対中制裁のあと?

4月9日付日経新聞は自民党外交部会人権外交プロジェクトチーム(PT)が9日の会合で中国に対する制裁手法を検討していると次のように報じています。

PTは9日、外務省と経済産業省を呼び、様々な制裁手法を聴取した。現行の外為法や出入国管理法を使い、資金凍結や入国制限を採用する手段も選択肢になり得る。PTや与野党による超党派の議員連盟は人権侵害を理由に外国当局者に制裁を科す「マグニツキー法」と呼ばれる法律の検討も進めている。米欧は制裁の根拠法としており、日本は未整備だ。米国は新疆ウイグル自治区での動きをジェノサイド(民族大量虐殺)と認定した。米国や欧州連合(EU)は3月、中国の新疆の公安トップらに資産凍結などの制裁を科した。

昨晩わたしはひさしぶりに1959年1月に公開された映画『大東亜戦争と国際裁判』を視聴し直してみました。

嵐 寛寿郎が演じる東条英機は総理大臣を拝命してからは一転して対米開戦に慎重となり和平の途を最後まで追求しますが、1941年11月26日に米国より手交されたハルノートを読んで、開戦やむなしという判断に傾きます。

ハルノートには

日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵

日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)

日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)

という、当時の日本にとって到底受け入れることができない要求が含まれていたからです。

なぜ、当時の米国政府は日本に対して妥協の余地のない姿勢で臨んだのでしょうか?

小倉和夫元駐仏大使は『吉田茂の自問—敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』(藤原書店、2003年)のなかで、第二次世界大戦後吉田茂首相(当時)が外務省に命じて作成させた「日本外交の過誤」という調書を取り上げ、その中で第二次世界大戦に至る10年ないし20年の間の日本の国際情勢判断の誤りとして以下の3点を挙げています。

1.中国大陸におけるナショナリズムの高揚とその歴史的意味に対する理解が不足し、徒らに中国の反日、抗日、侮日ばかりを問題とする方向に走ったことである。

2.欧州におけるファシストグループと民主勢力との間の争いにおいて、民主勢力が敗れるとの状勢判断を下していたことである。

3.米国国内において、排日移民法に象徴されるように、日本を「敵」とみなし、異質の侵入者とみなす人々の心情が、知らず知らずのうちに日本に対して懲罰的あるいは道義的アプローチをとる方向を強め、現実的な利害調整に米国政府が乗ってこないことについて日本側に深い洞察がなかったこと。

この3点のうち1について「反日、抗日、侮日」を「反米、抗米、侮米」へ、3の「日本」を「中国」と読み替えると、現在の米中対立にそのまま当てはまります。

日本が仮に米国を含むG7のその他の政府に倣って制裁措置を発動したとして、それでも中国が従来の姿勢を改めなかった場合、米中対立は抜き差しならぬ事態に至ります。

わたしの見るところ、現在の米中対立の根本的な原因は米中の相互理解不足とその結果としての相互信頼の欠如です。

日本はいまから80年前に追い詰められて対米開戦を決断しました。

中国が同じような轍を踏まないために日本がすべきことは欧米に同調して対中制裁をすることではなく、米国と中国の双方に対してそれぞれの国柄と考え方の特徴を忍耐強く伝え、対話の機会を積極的に設ける努力をすることではないかと思います。







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