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会話のない読書会@○○『本の読める場所を求めて』全文公開(53)

第10章 見たい世界をきちんと夢見る
53 会話のない読書会@○○

「会話のない読書会」は毎月10・20・30日の夜に開催している読書会で、これは「課題の本を読んできた者同士が集って、感想や学び・気づきを発表し共有する、理解を深め合う」という、おそらく多くがそういうものであるような読書会とは異なり、「同じ本を同じ場所で同じ時間を共有して見知らぬ人たちと一緒に読む。それだけ」というものだ。同じ本を読みたい人たちが集まって、時と場を同じくして、他人同士のまま、読む。
従来の読書会についてまわるいくつかのプレッシャー(「当日までに読まねば」「なにかコメントできそうな箇所を見つけねば」「気の利いた感想を言わねば」……)から解放された、もっと気楽に参加できる読書会があったら自分も参加するのにな、と考えているときに思いついた。

この読書会は、従来の読書会よりは、むしろ映画館で映画を観ることと近い、ユニークな読書体験を提供していると思う。一方で映画館と異なるのは、映画は同じスクリーンを眺めて同じ場面を見続けることになるのに対し、この読書会の場合は、それぞれの視線が向けられるのはそれぞれの持つ本のページになる点だ。寄り集まった10人なら10人が、10冊のディスプレイから同じひとつの書物の世界の中に入り込み、そしてその世界をそれぞれの流儀で探索していることになる。読むスピードはそれぞれ違う以上、読んでいる場面はそれぞれ異なるはずだし、同じ箇所を読んでいたとしても、10人それぞれにとってその世界がどう見えているのか、脳裏に浮かべている光景もそれぞれまったく違うはずだ。登場人物の顔は各人各様だろうし、声や、しゃべり方、体の動き、風景の見え方、全部がきっと違う。
これは、共有のありようとしてはかなりいびつで、「同じ時間」と「同じ本の世界」というふたつのレイヤーを共有しているように見えながら、ふたつめの「同じ本の世界」のレイヤーにある、折り重なりながらも宿命的にズレを孕むその状態をはっきり直視しようとすると、めまいを覚えるような幻惑感がある。ときおりそんなふうに「居合わせた他者が見ている同じ/別の世界」を意識しながら、本の世界にどっぷりはまり込み、あるときふいにまた少しそれを意識し、また戻り……。そうやって進められる読書の時間の集合は、「ともにある」の感覚をより複雑なものにし、より楽しいものにし、普段は味わうことのないような、なにかコズミックなグルーヴとでも呼びたくなるものを場に生起させはしないだろうか、と思いながらやっている。
ごく稀にだがゲストをお招きすることもあり、『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』(NUMABOOKS)のときは著者の滝口悠生さんが来られ、給仕をしていただいた。今まさに読んでいる本の著者に注文し、その著書から飲食物を提供される体験。『雲』(東京創元社)のときは翻訳者の柴田元幸さんに、開演前の時間を使って朗読をしていただいた。本編だけでなく、著者のエリック・マコーマックさんからのまるで掌編小説のような「会話のない読書会参加者へのお手紙」まで読み上げていただき、身震いがした。また、手前味噌だが『読書の日記』とその続刊『読書の日記 本づくり/スープとパン/重力の虹』でも開催し、これは「フヅクエの人がフヅクエの日々を書いた本をフヅクエの人の給仕を受けながらフヅクエで読む」という、やはりへんてこな体験になったはずだ。
この読書会が、いろいろな場所で、やりたい人によっておこなわれていくのもまた、読書の居場所を増やしていくことになると思う。四人くらいが集まってカフェでそういう時間を設けるだけでもそうなるし、どこかの店が一晩限りのイベントとしておこなうのも面白いだろう。著者や出版社が主催するのも、刊行記念イベントのひとつの形としてふさわしいものだと思う。





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