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二〇/一月/二〇二二

あてもなく一人で街を散歩するのが好きだ。音楽を聴きながら、ただひたすらに歩く。途中でバスや電車に乗ることもあるが、全て私の勝手なのがすごく心地いい。この時ばかりは、何も考えず気の赴くままに自分を好きにさせてやる。時間や他人に干渉されず過ごしたい時もあるだろう。夢中になって街のいいところを探している時は、心が安らぐ気がする。四方八方に意識を巡らせて、何か面白いものはないかと探してみる。私は、常にそこにあるわけではないものが好きだ(私が常にそこにあるものではないと認識する時)。そして、”見て”という主張が少ないものが好きだ(その時々により捉え方は変わる)。例えば、差し込んだ太陽の光の色が変わっていく様子とか、或いはそれらが作り出す影。繁華街の路地に密集する店の賑やかな光。シンメトリーなもの。左右対称なものは大好きだ。見ていて気持ちがいい。とても綺麗で神秘的だと思う(実際神秘的なものと通じていると考えている、鏡合わせにすることもシンメトリーとする)。それに、植物も鉱石も好きだ。効率的で無駄のないデザイン。人が持つことのできない鮮やかな色、匂い。多種多様な質感。シンプルな存在意義に入り組んだ歴史が隠されている。また、電信柱にぶら下がるコード(狭い空間に密集して住居があるところの電線は、黒い塊になり空を隠している)や、電車の古めかしい機械音。発車する時の難儀そうな感じがなんとも愛おしいと思う。こんなにガタガタと音を経てて線路の上を鉄の塊が走っているなんて、古い時代の遺産のようにも感じるのだ。いま、私の手にできるもの、周りを囲むもの、身を置いている環境は50年も経てばガラリと様変わりすることだろう。失われる前提があると全てのものが愛しく思えてくる。自分が無くなる存在だということはこの現世もいずれ絶対に失われるという事だ。歴史の中を生きている事を考えるたび、この激動の時代に生を受けたことに対し深い感謝の念が湧いてくる。

tasato

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