愛国心とは何か

 おそらく左翼に属すると思われる私が、ここ2・3年で愛国心が重大な概念であると感じるようになったのは、今になって天皇崇拝や軍国主義に目覚めたからではない。ニュースで、政治家・官僚・大企業が、保身や所属するコミュニティーを守るために不正を行い、メディアや国会の場で国民を平然と欺いているのを見て、累積した違和感の震源地にある概念が愛国心だったのである。

 かつての私にとって愛国心というと、先にあげた天皇崇拝や軍国主義は極端な例だが、自国の文化の賛美、伝統的価値観の尊重などが、子供への洗脳教育や国家への忠誠や政治的イメージと絡み合い、右翼の人間にとっては「正義」を代替する言葉のようでもあり、「愛」という無条件に肯定される概念を含むその言葉を意識するたび、踏み絵を前にしたような嫌な気分になった。

 今の私は愛国心について全く異なる考えを持っている。まず結論からいうと、愛国心とは、「この『国』というコミュニティーで共に支え合って生きていく人々を大切に思う心」であり、国体や伝統などの概念は全く必要ない。「日本は素晴らしい国である」といった虚構も必要ない。愛国心が、国を構成するシステムや、そのシステムの出力(歴史・文化)への愛を意味するのであれば、問題が発生した際に、そのシステムを修正することに抵抗を感じ、社会の前進を阻むであろう(時事で言えば夫婦別姓がそれにあたる)。それはその社会にとって良い「愛国心」ではないし、そのような愛国心の定義が蔓延していれば、無条件に肯定する事に抵抗を感じる人々が多いのは当たり前である。

もちろん右翼的な「愛国心」の帰結として、私の定義した愛国心が生まれる可能性があることは否定しない。しかし必要不可欠なものではなく、害悪になることもあるのだから、教育に盛り込む必要はない。

 もし先に出した政治家・官僚・大企業に私の定義した愛国心があれば、この国でともに支え合い生きる人々のために、真実を明らかにして正義を行う気持ちがあるだろうが、全くそうはならなかった。国民への奉仕者という建前がある人々ですらそうなのだから、この国は末期状態と言うべきだろう。

 だから、私は新しい愛国心が必要なのだと考えている。すごくシンプルだが、「この国で共に生きる人々のために」何をすべきなのか考える。『日の丸』や『君が代』が嫌いでもいい。自分が所属するコミュニティーで、お互いに支え合い生きる人々だから、という理由で私には十分である。










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