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いつも一人でべつな場所に行ってしまう 『本の読める場所を求めて』全文公開(27)

第4章 長居するおひとりさまとしての本を読む客
㉗いつも一人でべつな場所に行ってしまう

現存する日本最古の印刷物は「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」というお経で、これは西暦770年に完成したそうだ。一瞬「日本最古、そんなものか?」とも思ったが、グーテンベルクの活版印刷技術の発明が15世紀だから、やはりたいしたものだ。1200年以上ものあいだ、この印刷物は同じ文字を映し続けているわけで、歳月の長さを考えようとすると途方もない気持ちになる。

本というプロダクトは不変性を持っている。ある本が映し出しているものは、常に/いつまでも、その本の中身だけだ。

他方、パソコンであれスマートフォンであれ、ディスプレイが映し出すものは言うまでもなく可変的で、僕は今パソコンでテキストエディタを開いているわけだが、1分後にはツイッターを見ているかもしれないし、プロ野球の記事を読んでいるかもしれない。今、隣の人が見ているスマホの画面も、くるくる変わる。もしかしたら、同じ野球の記事を見ているなんてこともあるかもしれない。

パソコンやスマートフォンの画面の可変性が人にもたらすものの中に、「同じものを見ているかもしれない/見ることができるかもしれない」という淡い連帯の感覚があると言ったら極端だろうか。乗っている電車が緊急停止したとき、一斉にスマートフォンが取り出され、一呼吸置いて顔が上げられ、ふと前の人と目が合う。「○○駅で人身事故みたいですね」「ですね」と言い合う、あの感じ。

もちろん、たとえば僕が見ているテキストエディタにしても、あるいはメッセージングアプリでのやり取りにしても会員制のウェブサイトにしても、すべての人がアクセスできるわけではない領域というのはそれこそ広大にあるわけだが、しかしどこまでも、「でも見ているのはツイッターかもしれない」の可能性はゼロにならない。このことが、パソコンやスマートフォンを開いている人間の周囲に(そんなことを考えている人はいないだろうが、潜在的に)安心感を与える効果がある。たとえ微弱ではあれど、つながりを担保し続けてくれる。

ところが紙の本は、その本の内容以外を映し出している可能性を持たない。ということは、その本を読むためにはその本を実際に手にしなければならない。しかしよほどの偶然でもない限りは、その本が自分のバッグに入っていることはない。つまり、同じ空間に居合わせた人が読んでいるその本の内容に、その本を持っていない人がアクセスできる可能性は奪われている。

今、あの人が読んでいる本にアクセスできるのはあの人だけ。この排他性。ざわつく車内で、誰もが緊急速報を見るためにスマホを出す中で、本を開き続けている人。「あいつだけは確実に同じものを見ていない」「俺が今あいつと同じものを見ることは決してできない」。この不穏さ。同じものにアクセスするためには、「差し支えなければその本を一緒に読ませていただけませんか?」と言って頬が触れ合うところまで顔を寄せるしかない……。

コミュニケーションに対するバリア、アクセス権の占有。読書をする人は極端にクローズドな存在だ。読書のこの排他性と比べたら、パソコンを広げる人なんてほとんど完全にオープンな存在とすら思えるほどだ。

正直に言えば、テレビを長時間見る人間は暇で孤独か知性がないかのどちらか(あるいは両方)だと決めつけて、内心軽蔑していた。だから夫が休みの日は終日(平日も毎朝、毎晩)テレビを見ることに、最初はひどく戸惑った。でもいまは、それをある種の優しさだと感じられるようになった。すくなくとも、本ばかり読んでいられるよりはずっとましだ。テレビならば夫がいま何を見ているのかわかるし、一緒に見ることもできる。
「お部屋にあんなお風呂がついてるの?」
と言うこともできるし、
「この人は女優さんなの? それとも昔のアイドル歌手か何か?」
と訊くこともできる。たぶん、“共有”の問題なのだ。テレビを見ている夫を、渚はいまここにいると感じることができるが、本ばかり読んでいた稔のことは、そばにいてもいないようにしか感じられなかった。渚をそこに置き去りにして、いつも一人でべつな場所に行ってしまうようにしか─。
   江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』(角川春樹事務所)p.105




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