんにゃく」の存在とを出発点とするのはナンセンスであることはお分かりいただけるだろう.
本モデルがよって立つのは,「客観的」な,主体から離れた視点から事態を記述しようとするのではない,「体験そのもの」から出発する認識のあり方である.

味覚表象構成の出発点は,体験そのもの,つまり一杯の酒がどのようにして主体の認識に立ち現れるかということである.簡単に言うと,立ち現れるというのは「何かが起きた!」とわかる,ということである.

それではこんにゃく(と主体である「私」)は,衝突の例でいうと二台の車はいつ出てくるのか.
それは,立ち現れの後である.
立ち現れの後に,何が起きたのかを反省的に(内省的に)問うことによって,「対象」(と自己)が浮かび上がってくる.

市川浩の『〈中間者〉の哲学』(1990; p.192)の説明を借りれば,直接的体験としての立ち現れ(「何かが起きた!」)は反省以前の出来事であるが,反省によって(つまり何が起きたのかを考える,どんな味なのかを考えることによって)世界との関わりそのものが把握される.
そのときかかわりの両項として,〈対象〉と〈自己〉が析出する

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