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ともにある 『本の読める場所を求めて』全文公開(41)

第8章 おひとりさまが主役になる
㊶ともにある

ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか

姉の結婚式で神父がそう言い放った瞬間に怒り心頭に発し、「異議あり! どうしてふたりの幸福を持ち上げるためにひとりを貶める必要があるんだ!」と野次を飛ばしそうになった。ぐっとこらえた。祝福ムードをぶち壊すわけにはいかない。しかしそれにしたって唐突に発動された暴力みたいな言葉だった。姉の晴れ姿をニコニコ見ていたら後ろからぶん殴られたようで、痛みを感じる前にまず驚く、そして憤怒する、というのが僕に生起した感情だった。その言葉によって傷つく人間がいることが想像できないのだろうか。毎晩、薄ら寒い思いをしながら、「でも、お布団に入ればあったかいもん」とつぶやきながら、寝ている人間がいることを……。僕はその時分、お布団ですらなく、寝袋で寝ていたのだが……。

長らくこの聖書の言葉を、反発すべき、唾棄(だき)すべきものだと思っていた。開店当初、フヅクエは「一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店」と謳っており、僕の「一人」への意識はとても強かった。「二人」への反発もあった。どこかのカフェとかで二人組やグループ客がのんきな顔でぴーぴーとしゃべっている姿に対して、「あいつらは真面目に人生を生きていない。そのくだらないおしゃべりは人生とどう関係あるんだ? 真剣に生きろよ!」というような怒りや軽蔑すら感じていた(あのときはさすがにどうかしていた)。「人はもっと一人の時間を大切にするべきだ!」と、「一人」をことさらに称揚する態度をとっていた。「世間や社会から隔絶された場所で、一人の時間を過ごそうぜ。ストラグルする人の背中を俺は押したいんだ」というような。「ストラグル」がキーワードだった。「みんなが町で暮したり/一日あそんでゐるときに/おまへはひとりであの石原の草を刈る/そのさびしさでおまへは音をつくるのだ/多くの侮辱や窮乏の/それらを嚙んで歌ふのだ」という宮沢賢治の「告別」が支えだった。
その意識は徐々に弱まっていったが、今だってそれはもちろんゼロではないし、今こうやって「告別」を引き写していたらそれだけで目頭が熱くなるようだったから、大切にしたい態度ではあり続ける。ただ、「本の読める店」を考えるときに、「一人」はもはや目指す形を言い表す言葉ではないし、また、「たしかに本の読める状態」は、「二人」に敵意を向け、そして、「二人」を排除しないと守られないものでもない。ストラグルよりも、豊かさ、享楽。キーワードも変化していった。
それとともに聖書の言葉も、違う意味を帯びるようになった。先に引いた節の周囲はこうなっている。

ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸は切れにくい。
「コヘレトの言葉」(4: 9-12)

こうやって読んでみると、夫婦だけの話では全然なかったことがわかる。もっと広く、何かと「ともにある」ことの心強さを言っている。「ともにある」は、夫婦や友人や家族というような、わかりやすく「絆」みたいなものを感じさせるものには限定されない。たとえば会ったこともないネット上の誰かをふと身近に感じることだって「ともにある」状態で、画面の向こうのタレントやアイドルの姿に救いのような感情を抱くことだってそうだろうし、飼い猫のぬくもりを感じることだって言うまでもなくそうだ。信仰心を持つ人にとっては神は大きな「ともにある」存在だろう。読んでいる小説の登場人物がそうなることだって、当然ある。空とか海とかでもいいのかもしれない。映画館が尊い場所なのは、同じ映画を同じ時間に観に来たたくさんの「ともにある」人たちがいるからではないか。なんであれ、やみくもにであれ、「しかし一人ではない」と感じられる状態。それが「ともにある」ということで、そういうものをいっさい欠いた状態をこそ「孤独」と呼ぶのではないか。
人が、生きている時間を豊かなものとして享楽するとき、必ず「ともにある」状態の中にいるのではないか。であるならば、「本の読める店」もまた、「ともにある」が生じる場でなければいけないだろう。

「ひとり」が多数派になる

フヅクエは95%の方が一人で来られる、かなり純度の高いおひとりさまの店だ。読書の時間という性質上、一人で過ごす人が圧倒的に多くなる。なかには親子や夫婦やカップルや友人同士で来て、それぞれに独立した読書の時間を満喫していく人たちもいて、何組か思い浮かぶ顔がある。その人たちを僕は好きだ。でもそれは例外で、二人よりも一人のほうが、満足度が高くなるように見える。
一人のほうが、平均滞在時間は長く、平均客単価は高くなっている。より長く過ごし、より多く飲み食いをしている。一人のほうが、より自分を甘やかした過ごし方をしていると言える。
せっかく店に対する気兼ねが取り除かれたとしても、二人になると気兼ねをする対象ができてしまうということかもしれない。本を読んで満足をするまでに必要な時間は人によって異なる。日によっても異なる。映画には終わりの時間が明確にあるが、読書はそうではない。そうなると、一緒に来た人の顔色をうかがってしまう(「もう飽きたかな。そろそろ帰りたかったりするかな」)。飲み食いをするペースにしても、「店から見たおひとりさま」(第4章)でも書いたように、相互に影響を与え合う。一人であれば、ただ自分の欲求のままにオーダーすればいいが、二人だと、一人だけで突っ走りにくい。会計を割り勘で持つこともあるだろうし、どちらかが出すこともあるだろうし、金銭的なことだけでなく、飲食欲求の個人差にギョッとする/されるということもあるかもしれない。「え! どれだけ飲むの!?」というような。
会話の問題もある。フヅクエは「おしゃべり禁止の店」という形容をされやすいが、これはしゃべる側の観点でしかなくて、一人で来た人にとっては何も禁止されていない。「しゃべれない」ではなく「本が読める」でしかない。しかし二人だと様相が変わる。たとえ揃って本を読むつもりで来ていたとしても、二人でいるという状況における自然な振る舞いの中には、しゃべるということが内蔵されている。面白いことがあったら、つい話しかけたくなってしまう。しかしフヅクエではそれができない。二人は一度剥がされて、それぞれ一人で過ごすという、不自然な設定をし直すことを強いられる。二人の場合、よほど気の置けない関係であり、かつ、よほどしっかりとしたコンセンサスが取れていないと、そして、「ゆっくり本を読みたい」という欲望を同じ強度で持てる相手とでないと、何かしらのアンバランスさ、気兼ねが生じるように見える(そして繰り返しいらっしゃる二人組の方々というのは、見事にそれをクリアしているように見える)。
だから「本の読める店」は、一人で過ごすほうがより自然な選択となる。そしておひとりさまが圧倒的多数派になる。おひとりさまが主役になる。
でも、マジョリティになったということだけで得られる安心や心強さなんて、たかが知れている。本質はそこにはない。





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