見出し画像

おわりに 『本の読める場所を求めて』全文公開(56)

第10章 見たい世界をきちんと夢見る
56 おわりに

いずれにしろ真紀さんの読み方は読書感想文に代表されるある種の義務から最も遠い読み方で、ぼくはだいたいそんなことを言った。
「だって、もう読むだけでいいじゃない。何読んだって感想文やレポート書くわけじゃないんだし。読み終わっても何も考えたりしないでいいっていうのは、すごい楽なのよね」
 つまりいつのころまでかは知らないが、真紀さんにとって読むということは読んだあとに何かをまとめることと結びついていたということを意味しているのだが、いまはそれがなくなった。そしてこの人はふつう人がなかなか読もうとしない長い長い話や哲学のなかでもしつこいタイプのものを読んでいる。
 真紀さんは人にビデオは見ると言っても本を読むとはあまり言っていないだろうと思った。「あれ読んだ? あたしも読んだ。良かったわよね」とか「あれ読んだの? 良かった? ふうん。じゃあ、あたしも読もう」という種類の会話で出せる本ではないから言ってもしょうがない。
 ぼくは言った。
「真紀さんこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ─、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい─っていうわけだ」
「だって、読むってそういうことでしょ」
             保坂和志『この人の閾』(新潮文庫)p.68-69


僕にとって読書はこれが全部だ。何かを学んだり、まとめたり、人と感想を言い合ったりすることを前提としないで、ただ読むだけ。読んでいるあいだに頭の中で上演される発語や身振りや風景や思考を追って、その時間を楽しむだけ。ただそれをし続けていたい。
全部と言った矢先に失礼するが、もうひとつあるとしたら、読書という行為を通して僕は、自分がたしかに生きてきたという事実、生きてきた時間、記憶、それがふわふわと飛んでいってしまわないように楔(くさび)を打ち込んでいるのかもしれない。読書という行為を通して人生に、目印をつけながら歩いているのかもしれない。
本を買って読んで本棚に並べるという行為は、一冊一冊の記憶をしまっていくようでもあるし、それが集積された本棚という場所は、人生の膨大な記憶が棲みつくビオトープのようにも思えてくる。その背表紙に指が触れた瞬間、いや目が触れた瞬間、ざわざわと息づくものがある。息づきは、思いもよらない記憶の連鎖を呼び込んだりもする。
ある本を見れば、そこに書かれていたことはなにひとつ思い出せなかったとしても、あるいはその本自体に特に思い入れがあるわけではなかったとしても、読んだきっかけや買ったときのこと、開いていたときの具体的な場面、その時期の気分、そういうものが勝手に思い出される。

明るい午後の図書室(ズッコケ三人組)、ソニックシティでの塾の集会とその日の夕飯の干物(TUGUMI)、受験期の平日の冬の宇都宮線(白河夜船)、栃木の歯医者の駐車場と早くして亡くなった叔母の笑顔(「死の医学」への序章)、地下の広場とオーディオ・アクティブの赤いMD(ノルウェイの森)、ピンクの表紙の不便な手帳(罪と罰)、真夏の祖母の家の二階の板張りの部屋とベランダ(グロテスク)、ナンバーガールのライブに向かうゆりかもめ(クイック・ジャパン)、深沢くんと遭遇した渋谷のブックファースト(夢十夜)、帰宅ラッシュの京王井の頭線(夢を与える)、mixiで知り合った年長男性の家の昼下がりと本の詰まった紙袋(四十日と四十夜のメルヘン)、無印の無地の四六判のノート(ドンナ・アンナ)、アレッポのホテルと仮病(ポロポロ)、晩秋のアーケード街と開演前のバウスシアターとそこで流れていたニック・ドレイク(グリーンバーグ批評選集)、新宿南口のスタバの夜のテラス席(ニッポンの小説)、日中の京橋のスタバのやはりテラス席と映画美学校(友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌)、下北沢のミスド(映画旅日記)、羽田空港に向かう朝の相鉄線(失われた時を求めて)、地震が起きた日の夜の啓文社の駐輪場(オスカー・ワオの短く凄まじい人生)、桜の時期に川を見ながらつまんだフライドポテトと生ビール(ディスコ探偵水曜日)、ぼろぼろ泣いていたタリーズの喫煙席(盆栽/木々の私生活)、奈良のゲストハウスの二段ベッド(2666)、店の薄暗い地下室と差し込んでくる光(密偵)、早朝の大宮の喫茶店で飲む薄いビール(新宿駅最後の小さなお店ベルク)、工事中の日々の真夏の実家の白いボコボコした壁紙(ドン・キホーテ)、真夜中の代官山蔦屋書店(ペスト)、閉店後の店内で不安に押しつぶされそうになりながらソファに丸くなって(ただ影だけ)、温かい冬の日のTitleとその道中(パリはわが町)、くぐつ草の壁側の席で隣の席から聞こえてきたデンマークの話(坂の途中の家)、日暮里駅前の広々とした喫茶店と風呂上がりの乾燥肌(ムッシュー・パン)、久我山の夜中の公民館の弱い光(オン・ザ・ロード)、引っ越した部屋に買って帰った祝いの白い缶ビール(ある作家の日記)……
本を見れば何かを思い出すし、何かを思い出せば本の存在がちらつく。
これは僕の場合が本であるというだけで、他の趣味の人にもそれぞれの記憶のキーがあるだろう。ただ、読書と記憶の相性がいいのもまたたしかで、本はどこにでも持ち運べる。そして、本はたいていの場合、数時間ではなく数日、数週間、一カ月、あるいはもっと、そういう付き合いになる。一定の幅を持った時間をともにすることで、ある一日、ある日々、ある時期の記憶を本が代表すること、つまり本自体が記憶を持つようになるのは、自然なことに思える。読書こそが最大の娯楽であり生きる糧である僕としては、これはうれしい副産物だ。

いつか、この本を読んだ時間が誰かにとっての「ある記憶」になったら、こんなにうれしいことはありません。
本は時空を超えます。この本の前にいるあなたの今がいつで、そこがどこなのか、まるで見当もつきませんが、「本の読める場所」の調子はどうですか? フヅクエはまだ存在していますか? なんであれ、2020年の東京、僕が生きている今ここよりも、あなたがいる今そこが、本を読む人にとってより豊かな世界になっていることを祈っています。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?